月光書房
寅の刻 ・ 夜明け前 ・ 第 二 話

崩れた斜面

五十嵐 冬雪
労働・救助 ・ 約25頁

崩れた斜面

音は、ひとつだった。

低く、腹の底を叩くような、地鳴りにも似た一音。それが山のどこから来たのか、はじめは誰にもわからなかった。ただ、雪をかぶった屋根が一斉に軋み、囲炉裏の灰が細かく震え、寝ていた子が声もなく目を開けた。私が布団を蹴って土間へ降りたとき、村じゅうの犬がまだ吠えていなかった。あの一瞬の、犬さえ黙る静けさを、私は今でも耳の奥に持っている。

それから、遅れて、村が起きた。

戸を叩く音。誰かが叫ぶ声。「上だ」「上の家だ」「善蔵んとこだ」。名が飛び交うたびに、心の臓が縄で締められるように縮んだ。善蔵の家は、集落のいちばん上、山の裾がひとつ緩く盛り上がったところに建っている。その盛り上がりの、ちょうど真上の斜面が――落ちた。

私は、その斜面を知っていた。子どものころから、幾度となく登った。夏には蕨を採り、秋には茸を採り、冬にはあの斜面を橇で滑り降りた。善蔵と二人で、幾度も。あの斜面は、私たちの遊び場だった。その遊び場が、いまや、幼なじみの家を、呑み込んだ。山というものは、こうして、いつか牙を剝く。それを、私たちは知っていながら、その裾で暮らしてきた。雪と暮らすとは、そういうことだった。恵みと祟りとを、同じ手から受け取ること。

去年の暮れも、その前の年も、雪は穏やかだった。だから、油断していたわけではない。ただ、忘れかけていた。山が、いつか、こうして牙を剝くことを。それを、この一音が、思い出させた。腹の底を叩く、あの、たったひとつの音が。

外へ出ると、闇が待っていた。

吹雪だった。空には星ひとつ見えず、雪が横から殴りつけてくる。提灯の火は、点けたそばから風にちぎられそうに揺れた。それでも人の影が、白い闇のなかを上へ上へと登っていくのが見えた。私は足袋の上に藁沓を突っかけ、蓑もろくに着ずに、その影を追った。

雪が、変わっていた。

いつもの、村を包む柔らかな雪ではなかった。斜面の下、善蔵の家があったはずの場所に、山がひとつ、余分に生まれていた。灰色とも白ともつかぬ、ごろごろとした固い塊の山。そこだけ、雪が別の生きもののように盛り上がって、家を、屋根を、囲炉裏の煙突までも呑み込んでいた。私は登りながら、何度も足を取られた。踏んだ雪が、いつものように沈まない。硬い。氷のかけらと、木の枝と、割れた戸板と、それらを練り込んだ雪の塊。雪崩の落ちたあとの雪は、こうも重く、こうも冷たいのかと、私はそのとき初めて知った。

「善蔵ォ」

誰かが叫んでいた。「おきよォ」「留吉ォ」。善蔵の女房と、まだ六つの倅の名だった。声は雪に吸われて、二間先まで届いたかどうか。返事はなかった。あるはずもなかった。それでも人は名を呼ぶ。呼ばずにはいられない。名を呼べば、雪の下の耳がそれを聞くとでもいうように。

私たちは掘りはじめた。

道具など、揃うはずもない。木のスコップ、鍬、鋤、そして手。素手。それでも掘った。屋根のあった見当をつけて、そこから雪を掻き出した。掘れば掘るほど、雪は硬く、氷を含み、鍬の先が跳ね返された。ひと掻きで、盆にひと盛りほどしか動かせない。それを何百回、何千回。

「ここだ」と善蔵の弟の弥平が言った。「兄貴んとこの屋根はここらへんだ。ここを掘れば、下は屋根裏だ。屋根裏に空きがある。そこに空気が溜まってる。だから、生きてる」

生きてる、という言葉を、弥平は呪文のように繰り返した。掘りながら、雪を放りながら、生きてる、生きてる、と。私はその言葉に縋りついて、鍬を振った。

だが、時が経つのはわかっていた。

雪崩に埋もれた者が生きていられるのは、そう長くない。半刻か、一刻か。雪の下は闇で、寒くて、息がだんだんできなくなる。掘り出すのが早ければ助かる。遅ければ――誰も口にしなかった。口にすれば、それが本当になってしまう気がした。

風は、いよいよ強くなった。

掘っても掘っても、風が上から新しい雪を運んでくる。せっかく掻き出した穴に、また雪が積もる。賽の河原のようだ、と誰かがつぶやいた。積んでは崩され、積んでは崩され。私たちは、山の気まぐれと、時の流れと、自分の体力と、三つの敵と同時に戦っていた。

汗が出た。

こんなに寒いのに、汗が出る。掘るという仕事は、体の芯から熱を絞り出す。その熱が、肌に噴き出したとたんに、風に凍らされる。汗が首筋で氷になり、背中で冷えて、体を内から震わせる。着物の下は汗と雪で濡れ、その濡れがまた体温を奪う。掘れば掘るほど、熱くなり、そして冷えていく。生きた体が、火と氷を同時に抱えて、震えていた。

「代われ」

隣で掘っていた茂作が、私の肩を叩いた。掘る者と、雪を運ぶ者と、休む者。三組に分かれて、順に代わる。休むといっても、風の当たらぬ雪陰にしゃがんで、荒い息をつくだけだ。それでも、掘る手を止めれば、たちまち体が冷えきる。休むことすら、闘いだった。

私は雪陰にうずくまり、両手を口に当てて息を吹きかけた。指の感覚が、もうない。掘るときに雪に突っ込みつづけた素手は、赤を通り越して白く、蝋のようになっていた。この指で、あと何回掘れるだろう。ふと弱気が首をもたげた。

弱気は、闇のなかで、いちばん恐ろしい敵だった。

疲れよりも、寒さよりも、この、心の底から湧く声。もう、無駄なのではないか。もう、遅いのではないか。掘っても掘っても、雪しか出てこないではないか。この声が、いちばん、手を止めさせる。腕の疲れは、休めば戻る。だが、いちど心が折れれば、それは戻らない。私は、その声を、噛み殺した。歯を食いしばって、噛み殺した。まだだ。まだ、生きている。弥平の言った、屋根裏の空きに、まだ、命がいる。そう信じねば、掘れなかった。信じることが、掘ることの、いちばんの燃料だった。

見上げれば、空は、まだ厚い雲に覆われて、星ひとつ見えなかった。夜明けの兆しなど、どこにもない。この闇が、永遠に続くようにさえ思えた。だが、そんなはずはなかった。どんな夜にも、朝は来る。どんなに暗い夜明け前にも、必ず、朝は来る。それだけを、私は、頼りに掘った。

もう一度、両手に息を吹きかけ、私は立ち上がった。休む番は、終わっていた。また、掘る番だった。

善蔵とは、幼なじみだった。

同じ年に生まれ、同じ川で泳ぎ、同じ山で薪を拾った。あいつは私より背が低くて、けれど力が強くて、相撲を取ればいつも私が転がされた。転がされて、雪のなかで二人して笑った。あの笑い声を、いま、雪の下から掘り出そうとしている。

倅の留吉は、私を「おじ」と呼んで慕った。実の伯父でもないのに、おじ、おじ、とついて回った。去年の秋、山栗を拾ってやったら、あの子は「おじ、おじは山の神さまか」と真顔で言った。神さまなものか。ただの、雪しか能のない村の男だ。それでも留吉のなかでは、私は少し、神さまだったらしい。

その神さまが、いま、雪を掻いている。留吉を掘り出せなければ、私は神さまでも人でもない。ただ、掘る機械だ。掘れ。掘れ。私は自分に鞭を打った。

「おきよさんは、身重だ」

雪を運びながら、女房のたねが言った。おきよは、二人目を身ごもっていた。腹の子は、まだ生まれていない。あの雪の下で、母と子と、二つの命が息をひそめている。

その言葉が、私たちの手を速めた。二つの命。二つ。掘れ。速く。速く。

だが、体は正直だった。速く掘ろうとすればするほど、鍬が空を切り、氷に弾かれ、かえって力が逃げた。焦れば焦るほど、掘れなくなる。私は歯を食いしばって、一掻きずつ、確かに掘ることに戻った。速さではない。止めぬことだ。ひと掻き。またひと掻き。この一掻きが、雪の下の命に、ほんの少し近づく。そう信じて、掘りつづけるほかなかった。

隣で掘る者の、荒い息が聞こえた。

弥平の息。茂作の息。名も知らぬ、麓から駆けつけた男の息。みな、白い息を吐きながら、無言で掘っていた。もう、誰も、名を呼ばなかった。名を呼ぶ余裕さえ、なくなっていた。ただ、鍬の音と、雪を放る音と、荒い息だけが、闇のなかに、規則正しく響いていた。しゃく、と雪を割る音。ざっ、と雪を放る音。はっ、はっ、という息。その三つの音が、まるで、大きなひとつの生きものの、心の臓の鼓動のように、闇に脈打っていた。

私たちは、もはや、ばらばらの人間ではなかった。ひとつの、掘るという意志に、溶け合っていた。誰が善蔵の身内で、誰が他人か。そんなことは、もう、どうでもよかった。ただ、雪の下に命がある。それを掘り出す。その一事に、村じゅうの体と息とが、束ねられていた。掘るとは、こういうことだった。ひとりでは、掘れない。ひとりの腕は、すぐに萎える。だが、腕と腕とを継いでいけば、ひと晩でも、掘りつづけられる。ひとりの萎えを、次の者が継ぐ。その継ぎ目に、命は、繋がれていく。

雪を放りながら、私は、ふと、思った。人が生きるとは、こういうことなのかもしれない。誰かの萎えを、誰かが継ぐ。喪ったものを、誰かが埋める。その継ぎ目の連なりが、村というものを、幾百年も、この雪深い山のなかに、生かしてきたのだ。

どれほど掘っただろう。

空はまだ暗い。夜明けの気配など、どこにもない。吹雪は少し弱まったが、雲は厚く、闇は濃い。時を告げる鶏も、この吹雪では鳴かぬ。私たちは、時間の見当さえつかぬまま、ただ穴を深くしていった。

穴は、私の背丈ほどになった。

そこまで掘っても、屋根の板一枚、出てこない。弥平の見当が外れたのか。それとも、家ごと、もっと下へ押し流されたのか。掘るたびに、その恐れが胸に湧いた。もし、掘っている場所が違っていたら。私たちは、命のない雪を、必死に掻き出しているだけかもしれない。

「弥平、ここでいいのか」

誰かが問うた。弥平は答えなかった。答えられなかったのだと思う。兄の家の見当を、雪に埋もれた地形から読み取ることの、なんと頼りないことか。私たちは、闇のなかで、当てずっぽうの祈りを掘っていた。

見当というものは、恐ろしい。

もし、外れていれば、私たちは、命のない雪を、ひと晩じゅう、掻き出しているだけになる。そのあいだにも、雪の下の命は、刻々と、消えていく。掘る場所を、間違えれば、それは、命を、見殺しにすることと、同じだ。だが、正しい場所など、この闇のなかで、誰にわかろう。私たちは、弥平の見当に、すべてを、賭けていた。弥平の記憶に。兄の家の、屋根の、傾きの、かすかな記憶に。

雪は、地形を、覆い隠す。見慣れた村を、一夜にして、別のものに変える。目印になるはずの、松の木も、地蔵も、みな、雪に埋もれて、見えなくなる。その、見えない村のなかで、弥平は、ただ、体で覚えた記憶だけを頼りに、兄の家の在り処を、探っていた。何十年、この村で暮らした、その体の記憶だけを。私は、その記憶を、信じるほか、なかった。信じて、掘るほか。

そのとき、鍬の先が、木に当たった。

こつん、と。硬い、しかし氷とは違う、乾いた音。私たちは息を呑んだ。

「板だ」と弥平が叫んだ。「屋根板だ。ここだ。ここで合ってた」

その一声で、萎えかけていた腕に、火が点った。私は素手で、板の周りの雪を掻いた。氷混じりの雪が、爪の間を割り、指の皮を裂いた。血がにじんだが、痛みは感じなかった。感じている暇がなかった。板だ。屋根だ。この下に、家がある。人がいる。

屋根板を、一枚、剥がした。

そこから下は、暗い空洞――ではなかった。雪が、屋根板の隙間からも入り込み、屋根裏を半分ほど埋めていた。だが、半分は、空いていた。その空きに、空気があった。命を繋ぐ、わずかな空気が。

「善蔵ォ」弥平が穴に顔を突っ込んで叫んだ。「善蔵、留吉、おきよさん、聞こえるかァ」

返事は、なかった。

穴の底は、闇だった。提灯を差し入れても、その光は雪と板に遮られ、奥まで届かない。私たちは屋根板を、二枚、三枚と剥がしていった。剥がすたびに、雪を掻き出し、また剥がす。屋根裏は、思ったより浅かった。すぐに、天井板が現れた。囲炉裏の間の、天井だ。

天井板を割った。

そこから下が、住まいだった。人が、寝て、起きて、飯を食っていた場所。いまは、雪と闇と、崩れた梁で埋まっていた。

「善蔵」

私は、はじめて自分の声で名を呼んだ。喉が嗄れて、蛙のような声しか出なかった。「善蔵、留吉、おきよ。返事してくれ。頼む」

雪の下から、音がした。

かすかな、けれど確かな音。とんとん、と、何かを叩く音。人の手が、雪の壁を、内から叩いていた。

「生きてる」茂作が叫んだ。「生きてるぞ。誰か、生きてるぞ」

私たちは、狂ったように掘った。音のするほうへ。音のするほうへ。雪を掻き、梁をどけ、板を割った。音は、だんだん近くなった。とんとん。とんとん。その音が、いまは私たちの心の臓の音と、ひとつになっていた。

最初に掘り当てたのは、留吉だった。

囲炉裏の間の、隅のほう。倒れた膳棚が、屋根のように子の上に覆いかぶさり、その下に、わずかな空きを作っていた。その空きに、留吉はいた。膝を抱えて、丸くなって。

「留吉」

私はその小さな体を、雪の下から抱え上げた。冷たかった。氷のように冷たかった。だが、その体が、私の腕のなかで、かすかに動いた。

一瞬、私は、息が止まった。動いた。この子は、動いた。生きている。掘り出したのが、亡骸ではなかった。その安堵が、掘りつづけた腕の疲れを、一瞬にして、消し飛ばした。腕に、力が、戻った。この子を、抱えられるだけの力が。私は、留吉を、しっかりと、胸に抱いた。落とすまいと。二度と、雪に、渡すまいと。

「……おじ」

留吉が、目を開けた。うっすらと、まぶたを持ち上げて、私を見た。「おじ……来て、くれた」

「来た。来たとも。おじが来た。もう大丈夫だ」

私は、そのとき初めて、泣いた。掘りながら流していたのは汗だった。だが、そのときこぼれたのは、汗ではなかった。留吉を抱く腕が震えた。この子は、生きている。神さまなものか。それでも、この子のために、私は雪を掘った。掘ってよかった。

留吉の、右手を見た。

小さな手に、片方だけ、手袋がはめてあった。毛糸で編んだ、赤い手袋。左手は、素手だった。おきよが編んでやったものだろう。逃げるとき、片方だけ、はめる暇があったのか。それとも、暗い雪の下で、冷える手を守ろうと、残った一方を必死に握りしめていたのか。片方だけの手袋。その赤が、雪の白のなかで、命の色のように見えた。

私は、その子を、雪陰へ運んだ。たねが蓑を広げ、留吉をくるんだ。まだ死んでいない。まだ、間に合った。ひとりは、間に合った。

だが、まだ、二人いた。

善蔵と、おきよ。腹の子を入れれば、三つの命。私は留吉を託して、また穴へ戻った。掘る手は、もう感覚がなかった。指が動いているのかどうか、目で確かめねばわからなかった。それでも、掘った。留吉が生きていた。ならば、あとの二人も。おきよの腹の子も。

「善蔵」私はまた名を呼んだ。「善蔵、返事しろ。留吉は無事だ。おまえの倅は無事だ。だから、おまえも生きろ」

返事は、なかった。

さっきまで聞こえていた、とんとん、という音も、いつのまにか止んでいた。その静けさが、恐ろしかった。あの音は、留吉が叩いていたのか。それとも――考えるのをやめて、私は掘った。恐れは、掘ることでしか、打ち消せなかった。

囲炉裏の、灰のあたり。そこを掘っていた弥平が、動きを止めた。

「兄貴だ」

倒れた梁の下に、善蔵がいた。梁が、肩と胸を打っていた。梁の重みで、雪と一緒に押しつぶされ、そのまま動けなくなったのだろう。私たちは、梁を持ち上げた。四人がかりで、渾身の力を込めて。梁は、少しずつ、動いた。

善蔵を、引き出した。

顔に触れた。冷たかった。留吉の冷たさとは、違った。留吉のは、まだ火の残る氷の冷たさだった。善蔵のは――私は、頬を張った。「善蔵。善蔵。起きろ」

まぶたを、こじ開けた。目に、光は、なかった。

胸に、耳を当てた。何も、聞こえなかった。手首を、握った。脈は、なかった。私は、善蔵の頬を、両手で、包んだ。温もりを、分けてやろうとするように。だが、私の手も、とうに、凍えていた。冷たい手で、冷たい頬を、包んだところで、何が変わるだろう。それでも、私は、包まずにいられなかった。善蔵。善蔵。おまえは、いつも、私より、力が強かった。相撲で、私を転がした。なのに、なぜ、この梁に、負けた。なぜ、この、雪に。

弥平が、兄の胸にすがりついた。

「兄貴。兄貴。なんで。なんで返事しねえんだ。おれだ。弥平だ。掘ったぞ。ずっと掘ったぞ。なんで――」

言葉が、嗚咽になった。吹雪の音のなかで、その嗚咽だけが、生きた者の声として、闇に響いた。

私は、立ち尽くしていた。

善蔵。相撲で私を転がした、力の強い幼なじみ。あの笑い声。あの掌の温かさ。それが、いま、雪のなかで、冷たくなっていた。掘ったのに。間に合わなかった。ひとりは間に合い、ひとりは間に合わなかった。その差は、いったいどこにあったのか。膳棚の下の空きと、梁の重みと。ただ、それだけの差で、生と死が分かれた。

私は、天を仰いだ。

なぜだ、と問いたかった。神も仏もあるものか、と叫びたかった。留吉が「山の神さま」と呼んだ私は、善蔵ひとり、救えなかった。掘る手が遅かったのか。見当が、もっと早く合っていれば。もっと道具があれば。もっと人手が。もっと。もっと。後悔が、雪のように積もった。

だが、まだ、おきよがいた。

嘆いている暇は、なかった。善蔵は逝った。だが、おきよは。腹の子は。もし、あの母子が生きていれば、善蔵の命は、まだ半分、この世に残る。私は、涙を拭いもせず、また穴へ身を投げた。

「弥平。掘るぞ。おきよさんが、まだだ。善蔵の子が、まだ、生まれてもいねえんだ」

弥平が、顔を上げた。涙と鼻水に汚れた顔で、兄の亡骸を、そっと雪の上に横たえた。そして、鍬を握り直した。「掘る。掘る。おきよさんだけは。腹の子だけは」

私たちは、囲炉裏を挟んだ、向こう側を掘った。

おきよは、いつも囲炉裏の向こうで、飯を炊いていた。逃げるとき、竈のほうへ走ったのではないか。弥平がそう見当をつけた。私たちは、竈の見当へ、掘り進んだ。

雪は、いよいよ硬かった。竈のあたりは、崩れた壁土が雪に混じり、鍬の先を何度も弾いた。私の腕は、もう自分の腕ではなかった。他人の腕を、意志だけで振っているようだった。ひと掻き。ひと掻き。留吉の顔が浮かんだ。善蔵の、光のない目が浮かんだ。二つの顔のあいだで、私は掘った。

「見えた」

弥平が、雪のなかに、着物の裾を見つけた。

おきよの、いつもの縞の着物。私たちは、その周りの雪を、素手で掻いた。今度は、素手のほうが速かった。爪が割れ、指が裂けても、鍬より、手のほうが、雪の下の柔らかいものを、傷つけずに掘り出せた。

おきよは、竈の脇にいた。

倒れた竈が、これも屋根のように、母体の上を庇っていた。竈と、崩れかけた壁とが、三角の空きを作り、その空きに、おきよはうずくまっていた。両手で、腹を抱えて。守っていた。最後まで、腹の子を、守ろうとして。

「おきよさん」

私は、その体を、抱え起こした。冷たかった。だが――胸に耳を当てた。吹雪の音で、何も聞こえなかった。私は蓑で風を遮り、もう一度、耳を当てた。

とく、とく、と。

かすかに、命の音がした。

「生きてる」私は叫んだ。声にならぬ声で。「おきよさん、生きてる。腹の子も、まだ、生きてるかもしれねえ」

その一言に、周りの者たちが、どっと、寄ってきた。掘る手を止め、みなが、おきよの周りに集まった。誰かが、蓑を脱いで、おきよの体にかけた。誰かが、自分の懐で温めていた握り飯を、おきよの口元に、近づけた。まだ、食えるはずもないのに。ただ、何かを、してやりたかった。生きている者に、してやれることを、何か。凍えた掌を、こすり合わせ、その温もりを、おきよの、冷えきった頬に、移そうとする者もいた。

善蔵は、喪った。だが、おきよは、生きている。その、たったひとつの生が、いま、掘る手を止めた者たちの、疲れきった体に、新しい火を、点していた。ひとりを喪い、その悲しみに、押し潰されそうな私たちを、この、もうひとつの命が、辛うじて、支えていた。生きている者がいる。ならば、運ばねば。温めねば。私たちは、また、動きはじめた。

私たちは、おきよを、蓑にくるんで運んだ。

雪陰では、たねと、村の女たちが、火を焚いていた。吹雪のなか、辛うじて燃える、小さな火。その火の周りに、留吉が、蓑にくるまれて眠っていた。生きている子の、寝息が聞こえた。

おきよを、その火のそばへ寝かせた。たねが、おきよの手足をさすった。冷えきった手足に、血を戻そうと、女たちが交代で、さすりつづけた。おきよは、まだ目を覚まさない。だが、胸は、かすかに上下していた。腹の子の命は、母の命に繋がれている。母が生きれば、子も生きる。

私は、火のそばに、へたり込んだ。

もう、指も足も、感覚がなかった。掘りつづけた腕は、鉛のように重く、上がらなかった。全身が、汗と雪で濡れ、その濡れが、火に炙られて湯気を立てた。生きた体から、湯気が立った。私は、まだ、生きていた。掘る者は、生きていた。掘り出した子は、生きていた。母も、生きていた。だが、善蔵は。

善蔵の亡骸は、雪の上に、筵をかけて、寝かせてあった。

弥平が、その傍らに、うずくまっていた。もう、泣いてはいなかった。ただ、兄の傍らに、雪だるまのように、動かず座っていた。私は、そこへ行って、弥平の隣に座った。何も言えなかった。言葉など、あるはずもなかった。ただ、二人で、善蔵の傍らに座っていた。掘る手を止めた者の、それが、できる唯一のことだった。

風が、止んだ。

いつのまにか、吹雪が、やんでいた。あれほど荒れ狂っていた風が、嘘のように、ぴたりと止んだ。雲が、切れはじめた。

空が、見えた。

そのとき――東の空の、まだ明けきらぬ、いちばん暗いところに、ひとつの星が、光っていた。

蒼い星だった。

ほかの星が、まだ夜の名残に霞んでいるなかで、その星だけが、冴え冴えと、強く、光っていた。氷の色をして、けれど氷よりも澄んで、闇のいちばん深いところで、いちばん明るく。誰かが、ぽつりと言った。「ミラだ」。ミラ彗星。何十年に一度、夜明け前の空に現れるという、蒼い星。私は、その名を、祖父から聞いたことがあった。あれが出る年は、と祖父は言った。あれが出る年は、いちばん暗い夜のあとに、いちばん明るい朝が来る。

私は、その星を、見上げた。

雪を掘りつづけた、闇の刻。善蔵を喪い、留吉とおきよを掘り出した、絶望と希望の刻。その刻の、いちばん暗い底に、その星は、光っていた。まるで、闇のなかでも掘る手を止めなかった者たちを、見ていたかのように。喪ったものと、掘り出したものと、その両方の重みを、蒼い光で照らすように。

弥平も、その星を見上げた。

「兄貴」と、弥平が言った。星に向かって、言った。「兄貴。おきよさんは、助かった。腹の子も、たぶん、助かる。留吉も、無事だ。おまえの子は、二人とも、生きる。だから――だから、成仏してくれ。おれたちが、留吉を、おきよさんを、腹の子を、育てる。村みんなで、育てる。だから」

星は、答えなかった。ただ、蒼く、光っていた。だが、その光が、答えのように思えた。喪失のなかにも、繋がれていく命がある。その命を照らす光が、いちばん暗いこの刻に、いちばん強く、輝いていた。

東の空が、白みはじめた。

星が、少しずつ、光を弱めた。夜明けが、来ていた。あれほど遠かった夜明けが、掘りつづけた闇の果てに、確かに、来ていた。

留吉が、目を覚ました。

「おじ」と、その子は、火のそばで身を起こした。「おじ……とうちゃんは」

私は、答えられなかった。答える言葉を、探した。だが、どんな言葉も、見つからなかった。私は、ただ、その子を抱き寄せた。

「留吉」と、私はやっと言った。「留吉。とうちゃんはな……お空の、あの星に、なった。あそこで、おまえを、見てる」

留吉は、私の指の先を、たどった。私が指した、東の空の、蒼い星を。もう、朝の光に溶けかけていた、その星を。

「とうちゃん……星に」

「ああ。とうちゃんは、おまえを守るために、ずっと、雪の下で、おまえを庇ってたんだ。膳棚の下に、おまえを、押し込んで。自分は、梁の下敷きになって。おまえが助かったのは、とうちゃんが、おまえを守ったからだ」

それが、本当かどうか、私は知らない。だが、そうであってほしかった。そうでなければ、留吉が、あまりに、あわれだった。善蔵なら、そうしただろう。あの、力の強い、笑い顔の幼なじみなら。倅を庇って、自分は梁の下へ。ああ、あいつなら、きっと。

留吉が、泣いた。

声を上げて、火のそばで、泣いた。生きている子の泣き声が、明けゆく空へ、昇っていった。その泣き声を、私は、いつまでも聞いていた。泣けるということが、生きているということだった。私は、その子の背を、感覚のない手で、さすりつづけた。

不思議なものだ、と思った。

雪の下では、あれほど、声を、上げなかった。とんとん、と、壁を叩くだけだった。声を上げれば、わずかな空気を、無駄にする。幼いながら、この子は、それを、知っていたのか。それとも、恐ろしさに、声も出なかったのか。雪の下の闇のなかで、六つの子が、どんな思いで、あの、とんとん、を、叩いていたか。それを思うと、私は、胸が、詰まった。

いま、この子は、掘り出されて、火のそばで、思う存分、泣いている。声を惜しまず、泣いている。その、惜しみない泣き声こそが、この子が、闇を、生き延びた、何よりの証だった。泣け。泣け。留吉。おまえの分だけ、泣け。そして、おまえの父の分も。おまえの父は、もう、泣けない。だから、おまえが、泣くのだ。生きている者の、その務めとして。

朝が、来た。

雪雲は、東からゆっくりと退き、山の稜線が、薔薇色に染まった。ひと晩の吹雪が嘘のような、静かな朝だった。雪崩の落ちた斜面が、朝日を浴びて、白く、そして残酷なほど美しく、輝いていた。あの白い山の下に、善蔵の家が、埋もれている。あの下で、私たちは、ひと晩、掘りつづけた。

村の者たちが、続々と、登ってきた。

夜が明けて、道が見えるようになって、麓の集落からも、応援が来た。だが、掘る仕事は、もう、終わっていた。生きている者は、掘り出した。喪った者は、喪った。あとは、亡骸を、麓へ運ぶだけだった。

私は、火のそばで、動けずにいた。

体が、言うことをきかなかった。ひと晩、火と氷を抱えて掘りつづけた体は、朝の光のなかで、抜け殻のようだった。指は、腫れて、血がこびりつき、爪が、幾枚も剥がれていた。この指で、私は、留吉を掘り出し、おきよを掘り出した。この指が、二つの命を、雪の下から、この世へ、連れ戻した。

たねが、白湯を運んできた。

「あんた」と、たねが言った。「よう、掘ったね」

私は、その白湯を、両手で受けた。感覚のない手のひらに、椀の温もりが、じわりと、しみてきた。温もりが、しみるということ。それが、こんなにも、ありがたいものだとは。私は、その温もりを、しばらく、掌のなかで、ただ、味わっていた。

おきよは、その日の昼過ぎに、目を覚ました。

麓の医者が来て、腹の子は、無事だと言った。母も、指を二本、凍傷で失うかもしれぬが、命に別状はないと。おきよは、目を覚まして、まず、留吉を探した。留吉が、生きて、傍らにいるのを見て、おきよは、泣いた。それから、善蔵のことを、知って、また泣いた。喪失と、生と、二つの涙を、おきよは、ひと晩の眠りの果てに、一度に受け取った。

その夜、村は、通夜だった。

善蔵の亡骸を、麓の家に運び、村じゅうの者が集まった。掘る手を止めなかった者たちが、みな、集まった。凍傷で指を腫らし、爪を剝がし、体じゅうを痣にした者たちが。誰も、多くを語らなかった。語る言葉が、なかった。ただ、善蔵の枕元に、線香をあげ、手を合わせ、そして、囲炉裏の火を囲んで、黙って、白湯をすすった。

私は、その火を、見ていた。

ひと晩、雪を掘り、ひとりを喪い、二人を掘り出した。その、長い夜が、ようやく、終わろうとしていた。だが、終わったのは、掘る夜であって、悲しみの夜では、なかった。悲しみは、これから、始まる。善蔵のいない、村の暮らしが、これから、始まる。その、長い、長い夜の、これは、始まりに過ぎなかった。

通夜の席で、誰かが、子守唄を歌った。おきよが、留吉を寝かしつけるために、いつも歌っていた唄だった。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

低い、掠れた声で、通夜の席に、その唄が流れた。留吉は、母の膝で、その唄を聞きながら、眠っていた。父を喪った子が、母の唄で、眠っていた。眠れ、眠れ、と。その唄を聞きながら、私は、明け方に見た、あの蒼い星を、思い出していた。星が海をわたるまで。あの星も、いつか、海の向こうへ、わたっていくのだろう。善蔵を、連れて。

私は、通夜の帰り、月光堂の前を通った。

月光堂は、村の外れの、雑貨屋だ。マッチや、油や、干物や、細々としたものを売っている。ひと晩じゅう掘りつづけた私は、火が、恋しかった。囲炉裏の火が。あの、命を繋ぐ、小さな炎が。

戸を叩くと、老婆が出てきた。月光堂の、婆さまだ。

「マッチを、くれ」と私は言った。

婆さまは、黙って、青いマッチ箱を、私に差し出した。月光堂の、青いマッチ箱。表に、細い三日月が、刷ってある。私は、それを受け取り、掌のなかで、しばらく、握った。

「掘ったんだってね」と、婆さまが言った。「ひと晩じゅう。善蔵さんとこの、坊やと、おかみさんを」

「善蔵は、助けられなかった」

「――そうかい」婆さまは、しばらく黙って、それから、言った。「でもね、あんた。掘る手を、止めなかった。だから、二人が、助かった。あんたが、途中で、諦めてたら、坊やも、おかみさんも、腹の子も、いなかったんだよ。掘る手を止めなかった。それが、あんたに、できたことだ。人が、できることは、それだけさ。掘る手を、止めないこと」

私は、青いマッチ箱を、握りしめた。

掘る手を、止めないこと。ひと晩じゅう、私は、止めなかった。指が裂け、爪が剥がれ、体が、火と氷を抱えて震えても、止めなかった。止めなかったから、留吉が生きた。おきよが生きた。腹の子が、生きた。善蔵は、喪った。だが、掘る手を止めなかったことに、悔いは、なかった。悔いてはならぬと、思った。悔いれば、掘り出した命に、申し訳が立たぬ。

家に帰って、囲炉裏に、火を熾した。

青いマッチ箱から、マッチを一本、擦った。しゅ、と、小さな音がして、炎が生まれた。凍えた家の、闇のなかに、ひとつの、火が。私は、その火を、囲炉裏の榾木に移した。榾が、じりじりと燃えはじめ、暗い家が、赤く、温もりを取り戻していった。

火を見つめながら、私は、思った。

囲炉裏の火は、小さかった。だが、その小さな火が、家じゅうの闇を、押し返し、冷えを、溶かしていった。榾木の爆ぜる音が、しずかな家に、ぱち、ぱち、と響いた。その音を、私は、いつまでも、聞いていた。ひと晩、掘りつづけた耳には、その、ささやかな音さえ、命の音のように、聞こえた。

火は、消えかけては、また、燃え立った。私が、榾木を、くべ足すたびに。火を絶やさぬというのは、こういうことだ。ただ、放っておいては、火は、消える。人が、木をくべ、灰をかき、風を送って、はじめて、火は、燃えつづける。命も、そうだ。ただ、放っておいては、消える。誰かが、掘り、温め、さすって、はじめて、繋がる。あの雪の下の、留吉の命も、おきよの命も、腹の子の命も、誰かが、くべ足しつづけた、火だったのだ。

雪を掘るのも、火を熾すのも、同じことだ。闇のなかで、冷えのなかで、人が、命を繋ごうとする、あがき。雪崩の下で、留吉が、片方の手袋を握りしめて、命を繋いだように。おきよが、腹を抱えて、腹の子の命を、庇ったように。私が、掘る手を、止めなかったように。婆さまの言う通りだ。人にできるのは、掘る手を止めぬこと。火を絶やさぬこと。そして、闇のいちばん深いところで、それでも、光を、待つこと。

明け方の、蒼い星が、目に浮かんだ。

いちばん暗い刻に、いちばん強く光った、あの星。あれは、光を待つ者への、報いだったのかもしれない。掘る手を止めぬ者への。火を絶やさぬ者への。闇のいちばん底でも、光を信じつづけた者への。ミラ彗星。星が海をわたるまで。あの星が、海をわたるころには、おきよの腹の子も、生まれているだろう。善蔵の、二人目の子が。喪った命の代わりに、新しい命が。

幾日か経って、留吉が、私の家へ来た。

「おじ」と、その子は、土間に立って、言った。まだ、顔色は、青かった。だが、目には、少し、光が戻っていた。「おじ。あのな。おいら、片っぽの手袋、無くしちまった」

留吉の右手には、あの赤い手袋が、片方だけ、はまっていた。左手は、素手だった。

「雪ん中で、無くしちまった。かあちゃんが、編んでくれたのに」

私は、その子の前に、しゃがんだ。

「留吉。その、片っぽの手袋はな」と、私は言った。「その手袋が、おまえの、右手を、守ったんだ。凍えから、守ったんだ。片っぽでも、あったから、おまえは、助かった。無くした片っぽは――とうちゃんが、あの世で、はめてる。とうちゃんが、寒くねえように。だから、いいんだ。片っぽずつ、おまえと、とうちゃんが、分けたんだ」

留吉は、その赤い手袋を、じっと、見つめた。

「とうちゃんが、はめてる」と、留吉は、小さな声で、繰り返した。「あの世で。寒くねえように」

「そうだ」

「じゃあ、無くしたんじゃ、ねえんだな」

「無くしたんじゃ、ねえ。分けたんだ。おまえと、とうちゃんで」

留吉は、こくり、と、頷いた。その頷きに、私は、救われた気がした。子どもというものは、時に、大人よりも、深く、物事を、受け取る。この子は、片方だけの手袋のなかに、父との、切れぬ繋がりを、見出したのだ。喪ったのではなく、分けたのだと。その、幼い理解が、この子を、これから先の、長い喪失の日々を、支えていくのだろう。

それから、その手袋の手で、私の手を、握った。凍傷で、爪の剥がれた、私の手を。小さな、赤い手袋の温もりが、私の、感覚の鈍った掌に、じわりと、伝わってきた。留吉が生きて、この手を握っている。それが、掘る手を止めなかったことの、すべての意味だった。

冬が、過ぎた。

雪が解け、雪崩の斜面にも、草が生えた。善蔵の家は、村の者たちの手で、もとの場所より少し下に、建て直された。そして、春の終わりに、おきよは、女の子を、産んだ。

善蔵の、二人目の子だった。

産声を、私は、聞いた。留吉が「おじ、おじ、生まれた、妹が生まれた」と、私の家まで、走って知らせに来た。私は、その足で、善蔵の新しい家へ、駆けつけた。おきよの腕のなかで、赤子が、火のように、赤く、泣いていた。

雪の下で、庇われた命が。掘り出された命が。こうして、この世に、生まれ落ちた。あの、いちばん暗い夜明け前を、母の腹のなかで、越えてきた命が。

私は、その赤子を、しばらく、見ていた。

小さな、握り拳。しわだらけの、赤い顔。閉じたまぶた。まだ、この世の光を、知らぬ目。この子は、知らない。自分が、雪の下で、母に庇われ、村じゅうの手で、掘り出されたことを。自分の父が、その雪の下で、逝ったことを。いつか、大きくなって、その話を、聞くだろう。あの夜のことを。掘る手を止めなかった、村人たちのことを。そのとき、この子は、どんな顔をするだろう。

だが、それは、まだ、先のことだ。いまは、ただ、生まれた。それで、よかった。喪った命の重さと、生まれた命の軽さと。その、釣り合わぬ二つを、私たちは、両手に載せて、生きていく。片方が重く、片方が軽い。それでも、載せて、生きていくのだ。

おきよが、その子に、乳をやりながら、小さな声で、歌った。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

私は、その唄を聞きながら、窓の外の、明るい空を、見た。昼の空には、星は、見えなかった。だが、私は、知っていた。あの蒼い星は、いまも、空のどこかを、わたっている。善蔵を連れて。喪った命と、生まれた命と、その両方を照らしながら。

いま、私は、老いた。

あの雪崩の夜から、幾十年が経った。留吉は、立派な男になり、村の世話役をしている。あのとき生まれた妹は、嫁いで、子を三人、産んだ。善蔵の血は、村に、根を張り、枝を広げた。喪ったはずの命が、こうして、幾つもの命に、繋がっている。

掘る手を止めなかった、あの夜。

いまでも、寒い夜には、あの夜を思い出す。荒い息。雪と汗。凍えた指。裂けた爪。そして、いちばん暗い刻に、いちばん強く光った、蒼い星。私は、あの夜、たったひとりの命を、救えなかった。だが、掘る手を、止めなかった。止めなかったから、いくつもの命が、いま、ここに、ある。

人にできるのは、掘る手を止めぬこと。

婆さまの言葉は、私の一生の、支えになった。月光堂の婆さまは、とうに亡くなった。青いマッチ箱を売っていた店も、いまはない。だが、あの青いマッチ箱の炎は、私の囲炉裏に、いまも、燃えている。闇を照らし、冷えを溶かす、小さな火として。

夜明け前が、いちばん暗い。

だが、いちばん暗い刻にこそ、蒼い星は、光る。そして、その光の果てに、必ず、朝が来る。私は、それを、あの雪の夜に、この手で、掘り当てた。凍えた雪の下から、この手で、掘り当てた。掘る手を止めなかった者だけが、見ることのできる、あの朝の光を。

留吉の妹――善蔵の娘は、いま、月光書房で、働いている。

村を出て、町の、古い書店で。月光書房という、その名を聞いたとき、私は、月光堂の、あの青いマッチ箱を、思い出した。月の光の、堂と、書房。名は違えど、同じ月の光が、宿っている気がした。娘は、時おり、村へ帰ってきては、私に、本を読んでくれる。老いて、目のかすんだ私に。

こないだ、娘が、こんな話を、読んでくれた。

いちばん暗い夜に、空でいちばん強く光る、蒼い星の話を。その星が出る年は、いちばん暗い夜のあとに、いちばん明るい朝が来るという、言い伝えの話を。私は、それを聞きながら、目を、閉じた。

あの夜が、まぶたの裏に、蘇った。

雪を掘る、村人たち。荒い息。凍えた闇。そして、雲の切れ間に、冴え冴えと光った、あの蒼い星。私は、あの星を、この目で、見た。掘る手を止めなかった、あの夜に。

「おじいちゃん」と、娘が言った。「泣いてるの」

私は、頷いた。頷いて、笑った。

泣けるということは、生きているということだ。あの夜、火のそばで泣いた、幼い留吉のように。生きているから、泣ける。生きているから、あの星を、思い出せる。掘る手を止めなかった者だけが、こうして、老いて、泣くことができる。

いちばん暗い刻を、掘り抜いた者だけが、朝の光の温もりを、掌に、知ることができるのだ。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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