渡り場
警報が鳴りはじめたのは、時計の針が午前二時をわずかにまわった頃だった。
わたしはそのとき、台所の窓辺に立って、湯呑みの底に残った番茶を眺めていた。眠れない夜は、たいてい茶を淹れる。眠るための湯ではなく、眠れぬ時間をやりすごすための湯だ。冷えた茶は、窓ガラスに映るわたしの顔よりも、いくらか濃い色をしていた。
カン、カン、カン、と。
その音は、闇のいちばん深いところから湧いてきた。踏切の警報音だ。赤い明滅が、路地の突きあたりのブロック塀を、規則正しく染めては消していく。わたしの住むこの古い借家は、線路のすぐそばにあって、踏切までは歩いて三十歩もない。だから警報の音には慣れている。慣れているどころか、この音を子守唄のようにして、わたしはもう十年以上も眠ってきた。
けれども、その夜の警報は、あってはならないものだった。
なぜなら、終電はとうに走り去っていたからだ。
この路線の下り最終は零時十八分、上り最終は零時二十六分。それきり、始発の五時前まで、線路の上を走るものは何もない。犬も、猫も、風すら通らぬ、鉄の沈黙の刻。わたしはこの十年、深夜二時の踏切がひとりでに鳴りだすのを、一度も聞いたことがなかった。
カン、カン、カン。
音は止まない。むしろ、闇に慣れた耳には、しだいに大きくなっていくようにさえ聞こえた。わたしは湯呑みを置いて、そっと窓に近づいた。
窓の外は、墨を流したような闇だった。街灯は路地の入口に一本きりで、その乏しい光もこの家までは届かない。ただ、踏切のところだけが、赤くにじんでいた。遮断機の警告灯が、ふたつ、交互に灯っては消える。その明滅が、線路をまたぐ細い道の上に、赤い縞を投げていた。
遮断機は、下りていた。
白と黒の縞に塗られた棒が、道の両側からきちんと下ろされて、闇の中に浮かんでいる。まるで、これから何かが通ります、と告げるように。けれども、通るはずのものなど何もない。上りも下りも、始発まではまだ三時間ある。
わたしは、しばらくその赤い明滅を見つめていた。
見つめているうちに、妙なことに気がついた。踏切の音が、いつもと違うのだ。ふだんの警報は、電車が近づくにつれて音の間隔が変わったり、通過とともにぴたりと止んだりする。けれどもその夜の音は、機械が壊れたようにも聞こえず、かといって電車を報せているようにも聞こえない。ただ、ひたすら、規則正しく、闇に向かって鳴りつづけていた。
まるで、何かを、待っているように。
わたしは羽織りを肩にかけ、つっかけを履いて、外に出た。
外の冷気は、思っていたより深かった。六月の終わりだというのに、線路のほうから吹いてくる風は、冬の朝のように冷たかった。首すじがすっと縮んで、わたしは羽織りの前をかき合わせた。頬に触れる空気が、まるで水のように重い。線路の鉄が、夜のあいだに冷えきって、その冷たさをあたりに撒いているのだろうか。けれども、それにしては、と思った。それにしては、この冷たさは――どこか、湿っている。土の匂いがする。ずっと昔に嗅いだ、掘り返された土の、あの匂いがする。
路地は、しんと静まりかえっていた。近所の家々は、どこも明かりを落として、闇のなかに沈んでいる。犬の一匹も吠えず、風に揺れる木の葉の音さえしない。ただ、あの警報だけが、カン、カン、カン、と、規則正しく鳴っていた。まるで、この世で目を覚ましているのは、あの踏切と、わたしだけであるかのように。
わたしは、ふと、立ちどまった。
背中のほうから、視線のようなものを感じたのだ。振りかえったが、そこには、ただ、闇があるばかりだった。自分の家の、黒い窓が、こちらを見ているように思えた。けれども、それだけだ。気のせいだろう。わたしは、また、歩きだした。
歩きながら、わたしは、奇妙なことに気がついた。足もとの砂利を踏む、自分の足音が、どこか、遠く聞こえるのだ。まるで、自分が、もう半分、この世のものではなくなってしまったかのように。つっかけの下で、じゃり、じゃり、と鳴る音が、耳に届くまでに、わずかな間があるような。その間の、ほんの一瞬の空白のなかに、何か、別のものが、いる気がした。
踏切までは、三十歩。
わたしは、その三十歩を、いつもより長く感じながら歩いた。一歩、また一歩と、赤い明滅に近づくにつれて、冷気はいよいよ深くなり、土の匂いは、いよいよ濃くなっていった。それは、墓地の匂いに、似ていた。あるいは、雨あがりの、掘り返された田の匂いに。この世の、いちばん底の匂いに。
踏切のそばまで来て、わたしは立ちどまった。
遮断機が、目の前で下りている。赤い警告灯が、わたしの顔を交互に照らしては消す。カン、カン、カン、と音は間近で鳴っていて、そのたびに胸の底がわずかに震える。線路は、赤い光の届く範囲だけがかろうじて見え、その先はどちらの方向も、闇に呑まれていた。左を見ても、右を見ても、ただ黒い。電車のヘッドライトなど、どこにもない。
けれども、遮断機は下りている。
わたしは、遮断機のこちら側に立って、ただ待った。何を待っているのか、自分でもわからなかった。ただ、この音が鳴りやんで、遮断機が上がるのを待っていたのだと思う。それとも――やってくるはずのない何かが、闇の向こうからやってくるのを、心のどこかで待っていたのかもしれない。
そのときだった。
足音が、聞こえた。
はじめは、風の音かと思った。けれども、それはたしかに足音だった。何人もの――いや、何十人もの足音が、線路の向こう側から、こちら側へと渡ってくる。じゃり、じゃり、と、砂利を踏む音。それが、ひとつではなく、いくつも、いくつも重なって、闇のなかから湧いてくる。
わたしは、目を凝らした。
赤い光の明滅する、その明かりのふちに、影が見えた。
人の影だった。
ひとり、ふたり、みたり――数えきれない影が、線路の向こう側から、砂利を踏んで、こちら側へと渡ってくる。みな、うつむいていた。誰も顔を上げない。誰も口をきかない。ただ黙々と、砂利を踏み、線路をまたぎ、遮断機の下をくぐって、わたしのすぐそばを通りすぎていく。
けれども、通りすぎていく影の、その足音だけが聞こえて、姿ははっきりと見えなかった。赤い光が明滅するたびに、影は浮かびあがっては消え、また浮かびあがっては消えた。その一瞬ごとに、わたしは影の形を捉えようとしたが、いつも一歩、遅れた。まるで、水のなかに映る月を掴もうとするように。
わたしは、動けなかった。
叫ぼうとしたが、声が出なかった。逃げようとしたが、足が地面に貼りついたように動かない。ただ、目の前を、影の群れが渡っていくのを見ているしかなかった。
彼らは、こちら側に渡ってくると、そのまま闇のなかへ歩み去っていった。路地の入口のほうへ、あるいは、家々の屋根の向こうへ。まるで、行くべき場所を知っているように、迷いなく。けれども、その足取りには、どこか名残惜しさのようなものがあった。ときおり、ひとつの影が立ちどまり、線路のほうを振りかえるのだ。振りかえって、しばらく、じっと闇を見つめる。それから、また歩きだす。
わたしは、それらの影を見ながら、なぜか、こわいとは思わなかった。
いや、こわくなかったと言えば、嘘になる。背すじは冷たく強張り、心の臓は早鐘のように打っていた。けれども、その恐れのなかには、どこか、哀しみのようなものが、まじっていた。渡っていく影たちの、そのうつむいた背中が、あまりに静かで、あまりに寂しげだったからだ。彼らはみな、それぞれに、この世に何かを置いてきた者たちなのだろう、と、わたしは思った。渡りたくても渡れず、丑三つ時が来るたびに、こうして線路をまたぎ、こちら側に来て、また向こう側へ帰っていく。何かを探して。何かを、探しあぐねて。
そのなかには、老いた影もあった。腰の曲がった、杖をついたような影が、ゆっくりと、ゆっくりと、線路を渡っていく。若い影もあった。軍服のような、古い装いの影も。そして、赤ん坊を抱いたような、女の影も。みな、うつむいて、黙って、こちら側へと渡ってくる。この踏切は、いつから、こうして、渡れずにいる者たちの、渡り場になっていたのだろう。わたしがこの家に越してくる、ずっと前から――もしかしたら、線路が敷かれた、その日から、ずっと。
そのうちのひとつが、わたしのすぐ前で立ちどまった。
小さな影だった。子どもの背丈ほどの。
わたしは息をのんだ。その小さな影は、しゃがみこんで、線路の脇の砂利を、手さぐりで探っているようだった。何かを探している。何かを、落として、それを探している。赤い光が明滅するたびに、その小さな背中が浮かびあがる。細い肩が、小刻みに動いている。
「何を、探しているの」
気がつくと、わたしはそう声をかけていた。声が出た。かすれた、細い声だったけれど、たしかに闇に届いた。
小さな影は、動きを止めた。
そして、ゆっくりと、顔を上げた。
赤い光が、その顔を照らした。
わたしは、その顔を、知っていた。
十一年前の、冬のことだった。
その頃、わたしはまだ、この家に越してきたばかりだった。夫を亡くして、都会の暮らしをたたんで、生まれ故郷に近いこの町の、線路のそばの安い借家に、ひとりで越してきた。子どもはいなかった。夫との間に、一度だけ授かった命は、生まれてくることができなかった。だから、わたしはひとりだった。ひとりで、この静かな町で、静かに残りの時間をやりすごすつもりでいた。
けれども、隣家には、家族がいた。
若い夫婦と、小さな女の子。女の子は、たしか、五つか六つだった。名を、みちるちゃんといった。人なつこい子で、わたしが庭で洗濯物を干していると、垣根の向こうから「おばちゃん」と声をかけてきた。母親を早くに亡くした――いや、それはわたしの思い違いだったかもしれない。とにかく、その子は、なぜかわたしになついた。わたしが縁側で茶を飲んでいると、いつのまにか隣にちょこんと座って、いっしょに庭を眺めているような、そんな子だった。
わたしは、その子に、子守唄を教えた。
母から教わった、古い唄だ。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――そんな歌詞の。みちるちゃんは、その唄を気に入って、よく口ずさんでいた。垣根の向こうから、たどたどしいその歌声が聞こえてくると、わたしは、失われた自分の子のことを、少しだけ思い出した。生まれてこなかった子が、もし生まれていたら、こんな声で唄ったのだろうか、と。
その子は、よく、わたしにこんなことを訊いた。
「おばちゃん、星が海をわたるって、どういうこと」
わたしは、答えに困った。母がその唄を教えてくれたとき、わたしも同じことを訊いたのだ。けれども、母は、ただ、笑っているばかりだった。だから、わたしも、その子に、ただ笑ってみせた。
「さあ、どういうことかしらね。でも、きっと、とてもきれいなことなのよ」
すると、その子は、こてんと首をかしげて、それから、にっこりと笑った。
「じゃあ、みちるも、いつか、星が海をわたるところ、見たいな」
わたしは、その言葉を、なぜか、ずっと覚えている。今にして思えば、あの子は、そのとき、もう、どこか遠くを見ていたのかもしれない。この世の子どもが、ふつうは見ないような、遠い場所を。
その子が、線路で亡くなったのは、越してきて二度目の冬だった。
あの日のことを、わたしは今でもはっきりと覚えている。
冬の、よく晴れた午後だった。乾いた風が吹いていて、空は高く、青かった。わたしは庭で、大根を干していた。隣の庭からは、みちるちゃんの歌声が聞こえていた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――と。
その日、みちるちゃんは、片方だけの手袋を探していた。
前の日に、片方をなくしてしまったのだという。赤い、毛糸の手袋だった。母親が編んでくれたものだと、その子は言っていた。だから、どうしても見つけたい、と。わたしは、いっしょに探してあげようと思っていた。あとで、大根を干し終えたら、いっしょに探してあげよう、と。
けれども、わたしが大根を干し終えるより先に、その子は、ひとりで探しに行ってしまった。
手袋は、線路の脇に落ちていたらしい。前の日、踏切を渡るときに、落としたのだろう。その子は、それを見つけて、拾おうとして――
警報が鳴っていたことに、気がつかなかったのか。それとも、手袋のほうに、気を取られていたのか。
わたしが庭から顔を上げたとき、踏切の警報は、けたたましく鳴っていた。カン、カン、カン、と。そして、赤い遮断機の向こうに、小さな赤い点が見えた。しゃがみこんで、線路の脇の何かを、手さぐりで探している、小さな背中。
わたしは、走った。
大根を放りだして、庭木戸を蹴りあけて、路地を走った。声のかぎりに、その子の名を呼びながら。みちるちゃん、みちるちゃん、と。けれども、その声は、警報の音にかき消されて、その子には届かなかったのか。それとも、その子は、母の編んでくれた手袋を見つけることに、あまりに夢中で、ほかの何も、耳に入らなかったのか。
赤い遮断機が、わたしの行く手をふさいでいた。わたしは、その棒に手をかけ、くぐろうとした。けれども、そのとき、闇の向こうから、白い光が、二つ。
ヘッドライトだった。
臨時の、貨物か何かだったのだろう。ダイヤにない、その一本の電車が、その日、その時刻に、その踏切を通った。まるで、あらかじめ、そう決められていたかのように。
わたしは、間に合わなかった。
あと、数歩。あと、ほんの、数歩だったのに。わたしの伸ばした手は、その子の背中に、届かなかった。乾いた冬の風のなかで、白い光と、けたたましい鉄の音と、そして――それきり、わたしの記憶は、白く、途切れている。
気がつくと、わたしは、線路の脇に、へたりこんでいた。手のなかには、何もなかった。ただ、指先が、冷たい砂利に触れていた。空は、あいかわらず、高く、青かった。残酷なほどに、青かった。
その日から、わたしは、この踏切のそばに住みつづけている。
引っ越そうと思ったことは、何度もある。この音を聞くたびに、あの日のことを思い出してしまうからだ。カン、カン、カン、という警報の音は、わたしにとって、あの子が亡くなった瞬間の音だった。けれども、わたしは引っ越さなかった。引っ越せなかった、と言ったほうが正しいかもしれない。
なぜなら、あの子は、まだ、あの手袋を見つけていないような気がしたからだ。
片方だけの、赤い毛糸の手袋。あの子が、母親に編んでもらった、たった一組の手袋の、片方。それを、あの子は、線路の脇に落としたまま、逝ってしまった。もう片方は、たしかあの子の手に握られていた。棺のなかに、その片方だけの手袋が、いっしょに納められたと聞いた。けれども、対になるもう片方は、ついに見つからなかった。
わたしは、何度も探した。線路の脇を、砂利のあいだを、雑草の根もとを。けれども、赤い手袋は、どこにもなかった。おそらく、電車に巻きこまれて、どこかへ飛んでいってしまったのだろう。あるいは、線路の下の、砂利の底深くに、埋もれてしまったのか。
見つからないまま、十一年が過ぎた。
その、十一年目の、丑三つ時に。
赤い光に照らされたその顔は、まぎれもなく、みちるちゃんだった。
五つか六つの、あの頃のままの顔。人なつこい、まるい頬。けれども、その目は、どこか遠くを見ているようで、わたしを見ていながら、わたしを通りこして、もっと遠い場所を見ているようだった。
「みちるちゃん」
わたしは、その名を呼んだ。十一年ぶりに、その名を、声に出して呼んだ。
小さな影は、こてんと、首をかしげた。それは、生きていた頃、その子がよくした仕草だった。わたしが何か言うと、いつも、そうやって首をかしげて、それから、にっこりと笑うのだ。
けれども、その夜の影は、笑わなかった。
ただ、じっと、わたしを見つめた。それから、ゆっくりと、線路の脇を指さした。砂利の、ある一点を。
「手袋、まだ、探しているの」
わたしがそう言うと、影は、こくりとうなずいた。
それから、また、しゃがみこんで、砂利を手さぐりで探しはじめた。細い指が、冷たい砂利のあいだを、探る。けれども、その指は、砂利に触れているようで、触れていないようでもあった。まるで、この世のものに触れることが、もう、できなくなってしまったかのように。
わたしは、遮断機に手をかけた。
遮断機の下をくぐろうとして、わたしは、ふと、ためらった。
これは、渡ってはいけない場所ではないのか。丑三つ時に、警報が鳴り、遮断機が下り、渡れずにいる者たちが向こう側へ渡ろうとしている、この線路を――生きているわたしが、渡ってもいいのだろうか。
けれども、あの小さな背中を見ていると、ためらいは消えた。
あの子は、まだ、あの日の午後のまま、手袋を探している。十一年ものあいだ、ずっと。この丑三つ時が来るたびに、線路を渡って、こちら側に来て、片方だけの手袋を探して、そして、見つけられないまま、また向こう側へ帰っていくのだろう。他の影たちのように、ちゃんと渡りきることも、行くべき場所へ行くこともできずに、ただ、この踏切のあたりを、さまよいつづけているのだろう。
なぜなら、あの子は、まだ、この世に、片方の手袋を置いてきてしまったから。
対になるはずのものが、片方だけ、残されている。
だから、あの子は、渡れないのだ。
わたしは、遮断機の下をくぐった。
くぐったとたん、あたりの空気が変わった。踏切のこちら側と向こう側とでは、まるで別の世界のようだった。冷気が、いっそう深くなった。土の匂いが、濃くなった。そして、警報の音が――カン、カン、カン、という音が、どこか遠く、水のなかで聞くように、こもって聞こえた。
わたしは、砂利の上に膝をついた。
みちるちゃんの、小さな影のとなりに。
「いっしょに、探そう」
わたしがそう言うと、影は、顔を上げて、わたしを見た。
赤い光が明滅するたびに、その顔が浮かんでは消える。わたしは、砂利のあいだに手を差し入れた。冷たかった。指先が、たちまち感覚を失うほどに。けれども、わたしは探した。あの子が指さした、その一点のあたりを、丁寧に、丁寧に。
砂利。小石。錆びた釘のかけら。枯れた雑草の根。冷えきった鉄の枕木。指先が、それらに触れるたびに、十一年前のあの午後が、よみがえってくる。乾いた冬の風。青い空。大根の白さ。そして、みちるちゃんの歌声。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――。
冷たかった。砂利のあいだに差し入れた手は、もう、感覚がなかった。けれども、わたしは、探しつづけた。この十一年、探しつづけたように。あの日から、わたしは、何度も、この線路の脇を探した。昼のうちに。人目を避けて。しゃがみこんで、砂利のあいだを、雑草の根もとを。けれども、いつも、見つからなかった。赤い手袋は、どこにもなかった。まるで、この世から、消えてしまったかのように。
だから、わたしは、思っていたのだ。もう、見つからないのだ、と。あの子の探しものは、永遠に、見つからないのだ、と。そして、あの子は、永遠に、渡れないのだ、と。
けれども、今夜は、違った。
今夜は、あの子が、いっしょにいた。あの子が、指さしてくれた。あの子が、いっしょに、探してくれた。そして、あの子は、いっしょに、唄ってくれた。
わたしは、探しながら、その唄を、口ずさんでいた。
いつのまにか。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
そのとき、となりで、小さな声がした。
眠れ、眠れ――と。
みちるちゃんが、いっしょに、唄っていた。
十一年前と、同じ、たどたどしい声で。けれども、その声は、風のように薄くて、聞こえているのか、聞こえていないのか、わからないほど遠かった。それでも、たしかに、その子は、唄っていた。わたしといっしょに。あの頃のように。
わたしは、涙が出そうになるのを、こらえた。
こらえながら、探しつづけた。
どれくらいのあいだ、そうしていただろう。
警報は、鳴りつづけていた。カン、カン、カン、と。赤い光は、明滅しつづけていた。冷気は、いよいよ深く、わたしの膝はもう感覚がなかった。それでも、わたしは探しつづけた。みちるちゃんも、探しつづけた。ふたりで、無言で、ただ砂利のあいだを探った。
ふと、わたしは、顔を上げた。
なぜだか、空を見上げたくなったのだ。
踏切の先の空に――家々の屋根の、その向こうの空に、一つの星が、懸かっていた。
蒼い星だった。
冴えた、蒼い光の尾を、長く引いて。夜のいちばん深いところに、その星は、ひっそりと懸かっていた。ほかのどの星よりも、蒼く、澄んで、まるで、この世とあの世の境を、そっと照らしているように。
わたしは、その星を、知っているような気がした。ずっと昔、母が、その星のことを話してくれたことがあった。あれはミラという星だよ、と。一度だけ、空を横切って、それから、もう二度と、同じようには帰ってこない星だよ、と。
その蒼い光が、線路の上に、うっすらと降りていた。
赤い警報灯の明滅のあいだに、その蒼い光だけが、静かに、変わらず、そこにあった。
そして、その蒼い光に照らされて。
わたしの指先が、砂利のあいだに、何か、柔らかいものに触れた。
それは、赤い毛糸の手袋だった。
片方だけの、小さな手袋。
十一年のあいだ、砂利の底に埋もれていたはずのそれは、まるで、ついきのう落としたばかりのように、鮮やかな赤い色をしていた。毛糸の一本一本が、ほつれもせず、汚れもせず。わたしは、それを、そっと、砂利のなかから、掘り出した。
手袋は、冷たかった。けれども、その冷たさのなかに、なぜか、かすかな、ぬくもりのようなものがあった。編んだ人の、指のぬくもりが、まだ、そこに残っているような。
「あった」
わたしは、震える声で言った。
「みちるちゃん、あったよ。手袋、あったよ」
小さな影が、顔を上げた。
そして、蒼い光と赤い光の、そのあわいのなかで――
その子は、笑った。
こてんと首をかしげて、それから、にっこりと。あの頃の、あの、人なつこい笑顔で。わたしが縁側で茶を飲んでいると、いつのまにか隣に座って、こちらを見あげて笑った、あの笑顔で。
わたしは、手袋を、その子の手に、そっと握らせた。
握らせようとした手は、けれども、何にも触れなかった。
わたしの手のひらは、空をつかんだ。みちるちゃんの手は、そこにあるようで、なかった。影は、影のままで、この世のものに触れることは、もう、できなかった。
けれども。
わたしが、片方だけの手袋を、その子の手のあたりに差し出したとき――
みちるちゃんは、もう片方の手袋を、握っていた。
いつのまに、どこから、それを取り出したのか、わたしにはわからなかった。棺のなかに納められたはずの、あの片方。それを、その子は、右手に握っていた。そして、わたしの差し出したもう片方が、蒼い光のなかで、ふっと、その子のほうへ引き寄せられていくのが見えた。まるで、対になるものが、ようやく、めぐりあうように。
両手に、赤い手袋を、ひとつずつ。
みちるちゃんは、それを、胸の前で、そっと合わせた。
対になった、二つの手袋。片方だけだった手袋が、ようやく、もう片方に出会った。十一年ものあいだ、離ればなれになっていた、二つが。
その子は、それを、じっと見つめた。
それから、わたしを見て、もう一度、笑った。
「おばちゃん、ありがとう」
たしかに、その声が、聞こえた。
風のように薄い、けれども、たしかに、その子の声で。
警報が、変わった。
カン、カン、カン、という音が、ふいに、やわらいだ。まるで、張りつめていた糸が、ゆっくりとほどけていくように。赤い光の明滅が、しだいに、ゆるやかになっていく。
みちるちゃんは、立ちあがった。
そして、線路のほうを、向こう側を、振りかえった。
向こう側には、まだ、影の群れが残っていた。渡りきれずにいた者たちが、闇のなかで、じっと、こちらを見ていた。けれども、その影たちは、もう、うつむいてはいなかった。みな、顔を上げて、みちるちゃんのほうを見ていた。まるで、その子が、ようやく渡れることを、いっしょに、喜んでいるように。
みちるちゃんは、線路をまたいだ。
こちら側から、向こう側へ。
砂利を踏む、小さな足音が、じゃり、じゃり、と聞こえた。今度は、その足音は、ためらいなく、迷いなく、向こう側へと進んでいった。手袋を探すために、こちら側へ渡ってきた、あの足音とは、まるで違っていた。行くべき場所へ、ようやく、行けるようになった者の、足音だった。
わたしは、遮断機のこちら側に立って、その後ろ姿を見送った。
見送りながら、わたしは、あの子守唄を、口ずさんだ。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
今度は、死者を送る唄として。あの子が、この世に置いていったものを、ようやく取りもどして、安らかに、向こう側へ渡っていけるように。眠れ、眠れ――と。
みちるちゃんの影は、線路のまんなかで、いちど、立ちどまった。
そして、こちらを振りかえって、手を振った。
赤い手袋をはめた、両手で。
蒼い光と、やわらいだ赤い光の、そのあわいのなかで、その小さな影は、手を振っていた。さようなら、と言うように。それとも、ありがとう、と言うように。あるいは、その両方だったのかもしれない。
わたしも、手を振りかえした。
さようなら、みちるちゃん。さようなら。
やがて、その子の影は、向こう側の闇のなかへ、溶けていった。ほかの影たちも、いっしょに。ひとり、ふたり、みたり――渡りきれずにいた者たちが、みな、その子のあとについて、向こう側の闇へと、静かに歩み去っていった。まるで、その子が先導するように。まるで、その子が、みんなを、あるべき場所へ、連れていくように。
そして、線路の上には、誰もいなくなった。
警報が、止んだ。
カン、という最後の一音が、闇に吸いこまれて、それきり、静かになった。赤い明滅も、ふっと消えた。遮断機が、ゆっくりと、上がっていく。ぎい、という、かすかな軋みの音とともに。
あたりは、もとの闇にもどった。
冷気は、まだ残っていた。土の匂いも。けれども、それは、もう、あの重い、湿った冷たさではなかった。ただの、深夜の、線路の冷たさだった。首すじをなでていく風も、いつもの、六月の終わりの、生ぬるい風にもどっていた。
わたしは、遮断機のこちら側に、しばらく、立ちつくしていた。
手のひらには、もう、何もなかった。あの、片方だけの赤い手袋は、みちるちゃんが、向こう側へ持っていった。もう片方といっしょに。対になって。
わたしは、空を見上げた。
蒼い星は、まだ、そこにあった。
けれども、その光は、もう、さきほどよりも薄くなっていた。まるで、役目を終えたように。この世とあの世の境を照らす役目を終えて、ゆっくりと、朝の空のなかへ、溶けていこうとしているように。
わたしは、その星に、頭を下げた。
家に帰ると、湯呑みの茶は、すっかり冷えきっていた。
わたしは、それを流しに捨てて、新しく、湯を沸かした。眠れぬ時間をやりすごすためではなく、今度は、少しだけ、あたたかいものが飲みたかった。
湯が沸くのを待つあいだ、わたしは、また、窓辺に立った。
踏切のほうを、見た。
赤い明滅は、もう、なかった。ただ、闇のなかに、遮断機の白と黒の縞が、うっすらと浮かんでいるだけだった。線路は、静かに、始発を待っていた。あと三時間もすれば、また、電車が走りはじめる。人々が、その電車に乗って、それぞれの行くべき場所へ、渡っていくのだろう。生きている人々が。
わたしは、ふと、思い出した。
みちるちゃんが、最後に、こちらを振りかえって、手を振ったときのことを。あの、赤い手袋をはめた、両手のことを。
あの子は、もう、探しものを、しなくてもいい。
もう、この踏切のあたりを、さまよわなくてもいい。丑三つ時が来るたびに、渡れずにいる者たちのなかにまじって、片方だけの手袋を探さなくてもいい。あの子は、対になるものを、ようやく取りもどして、あるべき場所へ、渡っていった。
そして、わたしは。
わたしは、たぶん、この十一年、ずっと、この踏切のそばで、あの子を待っていたのだ。あの子が、探しものを見つけて、安らかに渡っていくのを、見とどけるために。だから、引っ越せなかった。だから、この音を、この赤い明滅を、あの子が亡くなった瞬間の音を、聞きつづけながら、それでも、ここに住みつづけていた。
わたしもまた、渡れずにいたのだ。あの日の午後から、ずっと。
湯が沸いた。
わたしは、茶を淹れた。あたたかい湯気が、顔にかかった。窓ガラスに映るわたしの顔は、十一年前より、ずいぶん老けていた。けれども、その顔は、なぜか、憑きものが落ちたように、静かだった。
茶を淹れながら、わたしは、卓の隅に、見なれないものが置かれているのに気がついた。
小さな、藍色の箱だった。
三日月の刻まれた、青いマッチ箱。
わたしは、そんなものを買った覚えはなかった。この家に、そんなものがあった覚えも。けれども、それは、たしかに、卓の隅に、ぽつりと置かれていた。あの子が、置いていったのだろうか。それとも――誰かが。
わたしは、そのマッチ箱を、手に取った。
藍色の紙に、三日月が、白く刻まれている。ちいさな、けれども、たしかな細工だった。裏を返すと、そこには、細い字で、「月光堂」と、そう記されていた。聞いたことのない店の名だった。この町に、そんな店はない。少なくとも、わたしの知るかぎりでは。
けれども、なぜだろう。そのマッチ箱を手にしていると、ふと、路地のいちばん奥の、あの闇のことが、思い出された。踏切の向こう、線路の脇の、雑草の茂った、あのあたり。いつだったか、蒼い星の懸かる夜に、その闇の奥に、ぽつりと、灯りがともっているのを見たような気がした。木の看板のようなものが、うっすらと。けれども、朝になって見に行くと、そこには、ただ、いつもの、荒れた空き地があるばかりだった。
夢だったのかもしれない。それとも――あの晩、渡れずにいた者たちのなかの、誰かが、その灯りのほうへ、歩いていったのだったか。
わたしは、そのことを、深くは考えないことにした。ただ、このマッチ箱は、きっと、あの夜のしるしなのだろう、と、そう思った。あの子が、あるいは、あの子を送りとどけた、何ものかが、わたしに残していった、ささやかなしるし。
引き出しを開けて、なかのマッチを、一本、取り出した。そして、それを擦った。
しゅっ、と、小さな火がともった。
その火は、思いのほか、あたたかかった。橙色の、小さな灯りが、卓の上を、ぽっと照らした。そして、その灯りのなかに――ほんの一瞬、わたしは、見たような気がした。あの、縁側のことを。わたしが茶を飲んでいると、いつのまにか隣に座って、こちらを見あげて笑っていた、あの子の姿を。冬の、乾いた風のなかで、いっしょに庭を眺めた、あの午後を。
火は、すぐに、消えた。
けれども、そのぬくもりは、しばらく、わたしの指先に残っていた。
その夜のことを、わたしは、誰にも話していない。
話したところで、信じてもらえないだろう。深夜二時に、走るはずのない電車の警報が鳴り、遮断機が下り、渡れずにいる死者たちが、丑三つ時にだけ、向こう側へ渡ろうとしていた――などと。そして、そのなかに、十一年前に亡くなった隣の子がいて、その子が、片方だけの手袋を探していた、などと。
けれども、わたしは、知っている。
あの夜、たしかに、あの子は、渡っていった。対になった赤い手袋を、両手にはめて。ようやく、あるべき場所へ。
それから、しばらくして、わたしは、この家を出た。
十一年ものあいだ、離れられなかったこの家を、わたしは、ようやく、離れることができた。あの子が渡っていったのを見とどけて、わたしも、渡ることができるようになったのだ。あの日の午後から、ずっと止まっていた、わたしの時間が、ようやく、また、動きはじめた。
引っ越しの荷物をまとめているとき、わたしは、押し入れの奥から、古い箱を見つけた。
そのなかには、生まれてこなかった、わたしの子のために、わたしが編んだ、小さな毛糸のものが、いくつか入っていた。帽子。靴下。そして、手袋。片方だけ編みかけて、そのまま、編めなくなってしまった、小さな手袋。
わたしは、それを、手に取った。
そして、思った。
あの子――みちるちゃんが、なぜ、わたしになついたのか。なぜ、わたしのところに来て、いっしょに庭を眺め、いっしょに子守唄を唄ったのか。もしかしたら、あの子は、知っていたのかもしれない。わたしが、渡れずにいることを。生まれてこなかった子のことを、ずっと、心のどこかで、待ちつづけていることを。
そして、あの子は、最後に、わたしに、教えてくれたのだ。
探しものは、いつか、見つかる。対になるものは、いつか、めぐりあう。だから、渡っていける。渡れずにいた者も、いつかは、あるべき場所へ、渡っていける。
わたしは、その、片方だけの手袋を、そっと、胸に抱いた。
そして、しばらく、そのまま、動けなかった。
十一年ものあいだ、押し入れの奥に、しまいこんでいたもの。編みかけのまま、編むことのできなかったもの。生まれてこなかった、わたしの子のための、小さな手袋。わたしは、それを見るたびに、胸が張り裂けそうになって、だから、見ないようにして、しまいこんでいた。存在すら、忘れたふりをしていた。
けれども、今なら、わかる。わたしが、みちるちゃんの手袋を、あんなにも探しつづけたのは――片方だけになってしまったものを、あんなにも見つけたかったのは――もしかしたら、この、自分の、片方だけの手袋のためでもあったのだ。対になれなかったものを、いつか、対にしてやりたかった。渡れなかったものを、いつか、渡してやりたかった。
わたしは、その編みかけの手袋を、そっと、あの古い箱にもどした。そして、いつか、と、思った。いつか、わたしも、この手袋のもう片方を、編みあげよう。編みあげて、あの子といっしょに、渡っていこう。そのときが来るまで、これは、こうして、大切に、しまっておこう。
新しい家は、この町から、少し離れた場所にある。
線路のそばではない。踏切の音も、聞こえない。夜は、静かで、深い。
けれども、わたしは、今でも、ときどき、あの子守唄を口ずさむ。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――と。眠りの入口に、その旋律を、そっと寄り添わせて。
そして、丑三つ時に、ふと目を覚ますことがある。
そんなとき、わたしは、窓辺に立って、空を見上げる。あの、蒼い星が、また、懸かっていないかと。この世とあの世の境を、そっと照らす、あの星が。
たいていの夜は、その星は、そこにない。ただ、いつもの、変わらぬ星々が、またたいているだけだ。
けれども、いつか、また、あの星が空を横切る夜が来たら。
わたしは、思うのだ。あの子は、今ごろ、向こう側で、対になった赤い手袋をはめて、あの子守唄を唄っているだろうか、と。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――と。
そして、いつか、わたしが、渡っていく番が来たら。
あの踏切で、あの子が、待っていてくれるだろうか。こてんと首をかしげて、それから、にっこりと笑って。「おばちゃん」と、あの、人なつこい声で、呼んでくれるだろうか。
そのときは、わたしも、片方だけの手袋を、持っていこう。
あの、生まれてこなかった子のために編んだ、小さな手袋を。そして、あの子といっしょに、探そう。もう片方を。対になるものを。渡れずにいた、二つのものが、ようやく、めぐりあえるように。
線路の脇に落ちた、片方だけの手袋を、探しつづける者がいる。
丑三つ時に、警報が鳴り、遮断機が下りる、あの踏切で。渡れずにいる者たちが、向こう側へ渡ろうとする、あの刻に。
もし、あなたが、深夜の踏切のそばを通りかかって、走るはずのない電車の警報を聞いたなら。カン、カン、カン、という、あの音を。そして、赤い明滅のなかに、砂利を手さぐりで探している、小さな影を見つけたなら。
どうか、逃げないでほしい。
その影は、あなたに、危害を加えたりはしない。ただ、探しているだけなのだ。片方だけの、探しものを。対になるはずの、もう片方を。この世に置いてきてしまった、小さな忘れものを。
そして、もし、できることなら――いっしょに、探してあげてほしい。
冷たい砂利のあいだに、手を差し入れて。
蒼い星が、空を横切る、その夜に。
きっと、見つかるから。
そして、その影は、笑うだろう。こてんと首をかしげて、それから、にっこりと。そして、ようやく、渡っていくだろう。あるべき場所へ。対になったものを、両手に握って。
そのとき、あなたは、聞くだろう。風のように薄い、けれども、たしかな、あの声を。
ありがとう、と。
わたしは、今でも、あの夜の冷気を、覚えている。
あの、掘り返された土の匂いを。線路の鉄の冷たさを。赤い明滅を。そして、蒼い星の光を。
けれども、いちばん覚えているのは、あの子の、最後の笑顔だ。
対になった手袋を胸に合わせて、こちらを振りかえって、手を振った、あの姿。さようなら、と言うように。ありがとう、と言うように。あるいは、また会いましょう、と言うように。
草木も眠る丑三つ時に、この世とあの世の境が、いちばん薄れるという。その薄れた境を、渡れずにいた小さな者が、ようやく渡っていったあの夜。わたしは、たしかに、見た。生者と死者が、この世と異界が、しずかに触れ合う、その一瞬を。
そして、思うのだ。
境を渡れずにいるのは、死者だけではないのだと。生きている者もまた、しばしば、渡れずにいる。過ぎ去った日の、あるひとつの午後に、心を置き去りにしたまま。片方だけの手袋のように。対になるものを、探しつづけながら。
けれども、いつかは、渡れる。
探しものは、見つかる。対になるものは、めぐりあう。蒼い星が、空を横切る、その夜に。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
あの子は、もう、眠っているだろうか。向こう側の、あたたかい場所で。両手に、赤い手袋をはめて。
わたしは、そう願いながら、今夜も、そっと、その唄を口ずさむ。この世のいちばん奥の、いちばん静かな刻に。渡っていった、すべての者たちのために。そして、まだ渡れずにいる、すべての者たちのために。
眠れ、眠れ――星が、海を、わたるまで。