短い影の真下で
言葉というものは、放たれてしまえば取り消せない矢に似ている。だから彼女はいつも、弓を引き絞るその最後の一瞬まで、狙いを疑いつづけた。
一
真昼の法廷は、白かった。
第七〇三号法廷は建物の南側にあり、天井近くまで届く高窓が二つ、傍聴席の背後に並んでいた。夏の陽が、そこから真上に近い角度で射しこんで、床の敷石に短い、こわばった影を落としている。正午が近づくにつれ、その影はいよいよ縮み、書記官の椅子の脚は、まるで自分の根もとに吸いこまれていくように見えた。
弁護人席で、江嶋律子は水差しに手を伸ばしかけ、やめた。
喉は渇いていた。けれど、いま水を含めば、そのひと口の音が、この張りつめた沈黙のなかで、やけに大きく響く気がした。傍聴席は満席だった。前から三列目に被告人の母がいて、その隣の空席には、たぶん来ないと分かっている誰かのための余地が、律子には見えた。空席というものは、いつも誰かのかたちをしている。
法壇の中央、裁判長の席はまだ空だった。開廷まで、あと数分ある。
律子は手元の弁論メモに視線を落とした。三日かけて書いた。書いては消し、消しては書いた。昨夜は一睡もしていない。それでも、いま目の前にある紙の上の言葉は、どれもまだ、彼女の欲しいところに届いていないように思われた。
真実と、法と、情。
その三つは、いつも同じ方角を指すとはかぎらない。むしろ、指さないことのほうが多い。三つが一致するとき、弁護人の仕事はやさしい。一致しないとき――律子はそのために、この職業を選んだのだと、若いころは信じていた。いまはもう、そんなふうには言えなくなっている。ただ、目の前に一人の人間がいて、その人間の残りの人生が、これから自分の口が組み立てる言葉の順序にかかっている。それだけが、動かしようのない事実だった。
律子は、弁護士になって、十七年になる。
その十七年のあいだに、彼女は、たくさんの被告人を、弁護してきた。無実の者もいた。明らかに罪を犯した者もいた。その中間の、罪と無実のあいだの、灰色の霧のなかに立ち尽くす者が、いちばん多かった。人というものは、たいてい、真っ黒でも、真っ白でもない。事情があり、弱さがあり、そのときどきの、追い詰められた選択の、積み重ねの果てに、ある日、取り返しのつかないところへ、足を踏み入れてしまう。律子の仕事は、その、足を踏み入れてしまった人間の、かたわらに立ち、彼のために、法という言語で、弁じることだった。
若いころ、律子は、自分を、正義の側にいると信じていた。悪と闘い、弱き者を守る。そういう、単純な絵の、内側にいると。けれど、年を重ねるにつれ、その絵は、少しずつ、ほどけていった。守るべき弱者が、別の誰かにとっては、加害者であること。正義が、しばしば、複数あって、たがいに、争っていること。自分の勝利が、法廷の、どこか見えない隅で、別の誰かの、静かな敗北を、意味していること。
そういうものを、いくつも見てきた末に、律子は、いま、ここに立っている。単純な絵を、失った目で。それでも、なお、この職業を、辞めずにいる、その理由を、彼女は、うまく言葉にできなかった。ただ――目の前の、一人のために、自分の言葉を、尽くす。そのこと以外に、自分にできることは、何もないと、いつのころからか、思うようになっていた。
被告人席を、律子はそっと振り返った。
真木悠人。二十六歳。傷害致死。
彼は背筋を伸ばして座っていた。灰色の上着の肩が、少年のように薄い。この半年で、彼はまた痩せた。最初に接見室で会ったとき、彼はほとんど何も言わなかった。ただ、テーブルの上で両手を組み、その手の甲を、律子はいまでも覚えている。左手にだけ、うっすらと火傷の痕があった。
真木は視線を感じたのか、律子のほうを見た。
律子は、うなずいた。大丈夫、という意味でも、勝てる、という意味でもなかった。ただ、あなたを見ている、という、それだけのうなずきだった。彼はまばたきをして、また前を向いた。
法壇の右手、証拠品を並べた机の上に、ビニールの証拠袋がいくつか置かれていた。そのうちのひとつに、律子の目は、朝からずっと引き寄せられていた。
片方だけの、手袋。
黒い革の、右手の手袋。ほつれた指先。それが、この事件のすべての鍵であり、同時に、律子がこの半年ずっと目をそらしてきたものだった。
二
事件は、一月の、凍てついた夜に起きた。
真木悠人は、深夜の駐車場で、ひとりの男を殴った。男は倒れ、後頭部を縁石に打ちつけて、そのまま息を引き取った。名を、桑野という。四十一歳。真木の勤めていた運送会社の、班長だった。
検察の描く筋書きは、単純で、強かった。
真木は桑野に恨みを抱いていた。日ごろから理不尽な叱責を受け、賃金の一部を不当に天引きされていた。事件の夜、二人は口論になり、真木は激昂して桑野を殴打した。一撃ではない。証言によれば、複数回。桑野は防御の姿勢すらとれなかった。動機があり、機会があり、そして結果として、一人の人間が死んだ。
反論の余地は、多くなかった。
真木が殴ったことは、真木自身が認めている。桑野が死んだことも、争いようがない。争えるのは、ただ一点――その暴力が、どこから来たのか、ということだけだった。
計画されたものか。突発的なものか。過剰であったか、やむを得なかったか。
律子は、真木の話を、半年かけて少しずつ引き出した。彼は語るのが下手だった。というより、自分の受けた仕打ちを、被害として語ることに、ひどく不器用だった。桑野にどれだけ殴られ、蹴られ、罵られてきたか。深夜、桑野の機嫌ひとつで、割に合わない配送を押しつけられ、事故を起こせば自腹で弁償させられてきたか。彼はそれを、まるで自分の落ち度であるかのように話した。
「俺が、要領が悪かったんです」
接見室で、真木は何度もそう言った。
「桑野さんは、俺を鍛えようとしてくれてた面も、あって」
律子は、そのたびに、机の下で拳を握った。この青年は、自分を守るための言葉すら、加害者への気づかいで薄めてしまう。それは法廷では、致命的な弱さになる。裁判官は、被告人の内面を、その語る言葉からしか測れない。真木のように、自分の痛みを痛みとして語れない人間は、しばしば、痛みなど無かったのだと見なされてしまう。
事件の夜、何があったのか。
真木の記憶は、断片的だった。桑野に呼び出され、駐車場に行った。そこで、また、いつものように罵倒された。「使えない」「辞めちまえ」「お前みたいなのは、どこ行っても同じだ」。そして――ここから先を、真木はうまく語れなかった。桑野が、彼の胸ぐらをつかんだ。あるいは、突き飛ばした。気がついたら、自分の手が、桑野を殴っていた。
「覚えて、ないんです。ほんとうに」
その「覚えていない」を、検察は、都合のいい記憶の欠落と呼ぶだろう。律子には、それが分かっていた。
けれど、律子は、真木の、その「覚えていない」を、信じていた。
接見を重ねるうちに、彼女は、真木という青年の、輪郭を、少しずつ、つかんでいった。彼は、嘘のつけない人間だった。というより、嘘をつくという発想そのものが、彼のなかに、ほとんど無いようだった。取り調べで、彼は、自分に不利なことも、ためらいなく、口にした。桑野を、殴った。何度も、殴った気がする。手が、止まらなかった。そういう、自分を、追い詰める証言を、彼は、まるで、そうすることが、当然の義務であるかのように、淡々と、述べた。
「なぜ、そんなに、正直に話すの」と、律子は、一度、尋ねたことがある。「あなたに、不利なことばかり」
真木は、しばらく、考えてから、答えた。
「だって、人が、死んだんです。俺のせいで。それを、少しでも、軽く見せようとするのは――なんか、桑野さんに、もう一度、失礼な気が、して」
律子は、その答えに、返す言葉を、失った。
この青年は、自分を殺そうとしたかもしれない男の、死の重さすら、値切ろうとしない。それは、道徳的な、高潔さのようでいて、律子には、むしろ、痛々しい、一種の、自罰のように、見えた。真木は、ずっと、自分を、罰しつづけている。桑野が、生きていたころから。桑野に、罵倒され、殴られ、そのたびに、悪いのは自分だと、思いつづけて。彼の心のなかでは、いつも、彼自身が、被告人だった。
そういう人間を、律子は、これまでにも、何人か、見てきた。彼らは、たいてい、法廷で、損をする。自分の痛みを、痛みとして、差し出せないから。そして、律子のような弁護人が、その痛みを、代わりに、言葉にしてやらなければ、誰も、それに、気づかないまま、審理は、進んでいってしまう。
三
証拠のなかで、律子が最後まで解けなかったのが、その手袋だった。
現場に、片方だけの手袋が落ちていた。黒い革の、右手の。それは桑野のものだった。サイズも、内側に残った皮脂も、すべて桑野のものと一致した。
問題は、もう片方が、どこにもなかったことだ。
左手の手袋は、現場からも、桑野の自宅からも、車のなかからも、見つからなかった。桑野は右手にだけ手袋をして、あの夜、駐車場に立っていたのか。それとも、左手の手袋は、誰かが持ち去ったのか。
検察は、この点を重視しなかった。手袋の片方がないことなど、事件の本筋には関わらない。桑野が片方をどこかで落としただけだろう、と。実際、それはありふれた説明だった。手袋は、片方だけ失われやすいものの筆頭だ。誰もが、片方だけの手袋を、一度はポケットの底に見つけたことがある。
けれど律子は、その手袋が気にかかって仕方がなかった。
なぜなら――桑野の右手の手袋の、手のひらの部分に、かすかな、しかしはっきりとした、こすれた痕があったからだ。まるで、何かを強く握りしめたような。あるいは、何かを、渾身の力で振り上げたような。
律子は、鑑定人に頼んで、その痕を調べさせた。
結果は、灰色だった。断定できるものは何もない。ただ、その痕は、金属質の、細長いものを握った際にできるものと、矛盾しない、というだけの。
金属質の、細長いもの。
真木は、一度だけ、それに触れる証言をしていた。桑野が、あの夜、何かを手に持っていた気がする、と。鉄パイプのような、車のジャッキのハンドルのような。けれど彼はすぐに、いや、見間違いかもしれない、暗かったから、と自分の言葉を引っこめた。
現場から、そんな凶器は見つからなかった。
もし桑野が、左手に何か――金属質の、細長い凶器を握っていたのだとしたら。もし、真木の殴打が、その凶器を振り上げようとした桑野への、正当な防衛だったのだとしたら。
そして、その左手の手袋と、握られていた凶器が、事件のあと、何者かによって持ち去られたのだとしたら。
それは、真木の罪を、まったく別のものに変える仮説だった。傷害致死から、正当防衛へ。あるいは、少なくとも、過剰防衛へ。
けれど、それは、仮説だった。証拠のない、仮説。
四
律子は、二週間前、その仮説を胸に、桑野の妻に会いに行った。
佐知子に会うことを、律子は、長いあいだ、ためらっていた。
被害者の遺族に、弁護人が接触すること。それ自体は、禁じられてはいない。けれど、そこには、越えてはならない一線が、いくつも、引かれている。遺族の心を、揺さぶること。証言を、誘導すること。あるいは、被告人に有利な事実を、無理に、引き出そうとすること。律子は、そのどれも、するつもりは、なかった。ただ、あの手袋の――片方だけの手袋の、意味を、知りたかった。それだけだった。
けれど、知りたい、という、その欲望そのものが、すでに、危うかった。真実を、知りたい。その、一見、まっとうな欲望が、ときに、人を、取り返しのつかない場所へ、連れていく。パンドラの匣を、開ける手は、いつも、善意で、動いている。
それでも、律子は、佐知子の住む町へ向かう、電車に、乗った。
桑野の妻、佐知子は、郊外の小さなアパートに、幼い娘と二人で暮らしていた。夫を失って半年。彼女は、律子が弁護人だと名乗ると、一瞬、扉を閉めかけた。それでも、閉めなかった。
「話すことなんて、ありません」
そう言いながら、佐知子は律子を招き入れた。部屋の隅に、子ども用の小さな靴が揃えて置いてあった。壁には、家族三人で撮った写真が、一枚だけ、傾いて貼られていた。
律子は、単刀直入には切り出せなかった。あなたの夫は、凶器を持っていたのではないか。左手の手袋を、あなたが持ち去ったのではないか。そんなことを、遺された妻に、どう問えるというのか。
けれど、佐知子のほうが、先に言った。
「あの人が、うちの子にも、手を上げてたって言えば――夫を殺した人の、罪は、軽くなるんですか」
律子は、息を呑んだ。
佐知子の目は、乾いていた。泣き尽くした人の目だった。彼女は、テーブルの上に、ひとつのものを置いた。
黒い革の、左手の手袋だった。
「あの夜、あの人は、これをして出て行きました。それと――ジャッキのハンドルを、持って。何度も、こうやって、家のなかでも振り回してた人だから。あたし、分かったんです。今夜、誰かを、本気で」
佐知子の声は、震えていなかった。震えないように、長いあいだ、練習してきた声だった。
「事件のあと、あたし、駐車場に行きました。警察が来る前に。あの人が、それを持ってるのを、誰にも、見られたくなくて。娘の、父親だから。凶器を振り上げて死んだ男の子どもだって――そんなふうに、あの子に、生きてほしくなくて。だから、拾って、隠しました。ハンドルも、川に。手袋の、片方だけは――なんでか、捨てられなくて」
律子の前に、事件の、もうひとつの真実が、剥き出しになって置かれていた。
もし、この手袋を証拠として提出すれば。もし、佐知子に証言させれば。真木は、救われるかもしれない。正当防衛が認められれば、無罪すらありうる。
けれど、そのとき――桑野佐知子は、証拠隠滅の罪に問われる。幼い娘は、父を亡くしたうえに、母までも失うことになるかもしれない。そして、死んだ桑野は、法廷で、妻子に暴力を振るった男として、その名を晒される。娘は、生涯、その事実とともに生きていく。
真木を救う真実は、別の家族を、壊す真実でもあった。
「あたしは」と、佐知子は言った。「あの人を殺した人を、恨んでます。心の底から。でも――あの日、駐車場に立ってたあの人が、何を持ってたのかは、あたしが、いちばんよく知ってる」
彼女は、手袋を、律子のほうへ、そっと押し出した。
「これを、どうするかは、先生に、おまかせします。あたしには、決められない。あたしが決めたら、それはきっと、娘のためか、あの人への恨みか、どっちかに、ねじ曲がってしまうから」
律子は、その手袋を、見つめていた。
黒い革の、左手の手袋。指の付け根のあたりの、革が、白く、ひび割れていた。長いあいだ、使われた手袋だった。桑野が、この手袋を、はめて、ハンドルを、握る。その、右手を、律子は、想像した。真木を、罵倒し、殴った、その手を。そして、その同じ手が、この、狭いアパートの、幼い娘の頭を、撫でたことも、あったかもしれない、ということを。
人は、一人の人間のなかに、いくつもの顔を、持っている。桑野健一は、真木にとっては、暴君だった。佐知子にとっては、恨みと、それ以外の、何かとが、分かちがたく、絡み合った、夫だった。娘にとっては――たった一人の、父だった。そのどの顔も、嘘では、なかった。そして、法廷は、そのうちの、どれか一つの顔を、選んで、桑野を、名づけようとする。凶器を振り上げた男、と。あるいは、理不尽に、殴り殺された、被害者、と。
「奥さん」と、律子は、言った。「あなたは、なぜ、私に、これを、話してくれたのですか。私は、あなたの、夫を、殺した人間の、味方です」
佐知子は、しばらく、黙っていた。それから、窓の外の、暮れかけた空を、見ながら、言った。
「あの人が、死んだ夜のことを、あたし、誰にも、話せなかったんです。半年間、ずっと。あの、手袋を、隠したことも。ハンドルを、川に捨てたことも。それを、抱えたまま、あたし、娘と、生きてきました。毎晩、娘を寝かしつけながら、あたしの、胸のなかだけが、あの夜の、駐車場に、置き去りに、なってた」
彼女の、指が、テーブルの上の、手袋に、そっと、触れた。
「先生が、いらしたとき、あたし、思ったんです。ああ、この人になら、話しても、いいのかもしれないって。この人は、あの青年の、味方だから。あたしの言葉を、あたしのために、使うことは、ない。あの青年のために、使う。それなら――少しは、公平な気が、して」
律子は、その言葉の、奥にある、佐知子の、孤独を、見た。半年間、たった一人で、二つの真実を――恨みと、赦しと――抱えつづけてきた、女の、孤独を。彼女は、いま、その重さの、片方を、律子に、預けようと、している。それが、正しいことなのか、律子には、分からなかった。ただ、目の前の、この女の、乾いた目を、これ以上、乾かせては、ならない、とだけ、思った。
五
その手袋を、律子は、受け取らなかった。
いや、正確には、受け取れなかった。それを法廷に持ち出すことの意味を、彼女は、その場では決めきれなかった。佐知子に、預かってほしいと言われて、律子は、断った。あなたが、あなたの意思で保管しているものを、私が勝手に持ち出すことはできない、と。それは、法律家としての、ぎりぎりの、逃げでもあった。
帰りの電車で、律子は、窓の外を見ていた。
冬の、暮れかけた空だった。地平線の低いところに、ひとすじの、蒼白い光が、細く尾を引いていた。彗星だった。この冬、明け方の空に現れると、新聞に出ていた。ミラ彗星。数十年に一度、地球のそばを通り過ぎる、蒼い星。次にそれが戻ってくるとき、真木は、何歳になっているだろう。佐知子の娘は。そして、自分は。
律子は、その光を、しばらく見ていた。
星は、なんの答えもくれなかった。ただ、遠い、冷たい光を、律子のこわばった横顔に、わずかに投げかけていた。
その夜から、律子の、ほんとうの闘いが始まった。
証拠として、佐知子の手袋を出すか、出さないか。
出せば、真木は救われる公算が高い。だが、佐知子と娘の人生が、崩れる。出さなければ、真木は、傷害致死の重い罪を負う。もしかしたら、実際の彼の行為よりも、はるかに重い罪を。彼が、自分を守るために振るった手だったとしても、その事情は、法廷に、ついに姿を現さないまま、埋もれていく。
真実は、ひとつではなかった。
真木が桑野を殴って死なせたのも、真実だった。桑野が凶器を持って真木を襲おうとしたのも、真実だった。佐知子が証拠を隠したのも、真実だった。そして、佐知子が、それでもなお、夫の暴力を、いちばんよく知る証人であることも、真実だった。
これらの、いくつもの真実のうち、どれを法廷に差し出すか。どれを、闇に沈めるか。それを選ぶのが、律子の仕事だった。そして、その選択の重さに、彼女は、この半年、押し潰されそうになっていた。
弁護人は、真実を語る人ではない。
律子は、司法修習生のころ、指導教官に、そう言われたことを、いまも覚えている。弁護人は、被告人のために、最も有利な物語を、法という枠のなかで組み立てる人だ。真実は、裁判所が、証拠のなかから見出すものであって、弁護人が最初から手にしているものではない。だから、弁護人は、迷ってはいけない。被告人の利益のためだけに、まっすぐに、言葉を尽くせ。
けれど、若い教官のその言葉に、律子は、あのころから、どこか嘘の匂いを感じていた。
被告人の利益。それは、いつも自明なのか。真木の利益は、無罪を勝ち取ることだ。では、そのために、佐知子の娘の未来を犠牲にすることを、真木は、望むだろうか。
律子は、真木に、直接、問うことはしなかった。問えば、彼は、間違いなく、こう言うだろう。「その人たちを、巻きこまないでください」と。彼は、そういう青年だった。自分の痛みすら、加害者への気づかいで薄めてしまう青年だった。彼に問えば、答えは決まっていた。そして、その答えに従うことは、優しさのようでいて、真木を、彼自身の善良さの犠牲にする、残酷さでもあった。
だから、律子は、問わなかった。
この選択を、真木にも、佐知子にも、負わせてはならない。それは、弁護人である、自分が、一人で負うべき重さだった。誰にも分けられない、たった一人の。
その夜、律子は、事務所に、遅くまで、残っていた。
がらんとした、部屋の、蛍光灯の下で、彼女は、二つの弁論を、それぞれ、最後まで、書いてみた。手袋を出す弁論と、出さない弁論。二本の、まったく異なる、道筋を。書きながら、彼女は、何度も、ペンを、止めた。手袋を出す弁論を書くと、その言葉の一つひとつが、佐知子の娘の、未来を、削っていくのが、見えた。手袋を出さない弁論を書くと、その言葉の隙間から、真木の、失われるかもしれない、歳月が、こぼれ落ちていくのが、見えた。
どちらの弁論も、正しかった。そして、どちらの弁論も、誰かを、切り捨てていた。
律子は、司法試験に、合格した日のことを、ふと、思い出した。あのとき、彼女は、法律家になれば、正しさを、扱えるようになるのだと、信じていた。天秤の、どちらが重いかを、見きわめ、正しいほうを、選ぶ。そういう、明快な仕事だと。けれど、実際の法律家の仕事は、天秤の、両方の皿に、それぞれ、生きた人間が、載っていて、そのどちらを、選んでも、片方が、こぼれ落ちる、という、そういうものだった。
正しさは、一つでは、なかった。そして、正しさが、複数あるとき、人は、選ばなければならない。選ぶという行為そのものが、すでに、罪を、含んでいるとしても。
律子は、二本の弁論を、机の上に、並べて、置いた。そして、明かりを、消した。
決めるのは、明日だ、と、彼女は、思った。法廷の、あの、白い光のなかで、最後の、一瞬まで、迷い抜いて。それが、自分の、責任の、取り方だった。安全な、事務所の、机の上で、決めてしまうことは、なぜか、卑怯なことのように、思われた。この選択は、真木と、佐知子と、そして、桑野の、命が、すべて、そこに、居合わせる、あの、法廷の、空気のなかでしか、下せないものだと。
六
開廷を告げる声がして、一同が起立した。
裁判長が、両陪席とともに、法壇に着いた。白髪の、痩せた裁判長だった。律子は、この裁判長を知っていた。厳格だが、公平な人だった。感情に流されず、しかし、感情を軽んじもしない。証拠を、あくまで証拠として見る人。その裁判長の前で、律子は、これから、最終弁論をしなければならない。
「弁護人、最終弁論を」
律子は、立ち上がった。
法廷の空気が、彼女に集まるのが、皮膚で分かった。傍聴席の、真木の母の視線。検察官席の、若い検事の、油断のない目。そして、被告人席の、真木の。彼は、両手を膝の上で組み、じっと、律子の背中を見つめていた。
律子は、まだ、決めていなかった。
これが、彼女のやり方だった。弁論を、最後の一瞬まで、確定させない。言葉を、放つその直前まで、狙いを疑う。放たれた矢は、取り消せない。だから、引き絞る手を、彼女は、いつも、ぎりぎりまで震わせつづける。
高窓を、律子は、ちらりと見上げた。
真昼の空が、白く、灼けていた。雲ひとつない。あまりに明るくて、かえって色がないような、そんな白だった。その白のなかに――律子は、目を凝らした。真昼だというのに、そこに、蒼い、小さな一点があった。
彗星だった。
明け方に見えるはずのそれが、この日は、稀なことに、真昼の空にも、ぽつりと、見えていた。何十年に一度あるかどうかという、明るさで。白く灼ける空の、いちばん高いところに、蒼く、冷たく、それは、灯っていた。
律子は、その一点を、一秒だけ、見た。
そして、視線を、法壇に戻した。
七
「裁判長」
律子の声は、思ったよりも、静かに出た。
「本件は、一人の男性が、命を落とした事件です。桑野健一さん、四十一歳。ご遺族の悲しみは、いかなる弁論によっても、償われるものではありません。まず、そのことを、弁護人として、深く胸に刻んでおります」
彼女は、一度、言葉を切った。
「その上で、私は、本件の被告人、真木悠人が、どのような状況のもとで、この行為に及んだのかを、裁判所に、正確に、お伝えしたいと思います」
律子の頭のなかで、二つの弁論が、まだ、並んで立っていた。
ひとつは、手袋を出す弁論。桑野が凶器を持っていた可能性を、真正面から主張し、正当防衛を訴える弁論。それは、鋭い刃だった。うまくいけば、真木を、無罪にすら導きうる。だが、その刃は、佐知子と、その娘の未来を、確実に切り裂く。
もうひとつは、手袋を出さない弁論。真木の受けてきた仕打ちと、彼の善良さと、事件の突発性を、丁寧に積み上げ、量刑の緩和を求める弁論。それは、鈍い、しかし、誰も新たには傷つけない弁論だった。真木の罪は残る。だが、それ以上、壊れるものはない。
どちらを選ぶか。
律子は、話しながら、真木の受けてきた仕打ちを、一つひとつ、法廷に置いていった。深夜の不当な配送。自腹の弁償。日常的な罵倒と暴力。それらは、証言と、診断書と、勤務記録によって、裏づけられていた。彼女は、真木が、いかにして、追い詰められていったかを、感情を排して、しかし、精確に、描いた。
法廷は、静まりかえっていた。
真木の母が、ハンカチを、口元に当てた。
律子は、いよいよ、事件の夜の、駐車場に、話を進めた。ここが、分岐点だった。この先で、彼女は、手袋に、触れることもできた。桑野が、何かを、握っていた可能性に。もう片方の手袋が、なぜ、消えたのかに。
律子は、被告人席を、振り返らなかった。
けれど、背中に、真木の視線を、感じていた。そして、傍聴席の、いちばん後ろ――さっき、律子が確かめたとき、そこには、来ないと思っていた人が、いた。桑野佐知子が、目立たぬように、いちばん後ろの席に、座っていた。娘は、連れていなかった。彼女は、両手を、膝の上で、固く握りしめていた。その膝の上に、小さな、紙袋が、載っていた。
律子には、その袋のなかに、何が入っているか、分かった。
佐知子は、来たのだ。あの手袋を、持って。もし、律子が、それを求めるなら、いつでも、差し出せるように。自分の未来と引き換えに、夫を殺した青年を、救うために。
律子の、喉が、鳴った。
真昼の光が、高窓から、まっすぐに落ちて、証拠品の机の上の、片方だけの手袋を、白く、照らしていた。その隣に、もし、佐知子の手袋が、並べば――片方だけだった手袋は、対になる。失われたものが、戻ってくる。真実が、完成する。
そして、そのとき、一つの家族が、対を失う。
八
律子は、その瞬間、自分が、何を選ぶのかを、まだ知らなかった。
言葉が、口をついて出るまで、彼女自身にも、分からなかった。それが、彼女の、弓を引く手の、ぎりぎりの震えだった。真実と、法と、情。三つの矢が、三つの方角を指していた。真木のための真実。佐知子のための情。そして、法は――法は、そのどちらにも、味方をしなかった。法は、ただ、証拠を求めていた。
律子は、口を開いた。
「事件の夜、駐車場で、被告人と、桑野さんのあいだに、何があったのか」
彼女の声は、いま、法廷の、すべての人間の、呼吸を、止めていた。
「被告人は、覚えていない、と述べています。検察は、これを、都合のよい記憶の欠落と、評価しました。しかし、裁判長」
律子は、一歩、前へ出た。
「人は、あまりに大きな恐怖のなかで、記憶を、失うことがあります。それは、嘘ではありません。心が、それ以上、壊れないために、自ら、その瞬間を、封じるのです。被告人が、覚えていないのは――彼が、その夜、それほどの、恐怖のなかにいた、ということの、証しであると、私は考えます」
彼女は、まだ、手袋には、触れていなかった。
触れずに、ここまで来た。そして、律子は、いま、はっきりと、悟った。自分が、どちらを選ぼうとしているのかを。それは、決断というより、彼女の、これまでの人生の、すべてが、この一瞬に、収斂した、結果だった。
律子は、手袋を、出さない。
けれど――それは、真木を、見捨てることでは、なかった。彼女は、別の道を、選ぼうとしていた。真実を、埋めるのでも、誰かの未来を、犠牲にするのでもない、第三の道を。
「裁判長。弁護人は、本件について、桑野さんが、事件の夜、被告人に対して、何らかの、有形力の行使を、加えようとしていた、可能性を、指摘いたします」
法廷が、ざわめいた。
「その根拠は、桑野さんの、日常的な、暴力性です。これは、被告人に対してだけの、ものではありませんでした」
律子は、傍聴席の、いちばん後ろを、見なかった。佐知子を、証人にはしない。彼女の名を、口にもしない。けれど――
「桑野さんの、右手の手袋の、手のひらには、何かを、強く握った痕が、残されています。鑑定によれば、それは、金属質の、細長い物を握った際の痕と、矛盾しない。そして、被告人は、桑野さんが、その夜、そうした物を、手にしていたように、見えた、と、供述しています。もう片方の――左手の手袋が、現場から、消えていること。これらの事実は、桑野さんが、その左手に、何かを、握っていた、という仮説と、整合します」
律子は、佐知子に、証言を求めなかった。手袋を、証拠として、出さなかった。
その代わりに、彼女は、すでに提出されている証拠――桑野の右手の手袋の、こすれた痕という、消えることのない、物言わぬ証拠だけを、頼りに、弁論を、組み立てていた。それは、賭けだった。手袋の物証を出せば、正当防衛は、もっと強く、主張できた。けれど、律子は、佐知子の手袋を、法廷に、引きずり出さなかった。
なぜなら、真木を、無罪にすることよりも、律子には、守りたいものが、あったからだ。
いや、違う。
律子は、真木を、諦めたのでは、なかった。彼女は、信じたのだ。裁判長を。この、厳格で、公平な、白髪の裁判長を。証拠を、あくまで証拠として、しかし、感情を、軽んじもしない、この人を。物言わぬ手袋の痕と、真木の受けてきた仕打ちの、その重なりから、この裁判長ならば、事件の、ほんとうの姿を、見抜いてくれるはずだと。過剰な物証で、無理やり、無罪をもぎ取らずとも。
九
「被告人の、行為は」と、律子は、続けた。声が、少し、掠れた。
「決して、褒められるものでは、ありません。人が、一人、亡くなりました。被告人自身が、そのことを、誰よりも、深く、悔いています。彼は、接見のたびに、桑野さんの、ご冥福を、祈っていました。自分を、これほどまでに、追い詰めた人の、ために」
真木の母の、嗚咽が、聞こえた。
「けれど、裁判長。私は、この法廷に、こう、申し上げたい。真木悠人は、桑野健一さんを、憎んで、殺したのでは、ありません。彼は――怖かったのです。ただ、ひたすらに、怖かったのです。そして、その恐怖のなかで、彼の手が、動いてしまった。それは、罪です。裁かれるべき、罪です。しかし、その罪の、重さは、彼が、桑野さんを、憎悪して、計画的に、命を奪った場合の、それとは、まったく、異なるものであると、私は、確信いたします」
律子は、一度、深く、息を吸った。
高窓から、真昼の光が、彼女の頬に、落ちていた。その光の、いちばん奥に、あの、蒼い一点が、まだ、灯っていることを、律子は、見なくても、知っていた。
「私は、被告人の、罪を、軽くしてください、と、申し上げているのでは、ありません。私は、被告人の、罪を、正確に、量ってください、と、お願いしているのです。彼が、実際に、犯した、罪の、重さを。それより、重くも、軽くも、ない、ちょうどの、重さを」
律子の、声が、法廷に、満ちた。
「一人の、人間の、これからの、人生が、いま、この、法廷の、天秤の、上に、載っています。その天秤が、正しく、釣り合うことを――弁護人は、心から、願います。以上です」
律子は、深く、一礼した。
そして、席に、着いた。
十
判決までの、休廷の時間、律子は、廊下の、窓辺に、立っていた。
真昼の陽が、ガラス越しに、じりじりと、腕を灼いた。彼女は、その熱を、感じながら、自分の、手を、見ていた。汗ばんだ、手のひらを。
弁論は、終わった。矢は、放たれた。もう、取り消せない。
律子は、手袋を、出さなかった。佐知子の名を、法廷に、刻まなかった。それが、正しかったのかどうか、彼女には、分からなかった。もし、判決が、思うようで、なかったら。もし、真木が、実際の彼の罪より、重い判決を、受けたら。そのとき、律子は、自分の、この選択を、生涯、悔いつづけることに、なるだろう。
物証を、出していれば。佐知子に、証言させていれば。あるいは、無罪すら、あったかもしれない。それを、自分は、捨てた。真木一人の、最大の利益ではなく、複数の、人生の、辛うじての、均衡を、選んで。
それは、弁護人の、越権かもしれなかった。傲慢かもしれなかった。
「先生」
声がして、律子は、振り返った。
桑野佐知子が、そこに、立っていた。手には、あの、紙袋を、持ったまま。
二人は、しばらく、何も、言わなかった。真昼の廊下の、白い光のなかで、向かい合って、立っていた。
「出さなかったんですね」と、佐知子が、言った。
「ええ」と、律子は、答えた。
佐知子は、紙袋を、両手で、抱えなおした。それから、ゆっくりと、言った。
「あたし、ここに、来るまで、ずっと、迷ってました。先生が、あたしの、手袋を、求めたら、どうしようって。娘のために、渡さない、って、突っぱねるべきなのか。それとも、あの青年のために――」
彼女の、声が、途切れた。
「でも、先生は、求めなかった。だから、あたしも、決めずに、すみました。ずるいって、思いますか。自分では、決められなかったくせに」
「いいえ」と、律子は、静かに、言った。「決めなくて、いいんです。それを、決めるのは、あなたの、仕事では、ありません」
佐知子は、しばらく、うつむいていた。それから、顔を、上げた。その目に、はじめて、涙が、浮かんでいた。乾ききっていたはずの、目に。
「あの人のこと、あたし、まだ、恨んでます。でも――同じくらい、あの人と、過ごした、日々のことも、覚えてる。手袋を、捨てられなかったのは、たぶん、そのせいなんです。恨みと、それ以外の、何かを、片方ずつ、握ってるみたいで。どっちも、捨てられなくて」
律子は、その、片方だけの手袋の、話を、聞いていた。
対になるはずの、手袋。片方は、証拠品の机の上に。もう片方は、この、遺された妻の、紙袋のなかに。二つは、ついに、法廷の上で、対になることは、なかった。それぞれの、片方のまま、別々の、場所に、留まりつづける。
それで、いいのだ、と、律子は、思った。
すべての、失われたものが、対に、戻る必要は、ない。片方だけの、まま、それでも、大切に、握られつづけるものが、この世には、ある。
十一
判決の、時が、来た。
律子は、弁護人席に、着いた。真木は、被告人席で、目を、閉じていた。祈るように。あるいは、覚悟を、決めるように。傍聴席の、いちばん後ろに、佐知子が、まだ、座っていた。紙袋を、膝に、載せたまま。
裁判長が、判決の、主文を、読み上げる前に、一度、法廷を、見わたした。
その視線が、証拠品の机の上の、片方だけの手袋に、ほんの、一瞬、留まったように、律子には、見えた。気のせいだったかもしれない。けれど、そのとき、律子は、確かに、感じた。この、白髪の、厳格な裁判長は、あの、手袋の意味を――そこに残された、こすれた痕の意味を、律子が、あえて、多くを語らなかった、その沈黙の意味を、見抜いている、と。
主文が、読み上げられた。
数字が、法廷に、落ちた。
それは、検察の、求刑を、大きく、下回るものだった。傷害致死の、量刑の、幅の、ほとんど、いちばん、軽いところに、近い。過剰防衛の、成立を、うかがわせる、判決理由が、その後に、続いた。裁判長は、桑野の、日常的な、暴力性と、事件当夜の、被告人の、恐怖の、大きさを、認定していた。手袋の痕についても、短く、しかし、明確に、触れていた。
無罪では、なかった。
真木は、罪を、負った。けれど、それは、彼が、実際に、犯した、罪の、重さに、ちょうど、釣り合う、重さだった。それより、重くも、軽くも、ない。律子が、法廷に、願った、その、ちょうどの、重さで、天秤は、釣り合っていた。
真木が、目を、開けた。
彼は、しばらく、放心したように、前を、見ていた。それから、ゆっくりと、律子のほうを、振り返った。その顔に、感謝でも、安堵でも、ない、もっと、複雑な、何かが、浮かんでいた。たぶん、彼は、まだ、自分が、救われた、とは、思っていなかった。ただ、自分の、犯した、ことの、重さを、はじめて、正確に、示された、その、静かな、衝撃の、なかに、いた。
それで、いい、と、律子は、思った。
十二
閉廷して、人々が、法廷を、去っていった。
律子は、最後まで、席に、残っていた。傍聴席を、振り返ると、佐知子の姿は、もう、なかった。彼女は、紙袋を、抱えたまま、静かに、帰っていったのだろう。あの、片方だけの手袋を、ふたたび、彼女の、暮らしの、どこかへ、持ち帰って。
証拠品の机の上の、もう、片方の手袋は、これから、証拠として、保管庫へ、しまわれる。二つの、手袋は、永遠に、対に、なることは、ない。それぞれの、片方のまま、別々の、場所で、それぞれの、時間を、生きていく。
律子は、荷物を、まとめ、立ち上がった。
がらんとした、法廷の、天井近くの、高窓を、彼女は、もう一度、見上げた。
真昼を、少し、過ぎていた。陽は、天の、いちばん高いところから、わずかに、傾きはじめていた。影が、また、ゆっくりと、伸びはじめる、その、境目の、刻だった。
白い空に、蒼い一点は、もう、見えなかった。真昼の、稀なる、明るさが、去って、彗星は、ふたたび、昼の、光の、なかに、溶けていったのだ。次に、それが、はっきりと、姿を、現すのは、また、明け方の、空でだろう。そして、その、明け方の、空を、真木も、佐知子の娘も、そして、律子も、それぞれの、場所で、見上げるのだろう。
律子は、ふと、幼いころに、母が、歌ってくれた、子守唄を、思い出した。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。その、歌の、意味を、幼い彼女は、知らなかった。星が、海を、わたる。それが、どういうことなのか。いまも、分からない。ただ、その、旋律だけが、こうして、ふとした、拍子に、胸の、奥から、立ち上がってくる。
星が、海を、わたるまで。
律子は、法廷の、扉に、手を、かけた。
三日月を、刻んだ、藍色の、マッチ箱が、ふと、脳裏を、かすめた。学生のころ、深夜の、古い、書店で、手に取った、あの、青いマッチ。夜にだけ、路地の奥に、灯って、朝には、消えていた、あの、不思議な、店で。あのとき、自分は、何を、探していたのだったか。真実か。正義か。それとも、ただ、迷わずに、まっすぐ、生きられる、そんな、生き方の、見本を。
見つからなかった。今も。
弁護人は、真実を、語る人では、ない。若い、指導教官の、言葉は、たぶん、半分は、正しかった。弁護人は、いくつもの、真実の、なかから、どれを、差し出し、どれを、沈めるかを、選ぶ人だ。そして、その選択の、重さは、生涯、その、肩から、降りることは、ない。
律子は、扉を、押した。
廊下の、白い光が、法廷のなかに、まっすぐ、射しこんできた。彼女は、その光のなかへ、一歩、踏み出した。放たれた矢は、取り消せない。けれど、今日、放った、その一本を、律子は、悔いない、と、思った。少なくとも、いまは。次の、事件が、次の、選択が、また、彼女の、弓を、震わせるまで。
言葉は、放たれてしまえば、取り消せない矢に、似ている。それでも、人は、その矢に、たった一人の、運命を、託して、放たなければならない、ときがある。だから彼女は、明日もまた、弓を、引く。狙いを、疑いながら。真昼の、いちばん短い影の、その、真下で。