篝火の浜
海は、まだ怒っていた。
夜通し吠えつづけた海鳴りは、寅の刻に入ってもおさまらず、むしろ底のほうで深く重くなっていた。潮の匂いが、ふだんの磯の匂いとはちがう。もっと生ぐさく、もっと荒く、海のいちばん深いところをかき混ぜてきたような匂いだった。その匂いを、志乃は浜に立ったまま、体じゅうで吸っていた。
篝火が、風に叩かれて横倒しになりかける。志乃は薪を一本くべ足し、火の粉が飛ぶのを袖でかばった。火は生き物のように身をよじり、細く長く尾を引いて、闇のなかへ火の粉を投げ上げる。その火の粉が、天へのぼりきらぬうちに、潮風にさらわれて、海のほうへ流れていった。
海のほうへ。
志乃の目は、いつのまにか、また海を見ていた。真っ暗な海だった。空との境も見えぬほど、闇と闇とが溶け合っていた。ただ、白い波頭だけが、ときおり闇の底から浮き上がっては消えた。それは、遠くで手を挙げる者の白い掌のようにも見えた。見えて、消えた。見えて、消えた。
どれほどの時間、そうして立っていたのか、志乃にはわからなかった。時の流れが、この夜だけは、ふつうとちがっていた。ときに、一刻が、一年のように長く感じられた。ときに、はっと我にかえると、いくつもの刻が、いつのまにか過ぎていた。夜というものは、こんなにも長いものだったのか。志乃は、いままで、夜の長さを、ほんとうには知らなかったのだと思った。眠っているあいだに、夜は過ぎていった。目をつむれば、朝が来た。けれど、こうして、まぶたを開いたまま、闇のなかに立ちつづけていると、夜は、どこまでも、どこまでも、長かった。まるで、夜には終わりがないかのように。まるで、朝など、二度と来ないかのように。
風が、また一段、強くなった。志乃の蓑を、めくり上げようとした。冷たい潮のしぶきが、頬を打った。塩の粒が、乾いた唇に、しみた。志乃は、その塩からさを、舐めた。海の味だった。あの人が、毎日、体じゅうに浴びてくる、海の味だった。この味を、あの人は、いまも、浴びているのだろうか。それとも――もう、この味の、いちばん底に、沈んでしまったのだろうか。
昨夜の嵐は、この浜のだれもが覚えのないほどの時化だった。
日暮れまでは、ただの荒れ模様だった。西の空が鉛色に垂れこめ、沖のうねりが高くなり、年寄りたちが「今夜はよせ」と口々に言った。船を出すな、と。けれど、卯之助の船だけは出た。この時期の鰤は、ひと網で一年の暮らしが立つ。若い衆を三人乗せて、卯之助は沖へ向かった。志乃の夫、卯之助。この浜で、いちばん海を知る男だと言われていた。いちばん海を知る男が、いちばん海に近づいて、そして――帰ってこない。
夜半、風は牙をむいた。雨戸が鳴り、屋根が軋み、松の梢が引きちぎられるようにしなった。海鳴りは、もはや音ではなく、地の底からの震えだった。志乃は、家に居ることができなかった。蓑を着て、浜へ出た。ほかの女たちも出てきた。船を待つ者たちが、暗い浜に集まってきた。
篝火を焚こう、と言い出したのはだれだったか。灯りがあれば、沖の船が浜のありかを見定められる。この暗さでは、どこが陸で、どこが海か、船からは見分けがつくまい。だから火を焚く。生き残りの目じるしに。志乃たちは、流木を集め、薪を割り、火を起こした。風が強くて、なかなか火はつかなかった。何度も消えかけた。それでも、女たちは代わる代わる身をかがめ、袖で風をふせぎ、息を吹きかけつづけた。やがて火は、燃え立った。
その火をおこすとき、志乃の手は、震えていた。寒さのためではなかった。恐れのためだった。この火は、望みの火であると同時に、恐れの火でもあった。もし、この火に照らされて、浜へ流れ着くものがあったら。それが、船ではなく――と、志乃は、そこまで考えて、火吹き竹を握る手に、いっそう力をこめた。考えるな。あの人は、帰ってくる。この火は、あの人を、家へ導く火だ。ほかのなにものでもない。志乃は、そう自分に言い聞かせながら、息を吹きかけた。火は、その息を吸って、ぼうっと、明るくなった。
その火が、いま、寅の刻の浜で燃えている。
火のまわりには、いくつもの顔があった。みな、船を待つ女たちの顔だった。おふさ、おきぬ、若い女房のおたか。それぞれの家の男が、あの船に乗っていた。おふさの亭主は、卯之助の弟だった。おきぬの息子は、まだ十七の、初めての大漁を夢見ていた若者だった。おたかは、去年、祝言を挙げたばかりだった。みな、この浜で、生まれ、育ち、海とともに暮らしてきた者たちだった。海に、多くを与えられ、そして、海に、多くを奪われてきた者たちだった。いまは、ただ、火のまわりに身を寄せあって、めいめいの祈りを、胸のうちに抱いていた。だれも、多くを語らなかった。語れば、恐れが、言葉になって、こぼれ落ちてしまう。だから、みな、黙って、火を見つめ、海を見つめていた。
「志乃さん」
うしろから声がかかった。とめ婆さんだった。この浜でいちばんの年寄りで、若いころに亭主を海に取られた女だった。手に、小さな汁椀を持っていた。
「なにか腹に入れんと、体がもたんよ」
湯気の立つ椀を、志乃の手に押しつける。志乃は受け取ったが、口へは運ばなかった。ただ、椀のあたたかさが、かじかんだ指に沁みた。指のことなど、志乃はすっかり忘れていた。いつのまにか、こんなに冷えていたのか。
「食べなさい」ととめ婆さんは言った。「あんたが倒れたら、卯之助が帰ってきたとき、どうする」
帰ってきたとき。
その言葉に、志乃の胸のうちで、なにかがひくりと動いた。帰ってくる。まだ、そう言ってくれる人がいる。志乃は、湯を一口すすった。塩気のきいた、あたたかい汁だった。ひとしずくが、喉を通って、腹の底へ落ちていった。落ちたところが、じんと痛んだ。生きているものの、痛みだった。
「あんたの亭主はな」ととめ婆さんは、火に手をかざしながら言った。「海のことなら、なんでも知っとる。若い衆をむざむざ死なせるような男じゃない。時化が来たら、あの子は無理に帰ろうとはせん。どこぞの島影に船を寄せて、風をやりすごしとる。そういう男だ」
そうだろうか、と志乃は思った。そうであってほしい、と。
けれど、志乃は知っていた。この時化のなかで、島影に寄せられる場所など、そう都合よくあるものではない。あるとしても、そこへたどり着くまでに、船がもつかどうか。うねりに横腹を打たれれば、どんな船でもひとたまりもない。志乃は、その光景を、幾度も頭のなかで見た。見まいとしても、見えてしまった。船がかしぐ。海が、口を開ける。若い衆の叫び。そして――卯之助の顔。
いや、と志乃は首を振った。その先を、見てはいけない。見れば、ほんとうにそうなってしまう気がした。
海鳴りが、いっそう高くなった。
沖のほうで、ひときわ大きなうねりが崩れたのだろう。地を這うような轟きが、志乃の足の裏から、背骨をつたって、頭のてっぺんまで駆けのぼった。志乃は、思わず一歩、海のほうへ踏み出した。
「志乃さん、いけん」
だれかが、志乃の腕をつかんだ。若い漁師の女房だった。志乃と同じように、船を待つ女だった。
「引き込まれる。この闇じゃ、波打ち際がどこかもわからん」
そのとおりだった。波打ち際は、闇に呑まれて見えなかった。ただ、寄せては返す波の、しゃあ、しゃあ、という音だけが、思いのほか近くで鳴っていた。潮が、満ちはじめているのかもしれない。志乃は、一歩さがった。さがりながら、それでも目だけは、海を離さなかった。
浜には、いくつもの篝火が焚かれていた。志乃たちの火のほかにも、あちらこちらで、女たちが火を守っていた。火は、点々と、浜に並んでいた。まるで、暗い海に向かって、生きた者たちが「ここにいる、ここにいる」と呼びかけているようだった。帰っておいで。ここに火がある。ここに、あんたを待つ者がいる。
けれど、その呼びかけに、海はただ吠えるばかりで、なにも応えなかった。
いちばん暗い刻、というものがある。
夜のなかでも、寅の刻の、この夜明け前がいちばん暗い。宵の口の闇には、まだ昼の名残があり、暮れなずむ空の記憶がある。真夜中の闇には、深いけれど、どこか安らかなところがある。けれど、この夜明け前の闇は、ちがう。夜がいちばん深く沈みこみ、冷えがいちばん骨に沁み、そして――夜明けが、まだ、あまりに遠い刻。
志乃は、この刻の冷たさを、生まれてはじめて知る気がした。子どものころから、この浜で暮らしてきた。冬の寒さも、夜の冷えも、知りつくしているつもりだった。けれど、この冷たさは、外から来る冷たさではなかった。内から、体の芯から、湧いてくる冷たさだった。それは、待つ者の冷たさだった。
いつから、待っているのだろう。
日が暮れてから。いや、船が出てから。いや――と志乃は思う。ほんとうは、卯之助と夫婦になったときから、わたしはずっと待っていたのではないか。漁師の女房になるということは、待つ女になるということだった。夫が海へ出るたびに、無事を祈り、帰りを待つ。晴れた日も、荒れた日も。そうして、いくつもの朝を、待って、迎えてきた。
その、いくつもの朝のなかで、卯之助はいつも帰ってきた。ずぶ濡れになって、時化に打ちのめされて、それでも笑って帰ってきた。「案ずるな」と、口ぐせのように言った。「海は、おれのことをよう知っとる。おれも、海のことをよう知っとる。知った者どうし、そう手荒なことはせん」
けれど、海が、いつも手荒でないとは、かぎらなかった。志乃は、この浜で、いくつもの弔いを見てきた。海に取られた男たちの、弔いを。帰らぬ船を待ちつづけ、やがて、待つことをやめた女たちの、うつろな目を。とめ婆さんも、その、ひとりだった。若いころ、亭主を海に取られ、それきり、後添えももらわず、ひとりで生きてきた。この浜の女は、みな、心のどこかに、その覚悟を、抱いて生きている。いつか、待っても帰らぬ朝が、来るかもしれない、という覚悟を。海の恵みで、生きるということは、海に、いつか、奪われるかもしれない、ということだった。志乃も、それを、知っていた。知っていて、なお、待つのだった。知っていて、なお、祈るのだった。それが、漁師の女房の、生き方だった。祈ることが、待つことが、女たちにできる、ただひとつの、たたかいだった。
海は、おれのことをよう知っとる。
その言葉を、志乃は、いま、火の前でくりかえした。海は、あの人のことを知っている。だから、きっと。だから、きっと――。
けれど、志乃の胸のなかで、べつの声が言った。知っているからこそ、海はあの人を欲しがったのではないか。いちばん海を知る男を、海はいちばん手もとに置きたがったのではないか。
志乃は、その声を、火のなかへ投げ捨てようとした。けれど、火は、その声を燃やしてはくれなかった。声は、火の向こうの闇のなかで、しんと、坐っていた。
志乃が、卯之助と初めて言葉を交わしたのも、この浜だった。
もう、二十年も前のことになる。志乃は、まだ十六の娘だった。隣村から、祭りの手伝いに来ていた。夕暮れの浜で、志乃は、ひとり、海を見ていた。故郷とちがう海の色に、見とれていた。そこへ、漁からもどった卯之助が、通りかかった。
「なにを見とる」と、卯之助は、ぶっきらぼうに言った。
「海を」と、志乃は答えた。
「海が、めずらしいか」
「きれいだから」
卯之助は、そのとき、ふっと、笑った。「海が、きれいだと」と。「海を、きれいだと言うやつは、久しぶりに見た。おれたちには、海は、きれいなもんじゃない。おっかないもんだ。それでも、飯を食わせてくれる、ありがたいもんだ。きれいだなんて、思う暇はない」
けれど、と卯之助は、海のほうを見て、言った。「あんたに言われて、見てみると――たしかに、きれいだな」
その横顔を、志乃は、覚えている。夕日を浴びた、若い漁師の横顔。海を見る、その目のやさしさ。おっかないもの、ありがたいもの、そして、きれいなもの。そのすべてを、卯之助は、海に見ていた。その目に、志乃は、恋をしたのだった。
三年後、志乃は、この浜へ嫁いできた。漁師の女房になった。待つ女に、なった。祝言の夜、卯之助は言った。「おれは、海の男だ。海で、死ぬかもしれん。それでも、いいか」と。志乃は、うなずいた。「いいです」と。「あなたの帰りを、待ちます。何度でも、待ちます」と。
二十年、志乃は、待ちつづけてきた。何度も、何度も、卯之助を、海から迎えた。晴れた朝も、荒れた朝も。そして、いつも、卯之助は、帰ってきた。志乃の待つ、この浜へ。
今度も、帰ってくる。志乃は、そう信じたかった。二十年、破られたことのない約束を、今度も、あの人は、守ってくれる。志乃は、そう信じて、火に、薪をくべた。火の粉が、また、海のほうへ、流れていった。あの人のいる、海のほうへ。
夜が更けるにつれ、浜の人数は、少しずつ減っていった。
疲れた者は家へ帰り、子を寝かしつけに戻る者もいた。けれど、船を待つ女たちは、だれひとり帰らなかった。志乃も、とめ婆さんも、若い女房も、火のそばを離れなかった。火は、女たちの祈りそのものだった。この火を絶やせば、祈りが絶えるような気がした。祈りが絶えれば、その先に待っているのは――志乃は、そのことを考えまいとした。
火は、女たちの祈りそのものだった。この火を絶やせば、祈りが絶えるような気がした。祈りが絶えれば、その先に待っているのは――志乃は、そのことを考えまいとした。
おきぬが、火のそばで、しゃがみこんでいた。まだ十七の息子を、待つ母だった。その背中が、細かく、震えていた。泣いているのだった。声を殺して、泣いているのだった。志乃は、そのそばへ行って、おきぬの背に、手を置いた。なにも、言わなかった。言葉など、なんの役にも立たなかった。ただ、手を、置いた。おきぬは、志乃の手の下で、いっそう、体を震わせた。それから、しゃくりあげながら、言った。
「あの子は、まだ、なんにも、しとらんのです。まだ、嫁ももらっとらん。まだ、子も、抱いとらん。まだ、なんにも――」
「おきぬさん」と志乃は言った。「あの子は、帰ってきます。帰ってきて、これから、なんでもやるんです。嫁ももらう。子も抱く。これから、なんでも。だから、いま、待つんです。いっしょに、待ちましょう」
自分の声が、自分のものではないように聞こえた。だれかが、志乃の口を借りて、話しているようだった。けれど、その言葉は、おきぬにではなく、志乃自身に、いちばん深く、沁みた。待つんです。いっしょに、待ちましょう。その言葉に、志乃自身が、支えられていた。
薪が、心もとなくなってきた。志乃は、浜のはずれの流木を拾いに行った。闇のなかを、手さぐりで歩いた。冷たい砂が、素足に絡んだ。志乃は、いつのまにか草履を脱いでいた。いつ脱いだのか、覚えていなかった。
流木を抱えて戻ろうとしたとき、志乃の足が、なにかを踏んだ。柔らかく、けれど、砂ではないもの。志乃は、身をかがめて、それを拾い上げた。
手袋だった。
片方だけの、船乗りの手袋。ごわごわとした、厚い布の手袋。掌のところが、潮と労働ですりきれて、白くなっていた。指のさきが、繕われていた。不器用な、けれど丁寧な繕いの糸目。
志乃は、その糸目を知っていた。
去年の冬、志乃が繕ったのだ。卯之助の手袋が、指さきから破れて、綿がはみ出していた。志乃は、それを繕った。針の運びが下手で、糸目がまっすぐにならなかった。卯之助は、それを見て笑った。「へたくそな縫い目だ」と。けれど、その手袋を、卯之助はずっと使いつづけた。「へたくそだが、あったかい」と言って。
その手袋の、片方が、いま、志乃の手のなかにあった。
なぜ、ここに。
志乃は、闇を透かして、あたりを見まわした。この手袋が、なぜ浜に落ちているのか。船から流れてきたのか。それとも――卯之助が、出がけに落としていったのか。志乃には、わからなかった。ただ、この片方だけの手袋を、志乃は、両手で握りしめた。すりきれた布の感触が、掌に沁みた。そこに、まだ、あの人の手のぬくもりが残っている気がした。もちろん、そんなはずはなかった。潮に濡れた手袋は、氷のように冷たかった。けれど、志乃は、そのぬくもりを、たしかに感じた気がした。
片方だけ。
もう片方は、どこにあるのだろう。あの人の手のなかにあるのだろうか。それとも、海の底に沈んでしまったのだろうか。志乃は、その問いを、口には出さなかった。出せなかった。ただ、手袋を胸に押しあてて、火のほうへ戻った。
火のそばに戻ると、とめ婆さんが、志乃の手のなかの手袋に気づいた。
「それは」
「卯之助のです」と志乃は言った。「浜に、落ちていました」
とめ婆さんは、しばらく手袋を見つめていた。それから、静かに言った。
「片方だけかい」
「はい」
「――片方だけ、というのはな」ととめ婆さんは、火に目を移しながら言った。「もう片方が、どこかにある、ということだよ。失くなったんじゃない。離れちまっただけだ。離れたものは、また会える。片方だけ残るというのは、そういうしるしだ」
志乃は、その言葉を、信じたかった。信じることが、いま、志乃にできる唯一のことだった。志乃は、手袋を、火のそばの石の上に置いた。濡れた布から、ゆらゆらと、細い湯気が立ちのぼった。手袋が、乾いていく。あの人が帰ってきたら、乾いた手袋を、渡そう。「浜に落ちてましたよ」と言って。「あなたが落としていったんですよ」と。
そんな日が、来るだろうか。
来る、と志乃は思おうとした。けれど、思うそばから、海鳴りが、その思いをさらっていった。
石の上で、手袋は、少しずつ乾いていった。志乃は、その手袋を、幾度も、見た。見るたびに、あの人の手を、思った。ごつごつとした、節くれだった、大きな手。網を引き、櫓を漕ぎ、魚をさばく手。けれど、志乃の髪を撫でるときは、おそろしく、やさしい手だった。息子を抱くときも、そうだった。あの手が、いま、どこにあるのか。もう片方の手袋のなかに、あるのか。それとも――志乃は、また、その先を、考えまいとした。
考えまい、考えまい、としながら、志乃の心は、いつも、その先へ、行こうとした。人の心というものは、ふしぎなものだった。いちばん見たくないものを、いちばん見ようとする。いちばん恐れているものを、いちばん思い描こうとする。まるで、あらかじめ、それに慣れておこうとするかのように。まるで、絶望を、先どりして、味わっておこうとするかのように。志乃は、そのたびに、首を振った。首を振って、火を見つめた。火は、赤く、あたたかく、生きて、燃えていた。その火だけが、志乃を、絶望の淵から、ひきとめていた。
胸のうちに、いつのまにか、ひとつの節がのぼってきていた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
それは、志乃が、幼い息子を寝かしつけるときにうたう子守唄だった。母から教わり、母もまた、その母から教わったという、古い唄だった。この浜の女たちは、みな、この唄をうたう。海へ出た夫を待ちながら、子をあやしながら、うたう。眠れ、眠れ。
志乃の息子は、いま、家で眠っている。まだ五つの、幼い子だった。夕べ、寝かしつけるとき、息子は言った。「とうちゃんは」と。「とうちゃんは、いつ帰る」と。志乃は、「もうすぐだよ」と言った。「明日の朝には、帰ってくるよ」と。嘘ではなかった。ほんとうに、そう思っていた。いつもそうだったから。朝には、帰ってくる。そう信じて、志乃は息子に唄をうたった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。息子は、その唄のなかで、眠りに落ちていった。
いま、志乃は、その唄を、火の前でうたっていた。声には出さなかった。ただ、胸のなかで、くりかえした。眠れ、眠れ。それは、息子への唄であると同時に、海の上の夫への唄でもあった。どこかで、風をやりすごしているのなら。どこかの島影で、じっと夜明けを待っているのなら。眠れ、眠れ。無事でいて。星が海をわたるまで。
家に残してきた息子のことを、志乃は、ふと思った。あの子は、いま、どんな夢を見ているだろう。まさか、父の船が、時化に呑まれかけているとは、知るまい。母が、こうして、暗い浜に立ちつくしているとも、知るまい。ただ、朝が来れば、父が帰ってくる、と信じて、あたたかい布団のなかで、眠っているだろう。その、なにも知らない眠りが、志乃には、いとおしかった。あの子には、この夜の、闇の深さを、知ってほしくなかった。この冷えの、骨に沁みるさまを、味わわせたくなかった。この待つことの、苦しさを――いや、と志乃は思いなおした。いつか、あの子も、海の男になるのなら。いつか、あの子も、だれかを待たせる身になるのなら。そのとき、あの子が待たせる女もまた、この浜で、こうして、火を焚いて、待つのだろう。この待つことは、この浜の女たちが、代々、受けついできたものだった。母から娘へ、姑から嫁へ。そして、志乃もまた、その列の、ひとりだった。とめ婆さんも、おきぬも、おたかも。みな、おなじ闇のなかに、立ってきた。みな、おなじ唄を、うたってきた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。この唄は、待つ女たちの、祈りの、かたちだった。
星が海をわたるまで。
その一節を、胸のなかでくりかえしたとき、志乃は、ふと、空を見上げた。
雲が、切れていた。
夜通し、空をふさいでいた分厚い雲が、いつのまにか、東の低いところで、一筋、裂けていた。その裂け目の奥に、闇があった。けれど、その闇は、これまでの闇とは、どこかちがっていた。深く、澄んだ闇だった。そして――その闇の底に、ひとつの星が、あった。
蒼い星だった。
ほかのどの星ともちがう、冴えた、蒼い光。ちいさいけれど、強い光だった。まるで、闇のいちばん深いところで、その一点だけが、凍りついた炎のように燃えていた。志乃は、その星から、目を離せなかった。見ているうちに、その星が、ゆっくりと、尾を引いているのに気づいた。細く、長く、蒼白い尾。
彗星だった。
「ミラだ」と、とめ婆さんが、かすれた声で言った。「ミラ彗星だ。何十年かに一度、あの星が空をわたる。わたしが娘のころに、一度見た。それきりだ」
とめ婆さんの目が、火の照り返しのなかで、濡れていた。
「あの星が出る夜はな」ととめ婆さんは言った。「海が、いちばん荒れる。そして、いちばん暗くなる。けれど――いちばん暗い夜にしか、あの星は見えん。まわりが暗ければ暗いほど、あの星は、いよいよ冴えて光る。だから昔から、この浜では言うんだよ。ミラが出たら、望みを捨てるな、と。いちばん暗いときにこそ、いちばん近くに、光がある、と」
志乃は、その蒼い星を見つめた。
海鳴りは、まだやまなかった。闇は、まだ深かった。冷えは、まだ骨を刺した。けれど、その闇の底に、蒼い星が、燃えていた。凍りついた炎のように。凍りついても、消えない炎のように。志乃は、その星に、祈った。言葉にならぬ祈りだった。ただ、胸の底から、熱いものが、こみ上げてきた。それは、絶望のなかから、絶望を突きやぶって、湧いてくる望みだった。
帰ってきて。
その一言を、志乃は、蒼い星に託した。あの星が、海の上のどこかにいるあの人にも、見えていますように。あの星が、あの人の目じるしになりますように。いちばん暗いいま、いちばん冴えて光るあの星が、あの人を、この浜へ、導いてくれますように。
「灯りを、もっと高くしよう」
志乃は、立ち上がって、言った。
篝火は、地面の近くで燃えていた。これでは、沖からは、遠すぎて見えないかもしれない。もっと高く。もっと、遠くまで届くように。
とめ婆さんが、思い出したように言った。「そういえば、月光堂の火があったな」
月光堂、というのは、この浜のはずれにぽつんと建つ、古い店だった。ふだんは、油や蠟燭や、こまごまとした暮らしの品を売る店だった。けれど、志乃たちは、そこに、ふしぎな品があるのを知っていた。青いマッチ箱だった。三日月の刻まれた、藍色のマッチ箱。その火は、ふつうのマッチとちがって、風に強く、雨にも消えにくい、と言われていた。ほんとうかどうかは、わからなかった。けれど、いまは、その火に、すがりたかった。
若い女房が、月光堂へ走った。しばらくして、息を切らして戻ってきた。手に、藍色のマッチ箱を握りしめていた。
「これを」と女房は言った。「店の婆さまが、くれました。持っておゆき、と。この火は、風に負けん火だから、と」
志乃は、そのマッチ箱を受け取った。ざらりとした、藍色の紙の箱。ふたに、三日月が、白く刻まれていた。志乃は、浜のはずれの、高い岩の上に登った。そこに、油をしみこませた松明を立てた。そして、青いマッチ箱から、一本、マッチをすった。
しゅっ、と音がして、火が生まれた。
その火は、たしかに、ふしぎな火だった。あれほど強かった風が、その小さな火だけは、消せなかった。風のなかで、火は、身をよじりながらも、消えずに燃えつづけた。志乃は、その火を、松明にうつした。松明が、燃え立った。志乃は、それを、高く、高く、掲げた。
岩の上で、松明が燃えた。それは、灯台のようだった。この浜には、灯台がなかった。だから、志乃の掲げるその火が、いま、灯台のかわりだった。海に向かって、燃える火。帰っておいで、と叫ぶ火。ここに、あんたを待つ者がいる、と告げる火。
蒼い星と、掲げた火と。
暗い水平線の上に、蒼い彗星が光り、暗い浜の岩の上に、赤い松明が燃えた。天の光と、地の光と。そのあいだの、真っ暗な海を、志乃は、目を凝らして、見つめつづけた。
夜が、しらじらと、ほどけはじめた。
いちばん暗い刻を、少しずつ、抜けていく。東の空の、雲の裂け目のあたりが、ほんのわずか、藍色から、鈍い灰色へと、変わりはじめた。ミラ彗星の蒼い光が、その灰色のなかに、少しずつ、薄れていった。溶けるように。夜明けが近づくにつれて、あの星は、その姿を、隠していった。それは、消えるのではなく、退くようだった。役目を終えて、静かに退くようだった。
志乃は、その星を見送った。ありがとう、と胸のなかで言った。いちばん暗いとき、そばにいてくれて、ありがとう。
海鳴りは、まだ、つづいていた。けれど――志乃は、気づいた。夜半のあの、地を這うような轟きが、少しずつ、和らいでいた。うねりは、まだ高い。波は、まだ荒い。けれど、海の底のほうから響いてくる、あの怒りの震えが、消えかけていた。海が、疲れて、静まりかけていた。時化が、おさまろうとしていた。
夜明けだ。
志乃は、東の空を見た。灰色が、少しずつ、白んでいく。その白さが、水平線のあたりに、滲みはじめた。海と空の境が、うっすらと、見えてきた。夜通し、闇に呑まれて見えなかった水平線が、いま、そこに、あった。
そして、その水平線を、志乃は、目を凝らして、見つめた。
なにも、見えなかった。
ただ、荒れた海が、灰色に広がっているだけだった。白い波頭が、無数に、立ち騒いでいた。船影は、なかった。どこにも、船影は、見えなかった。
志乃の胸のなかで、なにかが、崩れかけた。
夜が明けても、船は、帰らなかった。
浜の女たちは、みな、水平線を見つめていた。だれも、口をきかなかった。ただ、明けていく海を、見つめていた。篝火は、朝の光のなかで、色を失って、白っぽく燃えていた。もう、灯台のかわりは、いらなかった。夜が明ければ、船は、浜のありかを見つけられる。もし、船が、まだ、どこかにいるのなら。
もし。
その「もし」が、女たちの、最後の望みだった。夜明けの光が、海を照らしはじめる。その光のなかに、船影が浮かびはしないか。どこかの島影から、朝を待って、船が漕ぎ出してきはしないか。女たちは、その一点を、祈っていた。
志乃は、岩の上に立ったまま、動けなかった。手のなかには、まだ、あの片方だけの手袋があった。乾いた、けれど、すりきれた手袋。志乃は、それを握りしめて、水平線を見つめた。
太陽が、雲の切れ間から、顔を出した。
夜明けの、いちばんはじめの光だった。その光は、まっすぐに、海の上に射した。荒れた海面が、金色に、きらめいた。無数の波頭が、いっせいに、光をはね返した。海は、それまでの黒い怒りを脱ぎ捨てて、まぶしいほどの、金色の海に変わった。
その、金色の海のなかに――
志乃は、目を、疑った。
水平線の、ずっと遠く。金色の光の、いちばんまぶしいあたり。そこに、黒い、小さな、点が、あった。
点は、揺れていた。波にもまれて、上がり、下がり、それでも、消えなかった。志乃は、目を凝らした。まばたきするのも惜しんで、その点を見つめた。点が、少しずつ、大きくなっていく。近づいてくる。こちらへ、こちらへ。
「船だ」
だれかが、叫んだ。
「船だ、船が、いる」
浜じゅうが、どよめいた。女たちが、いっせいに、立ち上がった。水平線を指さし、名を呼び、泣き、叫んだ。志乃も、叫んでいた。なにを叫んでいるのか、自分でもわからなかった。ただ、喉が、裂けるほどに、叫んでいた。
船だった。まちがいなく、船だった。金色の海の上を、その一艘が、こちらへ向かって、進んでくる。帆は、なかった。おそらく、時化で、へし折れたのだろう。櫓を漕いで、進んでくる。ゆっくりと。けれど、たしかに、進んでくる。
卯之助の船だった。
志乃には、わかった。船の形で、わかった。舳先の、あの反りかたで、わかった。あれは、卯之助の船だ。時化を、生き延びた。島影のどこかで、夜明けを待って、そして、朝とともに、漕ぎ出してきた。ミラ彗星の蒼い光が、掲げた松明の赤い火が、あの船を、導いたのかもしれない。あるいは、それは、志乃の思いこみかもしれない。けれど、そんなことは、どうでもよかった。船は、帰ってくる。あの人は、帰ってくる。
志乃は、岩を駆けおりた。波打ち際まで、走った。冷たい波が、素足を洗った。志乃は、かまわなかった。膝まで、水につかった。両手を、振った。手のなかの、片方だけの手袋を、高く、高く、振った。
ここだ、ここだ、と。
ここに、いるよ、と。
船が、浜に、近づいてきた。
もう、船の上の人影が、見えた。ひとり、ふたり、みたり――そして、櫓を漕ぐ、大柄な男。卯之助だった。ずぶ濡れで、疲れきって、けれど、生きて、櫓を漕いでいた。若い衆も、三人、みな、船の上にいた。ひとりも、欠けていなかった。
卯之助が、浜のほうを見た。志乃の姿を、みとめた。遠くて、その顔の表情までは、見えなかった。けれど、志乃には、わかった。あの人が、笑ったのが。疲れた顔で、それでも、笑ったのが。
案ずるな、と、その笑いが、言っていた。
志乃の目から、涙が、あふれた。夜通し、こらえていた涙だった。絶望のなかでも、こぼすまいとしていた涙だった。それが、いま、堰を切って、あふれた。志乃は、泣きながら、笑った。笑いながら、手袋を振った。おかえり。おかえりなさい。
船が、浜の浅瀬に、乗り上げた。ざざ、と砂を噛む音がした。若い衆が、船から飛びおりた。浜の者たちが、駆け寄って、船を引き上げた。卯之助も、船からおりた。よろめきながら、砂の上に立った。そして、志乃のほうへ、歩いてきた。
ふたりは、波打ち際で、向かいあった。
卯之助は、なにも言わなかった。ただ、ぼろぼろの顔で、志乃を見た。志乃も、なにも言えなかった。ただ、手のなかの手袋を、卯之助のほうへ、差し出した。
「これ」と、志乃は、やっと、言った。「浜に、落ちてました。あなたの、手袋」
卯之助は、その手袋を見た。片方だけの、すりきれた、繕いの糸目のある手袋。それから、自分の手を見た。その手には――もう片方の手袋が、はまっていた。潮に濡れて、色の変わった、けれど、対になる、もう片方。
卯之助は、片方だけの手袋を、志乃の手から受け取った。そして、はめていたほうの手袋を、脱いだ。ふたつの手袋を、並べて、掌にのせた。片方と、片方。離れていた、ふたつが、いま、ひとつに、揃った。
「揃ったな」と、卯之助は、かすれた声で言った。
「揃いました」と、志乃は言った。
「昨夜な」と、卯之助は、ぽつりと言った。「うねりに、船が、かしいだとき、手袋が、片っぽ、海に飛んだ。あっと思う間もなかった。もう、だめかと思った。船が、ひっくり返るかと。若い衆が、櫓にしがみついて、泣いとった。おれも、正直、覚悟した。海に、詫びた。今度ばかりは、と」
卯之助は、そこで、言葉を切った。荒れて、ひび割れた唇が、震えていた。
「けんど、と思うたんだ。浜にゃ、あれが、待っとる、と。志乃と、倅が、待っとる、と。それを思うたら、こんなとこで、海にくれてやるわけには、いかん、と思うたんだ。それで――島影に、船を、寄せた。夜通し、風を、やりすごした。夜明けを、待った。空に、蒼い星が、出とってな。おかしなくらい、冴えた星だった。あれを、目じるしにして、漕いだ。あの星の下に、浜がある、と信じて、漕いだ」
蒼い星。ミラ彗星。あの星を、卯之助もまた、海の上で、見ていたのだ。志乃が、浜で見上げたのと、同じ星を。いちばん暗い刻に、いちばん冴えて光った、あの蒼い星を。志乃は、胸が、いっぱいになった。おなじ星が、離れたふたりを、見おろしていた。おなじ星が、ふたりを、この浜へ、みちびいた。片方と片方が、ひとつに揃ったように。
朝の光が、浜いっぱいに、満ちていた。
海鳴りは、もう、聞こえなかった。おさまりかけたうねりが、しずかに、しずかに、寄せては返していた。夜通し荒れ狂った海が、いまは、なにごともなかったかのように、朝の光を、そのふところに抱いていた。海は、また、いつもの海に、戻っていた。
篝火は、燃え尽きて、白い灰になっていた。その灰の上を、朝の風が、そっと、なでていった。灰は、ほろほろと崩れて、風に、散っていった。役目を終えた火の、静かな終わりだった。
岩の上の松明も、いつのまにか、消えていた。青いマッチ箱で灯した、あのふしぎな火も、夜明けとともに、その役目を終えたのだった。志乃は、あとで、その空になったマッチ箱を、家の神棚に、そっと供えた。三日月の刻まれた、藍色の箱を。あの夜の火を、忘れないために。
蒼い星は、もう、どこにもなかった。ミラ彗星は、夜明けの光のなかに、溶けて、消えていた。けれど、志乃は、知っていた。あの星は、消えたのではない。ただ、退いたのだ。またいつか、いちばん暗い夜が来たら、あの星は、いちばん冴えて、蒼く、光るために、還ってくる。いちばん暗いときにこそ、いちばん近くに、光はある。とめ婆さんの言葉を、志乃は、生涯、忘れないだろうと思った。
家に帰ると、息子が、眠りから覚めていた。
まだ、寝ぼけまなこで、土間に立っていた。志乃と、そのうしろの、ずぶ濡れの卯之助を見て、息子の目が、ぱっと、開いた。
「とうちゃん」
息子が、駆け寄ってきた。卯之助は、その小さな体を、抱き上げた。潮くさい、疲れきった腕で、しっかりと、抱き上げた。息子は、父の首に、しがみついた。
「とうちゃん、帰ってきた」
「ああ」と卯之助は言った。「帰ってきたぞ」
「かあちゃんが、言ってた。朝には、帰ってくるって」
「そうか」と卯之助は言い、志乃を見た。「かあちゃんが、そう言ったか」
「言いました」と志乃は言った。声が、震えた。「朝には、帰ってくるって。ずっと、そう、信じてました」
卯之助は、なにも言わなかった。ただ、息子を抱いたまま、もう片方の腕を伸ばして、志乃の肩を、引き寄せた。三人は、朝の光の射しこむ土間で、身を寄せあった。卯之助の体は、まだ、冷たく、濡れていた。けれど、その冷たさの奥に、たしかな、あたたかさが、あった。生きている者の、あたたかさが。
志乃は、その日の夜、また、子守唄をうたった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
けれど、その夜、うたいながら、志乃は思った。この唄は、いつも、夜のはじめにうたう唄だと思っていた。眠りへ、いざなう唄だと。けれど、そうではないのかもしれない。この唄は、ほんとうは、夜明けの唄なのかもしれない。いちばん暗い夜を、耐えぬいて、待ちぬいて、そして、朝の光を迎えるための唄。星が、海をわたりきるまで、待ちつづける者の、唄。
星は、海を、わたった。そして、朝が、来た。
それから、幾年もの月日が流れた。
息子は、大きくなり、やがて、父と同じ、漁師になった。志乃は、年老いた。とめ婆さんは、静かに、あの世へ旅立った。卯之助も、いつか、櫓を漕ぐ腕が、細くなった。
けれど、志乃は、いまでも、覚えている。あの、寅の刻の、夜明け前を。海がまだ怒っていて、闇がいちばん深く、冷えがいちばん骨に沁みた、あの刻を。そして、その闇の底に、蒼い星が、燃えていたことを。凍りついた炎のように。消えることのない、炎のように。
年をとってから、志乃は、一度だけ、ふしぎな店に入ったことがあった。彗星の見える夜だった。浜の路地の、いつもは行きどまりのはずのところに、ぽつりと、灯りがともっていた。月光書房、という古い看板がかかっていた。中には、天井まで、古い本が積まれていた。志乃は、字が読めなかったから、本のことは、わからなかった。けれど、店の奥の老人が、一冊の本を、そっと、志乃の手に持たせてくれた。「あんたの話も、いつか、このなかの一頁になるかもしれんよ」と、老人は言った。「待った女の話は、みな、どこかで、つながっとる。おなじ星の下で、おなじように、待っとる」と。翌朝、その路地は、また、ただの行きどまりに戻っていた。店は、どこにもなかった。夢だったのかもしれない。けれど、志乃は、その老人の言葉を、覚えていた。おなじ星の下で、おなじように、待っている。そう思うと、あの夜の、長い長い闇も、志乃ひとりのものではなかったのだ、という気がした。
いちばん暗いときにこそ、光は、いちばん近くにある。
志乃は、いまでも、荒れた夜には、浜に立つ。息子が海に出ているときは、なおのこと。そして、暗い海に、目を凝らす。夜明けを、待つ。あの、片方だけの手袋のことを、思い出しながら。離れても、また会える。片方だけ残るというのは、そういうしるしだから。
朝が来るたびに、志乃は、思う。どんなに暗い夜にも、かならず、朝は来る。海がどんなに荒れても、かならず、凪ぐときが来る。それを、あの夜、海が、教えてくれた。いちばん暗い刻に、いちばん冴えた星が、教えてくれた。
だから、志乃は、待つ。祈りながら、待つ。火を焚いて、唄をうたって、待つ。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
――そして、朝が来れば、海のいちばん遠いところに、ちいさな黒い点が、揺れながら、こちらへ、帰ってくるのを、志乃は、知っている。