白洲
白洲
正午の河原は、音を失っていた。
蝉の声さえ、この白い光の底には届かない。夏の陽が天のいちばん高くにのぼりきって、石という石の影を根こそぎ吸い上げてしまった刻限である。足もとに、影がない。おのれの影が、ちょうどおのれの立つ位置に畳み込まれて、まるで地に縫いつけられたように短い。井上左門は、自分の草鞋の先に落ちた黒い一点のような影を、まばたきもせずに見ていた。
河は、白く光っていた。真昼の光を鱗のように散らして、ゆるやかに流れていた。その流れの音だけが、この灼けた静寂のなかで、かろうじて生きているものの気配だった。左門は、河原に立っていた。もう半刻も、そこに立っていた。約束の刻より、早く来すぎたのだ。早く来て、この白洲に立ち、おのれの心を、鎮めておきたかった。だが、心は、鎮まらなかった。灼ける石の熱が、足の裏から這いのぼって、胸のあたりで、じりじりと燃えていた。
対岸から、もう一人が渡ってくる。
浅瀬を選んで、石を踏み、水を踏み、また石を踏む。水音がひとつ、ふたつ、白洲に散った。左門はその音を、遠い鐘のように聞いた。渡ってくるのは、村瀬伊織。かつて同じ道場で、同じ師の下で竹刀を交え、同じ井戸の水を飲んだ男である。かつて、左門を肩車にして、この河に入ってくれた男である。「どうだ、左門、高いか」と笑った、あの男である。
十七年ぶりだった。
村瀬伊織は、川のなかほどで一度、足を止めた。
膝下まで水に浸かったまま、まぶしそうに空を仰いだのである。左門もつられて空を見た。白い。ただ白い。青の名残さえ、この時刻には焼き飛ばされて、天は溶けた銀の板のように輝いていた。目を開けていられぬほどの光の底に、しかし――と左門は思う。しかし、あれは何だ。
天頂よりわずかに西に寄ったあたり。灼けた白のなかに、ぽつりと、蒼い一点があった。
昨夜からのものだと、左門は知っていた。いや、この数日、明け方の東の空に、蒼白い長い尾を引いて懸かる星があった。彗星である。旅籠の親父が言うには、六十年に一度あらわれるとかいう星で、名を持っているらしかったが、左門はその名を覚えていない。ただ、明け方の淡い空に、剣の切先のような尾を伸ばして懸かるさまは、忘れがたかった。
その星が、いまは真昼の白い天に、蒼い一点となって残っている。
真昼にも見えるほど、明るい。滅多にないことだ、と旅籠の親父は目を細めて言った。
村瀬伊織もまた、それを見ていた。二人の男が、川をへだてて、同じ蒼い一点を仰いでいる。斬るために来た者と、斬られぬために来た者とが、である。
やがて村瀬が視線を落とし、ふたたび足を進めた。水を割って、白洲へと上がってくる。着物の裾から、雫がぽたりぽたりと落ちて、白い石を濡らし、その染みはたちまち陽に舐められて消えた。
「久しいな、井上」
村瀬の声は、低く、乾いていた。かつての、よく笑う男の声ではなかった。左門は答えなかった。答える言葉を、この十七年のあいだ、幾百通りも用意してきたはずだった。それが、いまはひとつも喉を通らない。
十七年
因縁の始まりを、左門は正確には知らない。
知っているのは、結末のほうだった。左門の兄――井上右近が、村瀬伊織に斬られて死んだ。それが十七年前の、やはり夏のことである。
道場では、右近と伊織は双璧と呼ばれた。技においては伊織がまさり、胆においては右近がまさる、と師は評した。二人は仲がよかった。少なくとも、左門の目にはそう見えていた。まだ元服前だった左門は、二人の兄弟子が河原で稽古をつけてくれるのを、犬ころのように追いかけて回ったものだ。
思い出すのは、いつもこの河原だった。夏の朝、まだ陽のやわらかいうちに、二人の兄弟子はここへ出て、竹刀を交えた。左門は土手の草に寝ころんで、それを飽かず眺めていた。右近の打ち込みは、豪快で、大地を割るようだった。伊織のさばきは、水のようで、その豪快な太刀を、するりと受け流した。打っては流し、流しては打ち、二人は日が高くなるまで、汗みずくになって竹刀を振った。稽古が終わると、伊織はきまって左門を肩車にして、川に入った。「どうだ、左門、高いか」と、伊織は笑った。左門は、その肩の高さから見る川面が、きらきらと光っていたのを覚えている。
伊織は、よく笑う男だった。右近は、無口な男だった。だが、その無口な兄が、伊織の前でだけは、よく笑った。二人が並んで歩くうしろ姿を、左門は、いまでも思い出すことができる。よく似た背丈の、よく似た足どりの、二つの影。
その二人が、なぜ斬り合ったのか。
表向きの理由は、藩の御前試合の選に漏れた漏れぬの遺恨、ということになっていた。だが左門は、それを信じていない。信じていないが、真実を知る者はみな口をつぐんだ。師も、朋輩も、そして当の村瀬伊織も。伊織はそのまま出奔し、行方をくらませた。
右近の亡骸は、この河原で見つかった。ちょうど、いま左門が立っているあたりで。夏の陽に灼かれて、白洲の石が右近の血をひといろに染めていた。左門は十四だった。兄の骸にすがって泣いたのを、いまでも覚えている。石が熱かったこと、蝉が鳴いていたこと、そして――兄の右手に、片方だけ、手甲が残っていたこと。
もう片方の手甲は、どこにもなかった。
左門はそれを、長いあいだ考え続けた。なぜ片方だけなのか。斬り合いのさなかに落ちたのか。それとも、誰かが持ち去ったのか。答えは出なかった。ただ、残された片方の手甲を、左門は形見として肌身離さず持っている。革はすっかり古び、色も褪せて、いまでは何色であったかも分からぬほどだ。それを、この十七年、左門は懐に入れて歩いてきた。
村瀬伊織を捜して。
兄が死んでのち、井上の家は傾いた。
一家を支えるべき嫡男を失い、父はほどなく病に臥して世を去った。母は、右近の位牌の前で、日がな一日、あの子守唄を、ちいさな声でうたっていた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――と。左門は、その母の背を見て育った。家督を継いだのは、まだ前髪の取れぬ左門だった。
家禄は減じられ、屋敷は狭いものに移された。それでも左門は、剣だけは、捨てなかった。捨てるどころか、憑かれたように打ち込んだ。道場の朝稽古に、誰よりも早く出た。夜、皆が寝静まってからも、ひとり庭で木刀を振った。掌の皮が破れ、血がにじみ、それが固まって胼胝になった。何百回、何千回と、左門は虚空を斬った。斬るべき相手を、心のなかに立てて。
村瀬伊織を斬る。
それだけが、左門を生かしていた。憎しみは、飯であり、水であり、灯りであった。それがなければ、傾いた家のなかで、左門はとうに折れていただろう。憎しみが、背骨のかわりに、左門を支えて立たせていた。
母が死んだのは、左門が二十五のときだった。臨終の枕もとで、母は、やせた手で左門の手を握り、消え入るような声で言った。「左門。……もう、よいのですよ。あの人を、追うのは。右近も、それは、望んではおりますまい」。左門は、答えなかった。答えれば、母を騙すことになる。左門は、追うのをやめる気は、なかった。母は、それを察したのだろう。かなしげに微笑んで、目を閉じた。最期に、母は、あの唄を、口のなかで、うたっていた。眠れ、眠れ、と。
母を葬ってのち、左門は、藩に暇を願い出た。仇を討つ、と。藩は、それを許した。かくして左門は、浪々の身となり、村瀬伊織を捜す旅に出た。
十二年、捜し続けた。
北は奥州から、南は九州まで。村瀬伊織の名を、左門は、行く先々でたずねて回った。だが、村瀬は名を変えていた。手がかりは、いくどとなく途切れた。似た男を見つけては、追い、そのたびに、人違いであった。宿場の飯盛り女に路銀をだまし取られたこともある。用心棒に雇われて、糊口をしのいだこともある。剣で立ち合い、人を斬ったことも、一度や二度ではなかった。左門の腕は、旅のあいだに、恐ろしいほど鋭くなっていた。憎しみに研がれて。
そのあいだにも、左門は幾度となく、自問した。おのれは、何のために生きているのか、と。仇を討ったところで、兄は還らぬ。母も、父も、還らぬ。討ったのちに、おのれには、何が残るのか。答えは、なかった。それでも、左門は、追うのをやめなかった。やめれば、この十七年が、いや、この生涯が、すべて空しくなる。そう思うと、やめられなかった。
見つけたのは、三月前のことだった。
西国の、名も知れぬ宿場町で、村瀬は道場を開いていた。名を変え、貧しい子らに剣を教えて暮らしていた。左門がそれを突き止めたとき、村瀬はもう、逃げなかった。
その道場を、左門は、垣根の外から、しばらく見ていた。粗末な、板葺きの道場だった。なかから、子らの声がしていた。掛け声と、竹刀の音と、そして――笑い声。村瀬は、子らのあいだに立って、ひとりの小さな子の竹刀の握りを、直してやっていた。老いていた。だが、その所作には、覚えがあった。遠い日、この左門の握りを、同じように直してくれた、あの手つきだった。
左門の胸に、鋭いものが刺した。憎しみの刃と、それとは別の、名づけようのない何かとが。左門は、その日は、道場に踏み込まなかった。
翌日、左門は、道場をたずねた。子らのいない、夕暮れどきを選んで。
村瀬は、道場の板の間に、ひとりで座っていた。竹刀の手入れをしていた。障子ごしの西日が、その痩せた背を、赤く染めていた。左門が敷居をまたぐと、村瀬は、顔を上げた。そして、しばらく、左門の顔を、じっと見た。手にした竹刀を、そっと、脇に置いた。
「……右近どの、か」と、村瀬はつぶやいた。まるで、亡霊でも見るように。
「弟だ」と左門は言った。「井上左門。井上右近の、弟」
村瀬は、目を閉じた。深く、息を吐いた。それは、長いあいだ待っていたものが、ついに来た、というような、そういう吐息だった。
「果たし合いを、望むか」
村瀬は、目を開けて、そう言った。左門が名乗りを終えるか終えぬかのうちに。左門の顔に、兄の面影を、はっきりと見たのだという。あとで村瀬は言った。「そなたは、目もとが、右近どのに、よう似ておる」と。
「望む」と左門は答えた。
「そうか」と村瀬は言った。抗いもせず、命乞いもせず、ただ、静かに。「では、河原で。あの河原で。夏の、陽のいちばん高い刻に」
その刻を、村瀬みずから指定したことに、左門は、かすかな違和を覚えた。果たし合いを望まれた者が、その場と刻を、細かに指定する。まるで、そこで、その刻に、決着をつけることに、なにか意味があるかのように。だが、左門は、問わなかった。なぜあの河原で、なぜ真昼なのか。ただ、二人のあいだで、それは初めから決まっていたことのように、静かに定められた。
「三月、待ってくれ」と村瀬は言った。「子らに、あとを託さねばならぬ。ひとり、目をかけておる子がおる。その子に、道場を継がせる、その手はずを、整えたい」
左門は、うなずいた。
その三月のあいだ、左門は、宿場のはずれの安宿に逗留した。そして、しばしば、道場のようすを、遠くから見た。村瀬は、いつもどおり、子らに剣を教えていた。斬られに行く男とも思えぬ、おだやかな日々だった。だが、左門は気づいていた。村瀬が、少しずつ、身辺を整えていることに。書物を売り、道具を譲り、身のまわりを、軽くしていくのを。この男は、まことに、死ぬつもりなのだ、と左門は思った。逃げも隠れもせず、ただ、あの河原で、あの刻に、斬られるつもりなのだ。
なぜだ、と左門は思った。そのとき、左門は、まだ知らなかった。
そうして、三月が過ぎ、いま。
白い光
二人は、六間ほどをへだてて向かい合った。
白洲の石は、焼けた鉄鍋のようだった。草鞋を通して、足の裏が灼ける。左門は汗が背を伝うのを感じたが、それは暑さのためばかりではなかった。
村瀬伊織は、痩せていた。十七年の歳月が、この男の頬を削ぎ、鬢に霜を置いていた。だが、その眼だけは、左門の記憶にある兄弟子の眼のままだった。深く、澄んで、そして――かなしげだった。斬り合いの前に浮かべる眼ではない、と左門は思った。
左門は、この十七年、幾度となく、この対面の刻を思い描いてきた。夢に見たこともある。夢のなかの村瀬は、いつも、ぼんやりと霞んでいて、顔がなかった。憎むべき相手の顔を、左門は、忘れかけていたのだ。十四のときの記憶しか、なかったから。それが、いま、こうして、はっきりと目の前にある。皺の刻まれた、日に灼けた、老いた剣客の顔が。左門は、その顔を、まじまじと見た。憎もうとした。だが、憎しみは、うまく、燃えあがらなかった。まるで、湿った火口のように。
なぜだ、と左門は焦った。十七年、この日のために生きてきた。この男を斬るために。それが、いざ相対してみると、胸のうちの炎が、頼りなく、ゆらいでいる。左門は、おのれを叱咤した。思い出せ、と。兄の骸を。血に染まった白洲の石を。位牌の前でうたう母の背を。傾いた家を。掌の胼胝を。旅の辛酸を。すべては、この一瞬のためであったはずだ。
「井上左門」と村瀬は言った。「右近どのの、弟御か」
「いかにも」
「大きゅうなられた」
村瀬の口もとが、わずかにゆるんだ。それは、笑みだった。かつて河原で竹刀を教えてくれた、あの日の兄弟子の笑みに、たしかに似ていた。左門の胸に、鋭いものが刺した。憎むために、憎み続けるために、この十七年を生きてきた。その相手が、いまこうして、なつかしげに自分を見ている。
「刀を」と左門は言った。声が、思いのほか掠れた。
村瀬はうなずいた。ゆっくりと、腰の刀に手をかけた。だが、抜かなかった。抜く前に、村瀬はもう一度、空を仰いだ。あの蒼い一点を。
「あの星を、覚えておいでか」と村瀬が言った。
左門は答えなかった。
「六十年に一度、あらわれるという。……右近どのと拙者が、まだ竹刀の稽古に明け暮れておった頃、いや、それよりずっと前、拙者がまだ幼かった頃にも、一度あらわれたそうだ。祖母がよう話してくれた。あの蒼い星が海をわたる頃には、と」
村瀬の声が、ふと、遠くなった。
「祖母は、子守唄をうたってくれた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……と。妙なものだ。こんな刻に、こんな場所で、あの唄をふと思い出すとは」
左門の胸の底で、何かが疼いた。その子守唄を、左門もまた知っていた。母が、うたってくれた。そして――兄が。夜、幼い左門が寝つけぬとき、右近が低い声でうたってくれたのだ。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、と。
だが、いまはそれを言うまい、と左門は思った。言えば、刀が抜けなくなる。
「昔語りをしに来たのではない」左門は言った。
「そうだな」村瀬はうなずいた。「そうだ。許せ」
抜き合わせ
二人は、腰を落とした。
村瀬が、刀を抜いた。白い光が、刀身の上を滑った。眩しさに、左門は目を細めた。おのれもまた、鯉口を切る。鋼が鞘走る音が、しんとした河原にひとつ、鳴った。
抜いた。二本の刀が、真昼の光を受けて、蒼白く燃えた。
左門は青眼に構えた。村瀬もまた、青眼。切先と切先とが、六尺の空をへだてて、たがいの喉もとをうかがう。
そこから、時が止まった。
いや、時は流れていた。だが、左門にはそれが感じられなかった。ただ、汗の一滴が、額から眉へ、眉から瞼へと伝い落ちていくのだけが、やけにゆっくりと感じられた。その一滴が、目に入る。塩の辛さが、瞼を刺す。だが、まばたきはできない。まばたきひとつが、生死を分かつ。
村瀬の切先は、微動だにしなかった。
痩せた男のどこに、と左門は思った。この男の刀は、静かだ。あまりに静かで、まるで凪いだ水面のようだった。左門の刀は、わずかに震えていた。それが、憎しみの震えなのか、恐れの震えなのか、左門にはもう分からなかった。
蝉が、鳴きやんでいた。
風が、死んでいた。
白洲の熱が、二人の足もとから立ちのぼって、陽炎となって刀身をゆらめかせた。その陽炎の向こうに、村瀬の顔があった。汗ひとつかいていないように見えた。いや、かいている。だが、その顔は、静かだった。斬られてもよい、とでもいうような静けさだった。
左門は、いらだった。
なぜ、そのように静かなのだ。おのれは兄を殺した男ではないか。おのれには、その報いを受ける覚悟があるのか。それとも――と、ここで左門の胸に、ひとつの疑いが、暗い泡のように浮かんだ。それとも、この男には、斬られてもよい理由があるのか。
十七年。左門が捜し続けたこの十七年、村瀬伊織もまた、待っていたのではないか。この一瞬を。この河原で、右近の弟の刀に斬られる、この一瞬を。
「なぜ」と、左門は口を開いた。切先を村瀬に向けたまま。「なぜ、兄を斬った」
村瀬の眉が、かすかに動いた。
「いまさら、聞くか」
「聞く」左門は言った。「斬る前に、聞いておく」
しばしの沈黙があった。陽炎が、ゆらめいた。蒼い星が、白い天に懸かっていた。
「……右近どのは」と村瀬が、ゆっくりと言った。「拙者を、庇うて死なれた」
左門の切先が、揺れた。
「何を言う」
「そのままの意味だ」村瀬の声は、静かだった。「あの日、この河原で斬り合うたのは、真だ。だが、拙者と右近どのが斬り合うたのではない。……第三の者がおった」
左門は、動けなかった。刀を握る手が、白くなるほど強く柄を握りしめていた。
「藩の、上士の子であった」村瀬は続けた。「名は言うまい。もう死んだ男だ。その男が、御前試合の遺恨から、拙者を闇討ちにせんとした。この河原で。……右近どのは、それを知って、駆けつけてくれた。そして、拙者の身代わりに、斬られた」
村瀬の声が、震えた。十七年、胸の底に沈めてきたものを、いま、ひとつずつ、掬い上げるように。
「あの日も、こんな真昼であった」と村瀬は言った。「拙者は、その上士の子に、河原へ呼び出された。話がある、と。拙者は、まさか闇討ちとは思わず、のこのこと出向いた。だが、待っていたのは、その男ひとりではなかった。用人が、三人。抜き身をさげて、拙者を囲んだ。……はめられた、と気づいたときには、遅かった」
白い光が、二人の上に、降りそそいでいた。
「拙者は、一人を斬った。だが、三人を相手に、しかも背後から、多勢に。もはやこれまでと、覚悟したそのとき――右近どのが、駆けつけてこられた。どこで聞きつけられたのか、いまでも分からぬ。右近どのは、拙者の前に立ちはだかり、太刀を振るって、二人を斬り伏せた。豪快な、あの太刀で。だが、最後の一人――上士の子が、右近どのの、その背に」
村瀬は、言葉を切った。喉が、鳴った。
「右近どのは、拙者を庇うて、背を斬られた。ふり向きざま、拙者は、その上士の子を斬った。斬って、斬って、斬り伏せた。だが、もう、遅かった。右近どのは、白洲に倒れ、拙者の腕のなかで……」
村瀬の眼から、ひとすじ、光るものが、頬をつたった。
「右近どのは、最期に、笑うておられた。『伊織、生きよ』と。『わしのぶんまで』と。……そう言うて、逝かれた」
「嘘だ」左門は、呻くように言った。「兄の亡骸は、この河原で見つかった。おまえに斬られて」
「拙者に斬られたのではない」村瀬は、まっすぐに左門を見た。「その上士の子に斬られたのだ。拙者はその男を斬った。右近どのを斬った男を。そして――拙者は、逃げた。斬り殺した男たちを、白洲に残して。右近どのの骸を、残して。……藩の追及を恐れ、上士の家の報復を恐れ、拙者は、ただ、逃げた」
片方の手甲
左門の頭のなかで、十七年が、音を立てて崩れていくようだった。
「なぜ、逃げた」左門は言った。「まことなら、なぜ名乗り出て、真相を明かさなかった」
村瀬の顔に、はじめて、苦いものが浮かんだ。
「明かせば、藩がどうなるか。上士の家がどうなるか。……いや、それは言い訳だ」村瀬は、目を伏せた。「まことは、怖かったのだ。右近どのを死なせた、この身が。庇われて生き延びた、この身が。名乗り出て、右近どのの遺族に――そなたに、どの面下げて会えばよいか、分からなかった。だから、逃げた。臆病者よ」
白い光が、二人の上に降りそそいでいた。
「だから、」と村瀬は言った。「そなたが拙者を見つけたとき、拙者はほっとしたのだ。ようやく、終わる、と。この十七年、拙者はこの一瞬を待っておった。右近どのの弟の刀で、この身を終わらせてもらう、この一瞬を」
左門は、刀を握ったまま、立ちつくしていた。
信じてよいのか。この男の言うことを。十七年、憎み続けた男の言葉を。だが――と左門は思った。だが、もし嘘なら、この男はもっと巧みに嘘をつくだろう。斬られぬための嘘を。命乞いの嘘を。この男の言葉には、そのようなものが、ひとかけらもなかった。ただ、疲れた男が、荷を下ろすように、真実を置いていくだけだった。
「証はあるか」左門は、かろうじて言った。
村瀬は、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「証、と言えるかどうか。……あの日、右近どのは、片方の手甲を落とされた。斬り合いのなかで。その手甲を、拙者が拾うた。逃げるとき、無我夢中で、それだけを握りしめて逃げた。右近どのの、ただひとつの形見として。この十七年、肌身離さず持っておる」
村瀬は、左手を懐に入れた。
そして、取り出した。古びた、色褪せた、片方だけの手甲を。
左門の懐にあるものと、対をなす、もう片方の手甲を。
左門の刀が、下がった。
切先が、地を指した。左門は、村瀬の手のなかの手甲を、まばたきもせずに見ていた。革の縫い目、褪せた色、擦り切れた縁。まちがいなかった。左門が十七年持ち歩いてきたものと、それは、対だった。左と右。兄の、両の手を守っていた、二つの手甲。
「……兄の」と左門は言った。声にならなかった。
「これを、そなたに返そうと思うていた」村瀬は言った。「斬られる前に。せめて、これだけは」
村瀬は、手甲を左門のほうへ差し出した。だが、二人のあいだには、まだ六尺の距離があった。村瀬は、それ以上、近づこうとはしなかった。近づけば、左門の刀の間合いに入る。斬られてもよいと言いながら、村瀬は、剣客の理から外れることをしなかった。
あるいは、それは、村瀬なりの、最後の作法だったのかもしれない。左門に、選ばせるための。
左門は、懐に手を入れた。おのれの持つ、片方の手甲を取り出した。
そして、二人の男は、白洲の真ん中で、それぞれ片方ずつの手甲を手にして、向かい合っていた。真昼の光が、褪せた革を照らしていた。
正午
陽が、天頂に達した。
影が、消えた。完全に。左門の足もとにあったわずかな影さえ、この一瞬、地に吸い込まれて、なくなった。世界が、白い光でひといろに満たされた。石も、水も、二人の男も、みな影を失って、白い光のなかに溶けそうだった。
この刻だ、と左門は思った。
村瀬が、なぜ真昼を選んだのか、いまわかった気がした。影のない刻。偽りのない刻。すべてが白日の下にさらされる刻。この刻に、二人は、真実と向き合う。
左門の胸のなかで、十七年の憎しみが、揺れていた。
斬るべきか。
斬らぬべきか。
もし、村瀬の言葉が真なら、この男は兄の恩人だった。兄の身代わりを申し出た者を斬った、兄の仇を討った男だった。斬るべきではない。だが――と左門は思う。だが、それでも、兄はこの男を庇って死んだのだ。この男さえいなければ、兄は死ななかった。この男が生きて、兄が死んだ。その不条理は、真実がどうであれ、消えはしない。
斬れば、兄の恩人を斬ることになる。
斬らねば、兄の死は、報われぬままだ。
左門は、刀を握りなおした。
村瀬伊織は、動かなかった。
刀を、青眼に構えたまま。だが、その構えには、殺気がなかった。攻める意志も、守る意志も。ただ、待っていた。左門の刀を。左門の選択を。
「斬れ」と、村瀬は言った。静かに。「そなたが斬ると決めたなら、拙者は避けぬ。この十七年の、けじめだ。右近どのへの、拙者のせめてもの――」
「黙れ」左門は言った。
左門の声が、震えていた。
「黙れ。おまえが決めることではない。斬るか斬らぬかは、俺が決める。おまえに、勝手に終わらせてもらっては、困る」
村瀬の眼が、わずかに見開かれた。
左門は、刀をふたたび青眼に上げた。切先が、村瀬の喉もとを指した。左門の眼から、汗か涙か分からぬものが、頬を伝って落ちた。白い石の上に、ひとつ、染みをつくった。その染みは、たちまち陽に舐められて、消えた。
「構えろ」左門は言った。「まともに構えろ、村瀬伊織。俺は、おまえを、剣客として斬る。兄を庇うて死なせた男としてでもなく、兄の仇を討った男としてでもなく。……ただ、井上左門と、村瀬伊織として。積年の因縁の、決着として」
村瀬の顔に、ふと、あの笑みが浮かんだ。かつての、兄弟子の笑み。かなしく、なつかしい笑み。
「……そうか」と村瀬は言った。「右近どのの、弟だな。まことに」
村瀬の構えに、はじめて、殺気が宿った。
頂点
蒼い星が、白い天に懸かっていた。
二本の刀が、真昼の光に燃えていた。
二人の剣客は、青眼に構え、切先と切先とで、たがいの生死をうかがった。汗が、光った。熱が、陽炎となって立ちのぼった。蝉は鳴かず、風は死に、川の音さえ、この一瞬、聞こえなかった。
左門は、村瀬の眼を見ていた。
村瀬もまた、左門の眼を見ていた。
眼だけが、語っていた。言葉は、もう、いらなかった。十七年の歳月が、いま、この四尺の空に、みっしりと詰まっていた。左門は、村瀬の切先の、わずかな揺らぎを見のがすまいとした。老いたとはいえ、村瀬の腕は、あなどれなかった。かつて、技においては伊織がまさる、と師は評した。その伊織が、十七年、剣を教えて生きてきたのだ。刀こそ握らずとも、その体は、剣の理を、忘れてはいまい。
一方の左門は、憎しみに研がれた、若い剣だった。速さでは、まさる。だが、村瀬の静けさは、その速さを、しんと呑みこんでしまうような、底知れなさがあった。
先に動いたほうが、死ぬ。
そういう間合いだった。青眼と青眼。攻めれば、相手の切先が、こちらの動きの隙間を縫って、喉を突く。動かずにいれば、いつまでも、この灼ける熱のなかで、対峙し続けることになる。汗が、目に入る。喉が、渇く。腕が、しびれてくる。この均衡は、いつまでも、続きはしない。どちらかの心が、先に、折れる。あるいは、逸る。逸ったほうが、斃れる。
間合いが、詰まった。すり足ひとつ、また、ひとつ。白洲の石を、草鞋がわずかに擦った。その音だけが、世界に鳴った。二人のあいだの六尺が、五尺になり、四尺になった。あと一歩。あと半歩。踏み込めば、届く。届けば、どちらかが、あるいは両方が、この白洲に倒れる。
左門の呼吸が、止まった。
村瀬の呼吸も、止まった。
その、止まった呼吸のなかで、左門は、遠い日の唄を聞いた気がした。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――兄の声だった。低く、やさしい、あの声だった。夜、寝つけぬ左門の枕もとで、右近がうたってくれた、あの唄。
――伊織、生きよ。わしのぶんまで。
村瀬の語った、兄の最期の言葉が、左門の胸のうちで、こだました。もし、それが真なら。もし、兄が、この男に、生きよと言い遺したのなら。いま、この男を斬ることは、兄の遺志に、背くことではないか。だが――と左門は思う。だが、それは、この男の言い分にすぎぬ。証は、片方の手甲だけ。あの手甲とて、兄を斬って奪ったものかもしれぬ。信じてよいのか。信じたいだけではないのか。憎しみを、手放したいだけでは。
心が、千々に乱れた。だが、乱れれば、斬られる。左門は、その乱れを、渾身の力で、押し殺した。剣は、心の乱れを、そのまま切先に映す。いま、左門の切先は、わずかに、震えていた。村瀬の切先は、凪いだままだった。
星が、海をわたるまで。
蒼い星が、いま、白い天を、ゆっくりとわたっていた。真昼にも見えるほど、明るい、蒼い一点となって。六十年に一度の星。兄が生きていた頃には、まだ見えなかった星。母が死んだ頃にも、なかった星。それが、いま、ちょうどこの一瞬に、二人の剣客の頭上を、わたっていく。まるで、この決着を、見届けるかのように。あるいは、天の高みから、無心に、見おろすかのように。星にとっては、人の生き死になど、一瞬の、ちいさな、とるにたらぬ出来事にすぎぬのだろう。それでも、左門には、その蒼い一点が、兄の眼のように思えた。じっと、この河原を、見つめている、兄の眼のように。
抜き合わせの一瞬は、音もなく訪れた。
静寂
どちらが先に動いたのか、左門には分からなかった。
気がついたとき、二人はすれ違っていた。左門は前のめりに数歩、村瀬もまた、逆の方へ数歩。白洲の石を踏み、二人は背を向けて立っていた。刀を振り抜いた姿勢のまま。
しんとしていた。
風が、戻ってきた。川の音が、戻ってきた。蝉が、どこかでまた鳴きはじめた。世界が、音を取り戻していた。だが、左門はまだ、動けなかった。おのれの刀に、手ごたえがあったのか、なかったのか、それが分からなかった。
背後で、かすかな音がした。
金属が、石に触れる音。刀が、白洲の石の上に、落ちた音だった。
左門は、振り返った。
村瀬伊織が、立っていた。刀を落として。右腕を、だらりと下げて。その右の袖が、切り裂かれていた。だが、血は、出ていなかった。左門の刀は、村瀬の袖を斬り、その下の――手甲の緒を、断っていた。村瀬が右手に握りしめていた、片方の手甲。その緒が断たれて、手甲が、はらりと、白洲の石の上に落ちた。
兄の、片方の手甲が。
左門の刀は、村瀬の身は斬らず、ただ、その手甲を落としただけだった。
村瀬は、しばらく、その落ちた手甲を見下ろしていた。
それから、ゆっくりと、左門を振り返った。
二人の眼が、合った。
「……なぜ」と、村瀬が言った。掠れた声で。「なぜ、斬らなんだ」
左門は、答えなかった。答えられなかった。おのれでも、分からなかった。抜き合わせのあの一瞬、たしかに左門は斬ろうとした。斬るつもりだった。だが、刀は、村瀬の身を逸れた。逸れて、ただ、手甲を落とした。それが、左門の意志だったのか、剣の理だったのか、それとも――兄の、意志だったのか。
左門は、刀を鞘に納めた。
そして、白洲の石の上に落ちた、二つの手甲を見た。おのれの手から、いつのまにか落ちていた片方と、村瀬の手から斬り落とされた片方と。二つの手甲が、白い石の上に、寄り添うように落ちていた。左と右。兄の、両の手を守っていた、二つの手甲が、十七年ぶりに、ひとつところに揃っていた。
左門は、歩み寄って、二つの手甲を拾い上げた。
そして、片方を――右のほうを、村瀬に差し出した。
「持っていろ」と左門は言った。「兄の形見だ。おまえも、持っていろ」
村瀬は、その手甲を、しばらく見つめていた。それから、震える手で、受け取った。老いた剣客の眼から、ひとすじ、涙が伝った。白洲の石に落ちて、たちまち陽に舐められて、消えた。
「……よいのか」と村瀬は、掠れた声で言った。「拙者を、生かして。そなたの、十七年は。……そなたの、憎しみは」
左門は、答えなかった。すぐには。おのれの十七年が、この一瞬で、どこへ行ってしまったのか、左門にも、分からなかった。斬るために生きてきた。斬らねば、この歳月は、空しくなる。そう思っていた。だが、いま、斬らずにいて、左門の胸のうちは、空しくは、なかった。むしろ、何か、重い荷を、下ろしたような、そういう心地だった。長いあいだ、背負ってきた荷を。
「憎しみは」と、左門は、ようやく口を開いた。「消えはせぬ。おそらく、生涯、消えぬ。兄は、還らぬのだから。……だが」
左門は、村瀬を見た。
「だが、おまえを斬っても、兄は還らぬ。おまえを斬れば、俺は、兄が生かした男を、殺すことになる。兄の遺志を、二度、殺すことになる。……それは、できぬ」
村瀬は、深く、頭を垂れた。老いた背が、ちいさく、震えていた。声を殺して、泣いていた。十七年、たったひとりで背負ってきた罪の荷が、いま、この河原で、ようやく、赦されたのだった。赦されることを、この男は、望んでいなかったかもしれぬ。ただ、斬られることだけを、望んでいたのかもしれぬ。だが、左門は、斬らなかった。斬らぬことで、この男に、生きるという、もっと重い罰を、与えたのだった。あるいは、それは、罰ではなく――赦しだったのか。左門にも、分からなかった。
星が海をわたるまで
二人は、川のほとりに、並んで座った。
刀を捨て、殺気を捨て、ただ、二人の男として。左門は、褪せた片方の手甲を、懐に戻した。村瀬もまた、対の片方を、懐に納めた。二つの手甲は、ふたたび離ればなれになった。だが、それでよい、と左門は思った。二人が生きているかぎり、二つの手甲は、この世のどこかで、対であり続ける。
「右近どのは」と、村瀬が、川面を見ながら言った。「よき兄者であったろう」
「ああ」と左門は言った。「よき兄だった」
「拙者にとっても、よき友であった」
風が、川面を撫でた。水が、光を散らした。真昼の白い光は、少し、やわらいでいた。陽が、天頂を過ぎて、わずかに西に傾きはじめていた。二人の足もとに、また、影が生まれつつあった。細く、長く、二つの影が、川のほうへと伸びていた。
左門は、空を仰いだ。
蒼い星は、まだ、白い天に懸かっていた。だが、その蒼は、先ほどより、淡くなっていた。真昼の光が去りゆくにつれて、あの星もまた、天の奥へと退いていくのだろう。六十年に一度の星。次にあらわれるとき、この河原にいる者は、もう誰もいない。左門も、村瀬も、この世にはいない。だが、星は、また、めぐってくる。海をわたって。
眠れ、眠れ、と左門は、胸のうちで、うたった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
兄よ、と左門は思った。眠れ。もう、眠れ。
村瀬伊織が、立ち上がった。
「では」と、老いた剣客は言った。「拙者は、行く」
「どこへ」
「あの、子らのところへ」村瀬は、西のほうを見た。「剣を教えると、約束したのでな。……もう少し、生きてみよう。そなたが、生かしてくれたのだから」
村瀬は、しばし、左門を見た。何か言いかけて、口をつぐんだ。それから、静かに言った。
「左門どの。ひとつ、頼みがある。……いつか、気が向いたなら、あの道場をたずねてくれぬか。子らに、剣を、見せてやってくれ。そなたの剣は、右近どのの、あの太刀に、似ておる。豪快で、まっすぐな。あの子らに、それを、見せてやりたいのだ」
左門は、答えなかった。だが、その言葉は、胸の底に、静かに落ちた。いつか、と左門は思った。いつか、そういう日が、来るのかもしれぬ。憎むために追ってきたこの男の道場を、こんどは、別の思いで、たずねる日が。
「行け」と、左門は言った。
村瀬は、深く一礼した。それは、果たし合いの相手への礼ではなかった。恩人への、あるいは、旧き友の弟への、心からの礼だった。
村瀬は、河原を歩きだした。浅瀬を選んで、石を踏み、水を踏み、また石を踏んで、対岸へと渡っていく。その背は、来たときよりも、心なしか、まっすぐに見えた。あの遠い夏の日、兄と並んで歩いた、あの背に、いっとき、重なって見えた。
左門は、その背を、見送った。
やがて、村瀬の姿は、川向こうの草の陰に消えた。左門は、ひとり、白洲に残された。もう、影があった。西に傾いた陽が、左門の影を、東へと長く伸ばしていた。左門は、その影を、しばらく見ていた。十七年のあいだ、影のように付きまとっていた憎しみが、いま、その影とともに、静かに伸びて、そして、うすらいでいくようだった。
無常、という言葉が、ふと、左門の胸をよぎった。
すべては、流れていく。この河の水のように。憎しみも、恨みも、悲しみも。あの日、兄の血を吸った石も、いまはただ白く乾いている。あの日、この河原に倒れていた男たちも、いまは土に還っている。そして、いつか、左門もまた、村瀬もまた、この世から消えていく。あの蒼い星が、次にめぐってくる六十年ののちには、この河原に、いまの二人を覚えている者は、もう、ひとりもいまい。ただ、河だけが、変わらず流れ、真昼の光だけが、変わらず、白く灼いているだろう。
それでよい、と左門は思った。人は、消えていく。だが、消えていくからこそ、この一瞬の、抜かなかった刀の重みが、たしかなものに思えた。斬れば、村瀬の命は、この一瞬で消えていた。斬らなかったことで、村瀬の命は、まだ、続いていく。子らに剣を教えながら。それは、ちいさな、とるにたらぬことかもしれぬ。だが、そのちいさなことのために、左門は、十七年の憎しみを、手放したのだった。手放したのではない。差し出したのだ。兄の遺志に。兄の、あの最期の言葉に。
左門は、懐から、片方の手甲を取り出した。
褪せた革を、指でなぞった。十七年、握りしめてきた、兄の形見。もう片方は、いま、川向こうへと去っていった。だが、と左門は思った。だが、それでよい。二つの手甲は、二人の男の胸のなかで、それぞれ、生き続ける。兄の記憶とともに。
左門は、空を、もう一度、仰いだ。
蒼い星は、もう、見えなかった。白い天に、溶けて消えたのか、それとも、天の奥へと退いたのか。ただ、白い光だけが、河原を静かに満たしていた。
左門は、立ち上がった。
そして、村瀬とは逆の方へ、河原を歩きだした。おのれの影を、うしろに長く引きながら。
抜かずにすんだ刀の重みだけが、腰に残っていた。それは、斬らなかった重みだった。斬れなかった重みではなく、斬らぬと決めた、その重みだった。左門は、その重みを、生涯、負って生きていくのだろう。だが、それは、憎しみの重みよりも、ずっと、軽かった。
真昼が、終わろうとしていた。
河原を出るとき、左門は、一度だけ、振り返った。
白洲の石が、白く光っていた。かつて兄の血を吸った石が、いまは、ただ白く、静かに、真昼の名残の光を照り返していた。
十七年、ここへ来るために生きてきた、と左門は思った。斬るために。
だが、斬らなかった。
それでよかったのか、と左門は自問した。答えは、出なかった。おそらく、生涯、出ないだろう。だが、と左門は思った。だが、兄なら、そうしたはずだ。兄なら、村瀬を、生かしたはずだ。
眠れ、眠れ、と、左門は、最後にもう一度、胸のうちでうたった。
そして、白洲に背を向けて、歩いていった。
陽は、西へ傾き、影は、長く伸びて、真昼は、静かに、去っていった。斬らずに納めた刀の鞘が、歩みにつれて、腰で、かすかな音を立てた。それは、はじめて聞く、静かな音だった。