月光書房
午の刻 ・ 真昼 ・ 第 三 話

白い指

夏堀 灯
スポーツ・青春 ・ 約26頁

白い指

その夏、空はどこまでも白かった。青ではなく、白だった。陽が天のいちばん高いところにのぼりきると、色というものは光に灼かれて溶け、上を向いても目の底に残るのは、灼熱の白だけになる。だから僕は、決勝戦の最終回、二死満塁のマウンドに立ちながら、頭上に広がっているものを空とは呼びたくなかった。あれは炉のなかだ、と思った。世界がまるごと窯に入れられて、白く焼かれているのだと。

指先が、じっとりと汗を吸ったボールの縫い目に触れている。その一点だけが、僕の身体のなかで確かなものだった。ほかのすべては、あの白い熱に食われて、境目を失いかけていた。手も、足も、心臓の音さえも、灼けた空気のなかにぼんやりと溶けだしていくようで、僕は縫い目を、少し強く握りなおした。

一点差だった。三対二。九回の裏の、こちらの守り。二死。塁上には走者が三人。ひとりでも還れば同点、二人還れば逆転で、僕たちの三年間はそこで終わる。バッターボックスには、この夏いちばん打っている四番が立っている。

僕はプレートを踏みなおした。スパイクの金具が乾いた土を噛み、かすかな音を立てた。その音が、なぜか耳の奥にはっきりと届いた。あれほどの歓声のなかで、自分のスパイクの音だけが聞こえるというのは、奇妙なことだった。人は、極限まで追いつめられると、いちばん小さな音を聞くようになるのかもしれない。世界じゅうの音が遠ざかって、代わりに、自分の内側の音が、やけに大きく響きはじめる。

マウンドの土は、真昼の陽に灼かれて、素足で立ったら火傷しそうなほど熱いはずだった。だが不思議と、僕の足の裏は、その熱を感じていなかった。むしろ冷たいくらいだった。緊張というのは、そういうものらしい。身体が、余計なものをぜんぶ切り捨てて、たった一つのことだけに集中しようとしている。その一つとは、目の前の、この打者と、僕のあいだの、十八メートルと少しの距離だった。

三年前の春、僕は左手にはめる一枚のグラブを持って、この街の高校の門をくぐった。

グラブは、兄のお下がりだった。兄は僕より六つ上で、僕がまだ小さかった頃、同じ高校で野球をやっていた。エースではなかった。控えの投手で、三年間、一度もマウンドから試合を終わらせることのないまま、卒業していった。兄が最後の夏に背負っていたのは、ベンチのいちばん端の背番号だった。

兄のことを、僕はよく覚えている。細くて、背が高くて、いつも少し猫背だった。口数の少ない人で、家でもあまりしゃべらなかった。でも、僕が野球の話をすると、兄の目がふっと明るくなるのを、僕は知っていた。テレビでプロ野球中継が流れていると、兄はソファの端で、身じろぎもせずに見入っていた。投手が投げるたびに、兄の右手が、無意識のうちに、投げる真似をしていた。空を切る、その小さな仕草を、僕は何度も見た。

兄が投げる姿を、僕は一度だけ、見たことがある。中学の頃だったか、兄の高校の試合を、家族で見に行った。兄は、七点差のついた試合の、九回に、ようやくマウンドに上がった。もう勝負のついた試合で、いわゆる敗戦処理というやつだった。それでも兄は、一球一球、丁寧に投げていた。三人を打ち取って、兄はベンチに戻った。誰も、たいして注目していなかった。だが僕は、その三人を打ち取った兄の投球を、ずっと覚えている。あんなに嬉しそうにマウンドを降りてくる人を、僕はほかに知らなかった。

その日の帰り道、兄は、めずらしく、たくさんしゃべった。マウンドの土は、思っていたより柔らかかった、とか。バッターボックスに立つ相手の目が、すぐそこに見えた、とか。ボールが指を離れる、その一瞬が、いちばん怖くて、いちばん気持ちよかった、とか。僕は、兄の話を、ずっと聞いていた。兄が、あんなに楽しそうに話すのを、初めて見た。そして、兄は、最後に、ぽつりと言った。いつか、勝ってる試合の、最後の一球を、投げてみたいな、と。負けてる試合じゃなくて。勝ってる試合の、いちばん最後の一球を。それを投げて、試合を終わらせてみたいな、と。僕は、そのときは、その言葉の重さが、よくわからなかった。ただ、兄がそう言ったことだけを、なぜか、ずっと覚えていた。

その兄が、高校を出てすぐ、事故で死んだ。雨の日の、なんでもない交差点だった。自転車で、傘もささずに走っていて、曲がってきた車に巻き込まれた。兄は、それほど急いでいたわけでもなかったらしい。ただ、雨のなかを、いつものように走っていただけだった。

兄の部屋を片づけたのは、僕だった。両親には、とてもできなかったからだ。母は、兄の部屋のドアを開けることさえできなくなっていた。父は、何も言わずに、ただ庭に出て、ずっと空を見ていた。だから、僕がやるしかなかった。中学二年の僕が、兄の遺したものを、一つずつ、段ボールに詰めていった。

押し入れの奥から出てきたのが、そのグラブだった。使い込まれて飴色になった革の、手首のところに、油性ペンで小さく名前が書いてあった。僕の兄の名前だ。そしてそのすぐ横に、もうひとつ、消えかけた文字があった。よく見ると、それは僕の名前だった。

いつ書いたのか、兄は僕に何も言わなかった。ただ、自分のグラブの内側に、まだ野球もやっていなかった弟の名前を、そっと書き添えていた。なぜそんなことをしたのか、僕にはわからない。兄はもう、訊いても答えてくれない。ただ、その二つの名前が並んでいるのを見たとき、僕は、兄が僕に、何かを託そうとしていたのだと感じた。それが何なのかは、まだわからなかった。だが、確かに、そこに何かがあった。

僕はそのグラブをはめて、投手になった。左投げだったから、グラブは右手にはめる。兄は右投げだったのに、そのグラブは不思議と僕の手に馴染んだ。革が、僕の手の形をもう知っていたみたいだった。まるで、いつか僕がこの手をはめる日が来ることを、あらかじめ知っていたみたいに。

「フォアボールでもいい」

キャッチャーの田原が、マウンドまで来て、そう言った。汗が彼の顎から滴って、白い土に黒い点を落とした。その黒い点が、みるみるうちに乾いて、消えていく。それほど、土は灼けていた。

「押し出しでも一点。同点になるだけだ。まだ延長がある。無理に勝負するな」

理屈としては正しかった。四番との勝負を避けて、次の五番と勝負する。それはセオリーだ。強打者を歩かせて、確実に打ち取れる相手を選ぶ。監督も、たぶん同じことを考えている。ベンチのほうを見ると、監督は腕を組んで、じっとこちらを見ていた。何のサインも出さない。それは、お前に任せる、という意味だった。

だが僕は、田原のマスクの奥の目を見て、首を横に振った。

「逃げたら、次のバッターも打てる気がしない」

言ってしまってから、それが本当のことだと気づいた。ここで逃げたら、僕はもう、この試合のあいだじゅう、逃げることを考えつづける。一度でも逃げれば、その逃げ道が、ずっと頭の隅にちらつく。そうなったら、もう真っすぐには投げられない。次の打者にも、その次の打者にも、僕は全力では向かっていけなくなる。だから、逃げるわけにはいかなかった。ここで、この四番と、真正面から勝負するしかなかった。

田原は少しのあいだ、僕の顔を見ていた。それから、ふっと笑った。マスクをかぶりなおしながら、「お前は、兄貴に似てきたな」と言った。

田原は、僕の兄のことを知らないはずだった。学年が違う。会ったこともないはずだ。それなのに、なぜそんなことを言ったのか、僕は訊けなかった。田原はもう背を向けて、ホームベースへ歩いていた。彼の背中で、白い光がゆらゆらと揺れていた。汗に濡れたユニフォームの背中が、陽炎のなかで、水底のもののように揺らいでいた。

あとで知ったことだが、田原は、入学したばかりの頃、部室の壁に貼られた古い集合写真のなかに、僕の兄の顔を見つけていたらしい。名字が同じで、顔立ちも似ていた。それで、僕に兄がいたことを、なんとなく察していたのだという。だが、そのときの僕は、そんなことは知らなかった。ただ、田原の言葉が、なぜか胸の奥に、ことりと落ちた。

一年生のとき、僕はほとんどボール拾いだった。

夏の練習は、地獄だった。この街のグラウンドは、防風林に囲まれていて、風がまるで通らない。真昼になると、内野の土から陽炎が立ちのぼり、遠くの外野の選手が水のなかで揺れているみたいに見えた。ノックのボールを追いかけて、白い光のなかを走りまわった。喉が灼けて、水を飲んでも飲んでも、身体のどこかがからからに乾いたままだった。

上級生の投げるボールは、速かった。僕なんかとは、まるで違った。同じ人間が投げているとは思えないほどの球が、ミットに突き刺さって、乾いた音を立てた。僕は、その音を聞くたびに、自分の非力さを思い知らされた。こんなところで、僕は何をやっているのだろう、と思うこともあった。兄のグラブをはめて、投手になったはいいが、僕には何の才能もないのかもしれない、と。

その頃、僕にはひとつの癖があった。ベンチに戻ると、必ず自分のグラブを、守り袋のいちばん奥にしまうのだ。守り袋というのは、部の道具入れのことで、選手たちがそれぞれの手袋やグラブを放りこんでおく、古びた帆布の袋だった。誰が名付けたのか知らないが、昔からそう呼ばれていた。ほかの連中は、自分のグラブをそのへんに転がしておいた。ベンチの下や、フェンスの脇に。だが僕は、兄のグラブだけは、袋のいちばん奥に、そっと置いた。誰の手にも触れられないように。陽に灼かれて、革が傷まないように。

ある日、その袋のなかに、片方だけの手袋が入っているのを見つけた。バッティンググローブの、右手だけ。持ち主がわからない、古い手袋だった。左手のほうがどこかへ行ってしまって、右手だけが取り残されていた。革はすっかりくたびれて、指の部分の縫い目がほつれかけていた。誰も持ち主だと名乗り出なかった。マネージャーに訊いても、いつからあるのかわからない、という。それはずっと、袋の底にあった。僕がグラブを出し入れするたびに、その片方の手袋が、僕の兄のグラブに寄り添うように、そこにあった。

僕はいつからか、その手袋を、兄だと思うようになった。片方だけ残されて、対になる相手を失って、それでもまだそこにいる。捨てられもせず、使われもせず、ただ袋の底で、じっと待っている。何を待っているのかもわからないまま。

一年生の夏の終わり、僕は一度だけ、その手袋を手に取って、はめてみたことがある。右手に。小さすぎて、指がはみ出した。それでも、なんだか、兄の手を握っているような気がした。もう、二度と握れない、兄の手を。僕はすぐにそれを外して、また袋の底に戻した。そして、兄のグラブを、その隣に置いた。二つは、袋のなかで、静かに並んでいた。

一球目を投げた。

ストレート。内角低め。ボールは白い光を切って走り、ミットに突き刺さった。乾いた音が鳴った。球審の右手が上がる。ストライク。

歓声が、ぐわっと膨らんで、また引いた。潮のようだった。僕の背後で、内野の八人が息を詰めているのがわかった。彼らの視線が、僕の背中に集まっている。その熱が、汗になって流れた。背中を、一筋、汗が伝い落ちていく。それが、腰のあたりで止まって、じわりと広がった。

バッターは、バットを二度、短く振ってから、また構えなおした。まったく崩れていなかった。内角低めの、あのコースの球を、彼は見逃したのではなく、見送ったのだ。手を出す価値がないと判断した。狙い球ではない、と。それがわかって、僕の背筋を冷たいものが走った。この白い熱のなかで、僕は寒気を感じていた。

この打者を、僕は知っていた。地方大会から、ずっと彼の打席を見てきた。彼は、来た球を打つ打者ではなかった。自分の打ちたい球が来るまで、じっと待つ打者だった。三球でも、四球でも、五球でも、自分のコースに来るまで、待ちつづける。そして、その一球が来たとき、彼は決して見逃さない。この夏、彼が打ったホームランのほとんどは、そういう一球だった。追い込まれてもなお、待ちつづけて、仕留めた一球だった。

だから、彼と勝負するということは、彼の待っているその一球を、投げないということだった。あるいは――投げて、それでも打たれないこと。真っ向から、彼の狙いを打ち砕くこと。どちらを選ぶのか、僕は、まだ決めかねていた。

田原がサインを出した。次はスライダー。外角へ逃がす。まずは、様子を見る、ということだ。

僕は頷いた。セットポジションに入る。走者を確認する。三塁走者のリードが大きい。彼はホームに、この試合の勝敗をまるごと賭けている。僕と彼のあいだにあるのは、九十フィートの、灼けた土だけだった。彼の目は、ホームベースだけを見ていた。僕のことなど、目に入っていないみたいに。ただ、還ることだけを考えていた。

二年生の秋、僕は肩を壊しかけた。

投げすぎだった。監督は止めたのに、僕は投げるのをやめなかった。兄が投げられなかった分まで、投げなければならないと思っていた。馬鹿な考えだった。今なら、それがわかる。だが、その頃の僕は、そう思い込んでいた。投げれば投げるほど、兄に近づける気がしていた。兄が果たせなかった何かを、僕が代わりに果たせる気がしていた。そのせいで、左の肩が、ある朝、腕を上げられなくなった。

洗面所で顔を洗おうとして、腕が上がらなかった。肩の奥で、何かが軋むような、鈍い痛みがあった。僕は、しばらく、その場に立ち尽くしていた。鏡のなかの自分が、青ざめた顔で、こちらを見ていた。ああ、やってしまった、と思った。取り返しのつかないことを、してしまったのだ、と。

三か月、僕は投げられなかった。リハビリの日々のなかで、僕はよくひとりで、夜のグラウンドに座っていた。誰もいない、暗いグラウンドに。仲間たちが練習しているのを見るのが、つらかった。自分だけが、そこに加われないことが。だから、みんなが帰ったあとの、夜のグラウンドに、僕はひとりで座った。

ある明け方のことだった。眠れなくて、まだ暗いうちに家を出て、グラウンドまで歩いた。街はまだ眠っていた。信号だけが、誰もいない交差点で、青と赤を繰り返していた。その交差点を渡るとき、僕はいつも、兄のことを思った。雨の日の、なんでもない交差点。兄は、こんなふうに、ひとりで渡っていったのだろうか、と。

グラウンドに着くと、東の空がわずかに白みかけて、ほかはまだ紺色に沈んでいた。その紺色の空に、一本の、蒼白い線が引かれていた。

彗星だった。長い、蒼い尾を引いて、それは天のいちばん高いところの少し下に、静かに掛かっていた。ミラ彗星、というのだと、あとで新聞で知った。何十年かに一度、この空を渡っていく星だという。前に見えたのは、僕が生まれるよりも、ずっと前のことらしかった。そして次に見えるのは、僕がもう、老人になっている頃だという。

僕はしばらく、その蒼い一点を見上げていた。動いているようには見えなかった。だが確かに、それはどこか遠くから来て、どこか遠くへ行こうとしていた。片方だけの尾を引いて、たったひとりで、天を横切ろうとしていた。誰に見られることもなく、誰に待たれることもなく。何十年もの時間をかけて、たったひとりで、この暗い空を渡っていく。

そのとき、なぜか兄の口ずさんでいた歌を思い出した。子どもの頃、兄が僕を寝かしつけるとき、いつも歌っていた歌だ。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――。低い、下手な歌だった。兄は歌がうまくなかった。音を外してばかりで、いつも同じところで詰まった。でも、その歌を聞くと、僕はいつのまにか眠っていた。兄の声は、うまくはなかったけれど、あたたかかった。

星が海をわたるまで。

僕は、明け方の白みかけた空を渡っていく蒼い星を見ながら、その歌をひとりで口ずさんだ。声には出さなかった。心のなかで、そっと。すると、なぜか、涙が出た。肩が痛くて泣いたのではなかった。投げられなくて泣いたのでもなかった。ただ、あの蒼い星が、あんまり遠くて、あんまり孤独で、そして、あんまり美しかったからだ。兄も、こんなふうに、たったひとりで、どこか遠くを渡っているのだろうか、と思ったからだ。

肩は、その冬のあいだに、少しずつ治っていった。焦らず、じっくりと、僕はリハビリを続けた。もう、投げすぎることはやめた。兄の分まで、なんて考えるのもやめた。ただ、自分のために、自分の投げられる球を、大切に投げようと思った。それが、あの明け方の彗星が、僕に教えてくれたことだった。

彗星を見たあの明け方、僕は、帰り道で、一軒の店を見つけた。

グラウンドからの帰り道の、いつも通っている路地の奥に、見たことのない古書店があった。前の日までは、そんな店はなかったはずだった。ただの、しもた屋の並ぶ、薄暗い路地だった。それが、その明け方には、路地のいちばん奥に、ぽつりと、灯りがともっていた。木の看板に、月光書房、と書いてあった。

戸は、少し開いていた。なかを覗くと、天井まで届く本棚が、いくつも並んでいた。古い紙とほこりの匂いがした。奥に、白髪の店主らしき人が、椅子に座って、本を読んでいた。僕が入っても、顔を上げなかった。ただ、「どうぞ、ごゆっくり」と、低い声で言った。

僕は、なんとなく、棚のあいだを歩いた。どの本も、古かった。背表紙の文字が、擦れて読めないものもあった。そのとき、卓の隅に、藍色の小さな箱が置いてあるのが、目に入った。マッチ箱だった。表に、三日月が刻まれていた。月光堂、と書いてあった。

「それは、火をともす道具だよ」と、店主が、本から目を上げずに言った。「大切な場面を、照らすためのね」

僕は、意味がわからなかった。だが、なぜか、その青いマッチ箱を、じっと見ていた。

「肩を、痛めているね」と、店主が言った。僕は、驚いて、店主を見た。なぜ、わかったのだろう。僕は、投げる真似も、何もしていなかったのに。

「治るよ」と、店主は言った。「焦らなければ。星が海を渡りきる頃には、きっと」

僕は、何も言えなかった。星が海を渡る、というのは、兄の子守唄の一節だった。なぜ、この店主が、それを口にしたのか。僕は、その場に、立ち尽くしていた。

「投げたい球を、投げなさい」と、店主は続けた。「誰かの分ではなく。君の球を。頂点の一瞬に、迷いがあってはいけない。真昼の光の下では、影はいちばん短くなる。逃げ場が、どこにもなくなる。そのときに、迷わずにいられるかどうか。それだけだよ」

僕は、頷いた。なぜ頷いたのか、自分でもわからなかった。ただ、その言葉が、深く、胸に落ちた。

店を出るとき、僕はもう一度、振り返った。だが、そのときには、もう、店の灯りは消えかけていた。空が、白みはじめていた。彗星の見える夜が、終わろうとしていた。

翌朝、僕は、もう一度その路地を通った。だが、月光書房は、どこにもなかった。ただの、しもた屋の並ぶ、薄暗い路地があるだけだった。あの店は、幻だったのだろうか。だが、僕のポケットには、一つだけ、藍色のマッチ箱が入っていた。三日月の刻まれた、月光堂のマッチ箱が。いつのまに、それを持ち出したのか、僕には覚えがなかった。

僕は、そのマッチ箱を、ずっと持っていた。この、決勝の日まで。ユニフォームのポケットに、そっと忍ばせて。火をともすためではなく。ただ、あの明け方の言葉を、忘れないために。投げたい球を、投げなさい。君の球を。頂点の一瞬に、迷いがあってはいけない、と。

二球目を投げた。

スライダー。外角へ。ボールは真っすぐ来ると見せて、打者の手元でふっと逃げた。バッターの腰が、ほんのわずかに引けた。だが、彼はバットを出さなかった。またしても、見送った。ボール。

一ボール一ストライク。

僕は息を吐いた。田原がボールを返してくる。その白球を、僕はグラブで受けた。兄のグラブだ。革の内側に、僕の指が触れる。手首のところに書かれた、二つの名前が、汗で滲んでいるのを、僕は見なくても知っていた。三年間、この手で、何千球も投げてきた。そのたびに、この二つの名前が、僕の手のなかにあった。

四番は、動じていなかった。彼はいい球を見送り、悪い球にも手を出さない。この場面で、これほど落ち着いていられる打者を、僕はほかに知らなかった。一点差、二死満塁。ここで打てば英雄で、打てなければ何も残らない。その重圧のなかで、彼は微動だにしていなかった。バットを構えたまま、静かに、僕の次の一球を待っていた。

僕は、彼が怖かった。同時に、彼が羨ましかった。あんなふうに、何も背負っていないように見える。いや、本当は、彼も背負っているのだろう。彼にも、三年間があるはずだ。彼にも、この一打席にかけるものが、きっとあるはずだ。それでも、彼はそれを、微塵も表に出さなかった。ただ、静かに、待っていた。

僕は、自分の手のなかの、二つの名前を思った。僕は、ひとりではなかった。兄が、この手のなかにいた。片方だけの手袋が、ベンチの守り袋のなかで、待っていた。田原が、ホームベースの向こうで、僕を信じて待っていた。内野の八人が、僕の背中を守っていた。スタンドには、両親がいた。母は、きっと、目を覆っているだろう。父は、じっと、空を見ているかもしれない。僕は、ひとりではなかった。

だから、僕は、彼が羨ましかったのではない。むしろ、僕は、僕でよかったと、思った。たくさんのものを背負って、たくさんのものに支えられて、この場所に立っている自分でよかった、と。

決勝までの道のりは、長かった。

初戦で、僕たちは危うく負けかけた。九回まで一点を追う展開で、最後の攻撃で逆転した。二死からの、田原のタイムリーだった。彼が打った瞬間、僕はベンチで、思わず立ち上がった。二回戦は、投手戦になった。僕は延長十三回まで投げきって、二安打に抑えた。腕はもう、上がらなくなりかけていた。それでも、投げつづけた。あの、二年生の秋の失敗を、僕は忘れていなかった。だが、この夏だけは、投げなければならなかった。これが、最後の夏だったからだ。

準々決勝、準決勝と、勝つたびに、僕たちのチームは軽くなっていった。もう失うものがない者の軽さだった。負けたら終わり、という状況が、かえって僕たちを自由にした。どうせ終わるなら、悔いのないように。そう思うと、不思議と、身体が軽くなった。ボールが、指に吸いつくように、いい回転で走った。

準決勝の夜、宿舎の窓から、僕はまた空を見た。彗星は、もう肉眼ではほとんど見えなくなっていた。夏が深まって、あの蒼い尾は、日ごとに薄れていった。だが、目を凝らすと、まだそこにいるのがわかった。夏の夜空の、いちばん深いところに、消えかけた蒼い一点として。もう少しで、それは完全に見えなくなる。天を渡りきって、どこか遠くへ、行ってしまう。

田原が、隣の布団から声をかけてきた。

「なあ、お前、ずっと空、見てるよな」

「見てるよ」

「なんか、あるのか」

僕は少し迷ってから、彗星のことを話した。明け方に見たこと。何十年に一度しか来ないこと。そして、それを見たとき、兄のことを思い出したこと。ぽつり、ぽつりと、僕は話した。あの、二年生の秋の、肩を壊した頃のことも。夜のグラウンドに、ひとりで座っていたことも。

田原は、しばらく黙っていた。それから、「兄貴、いたのか」と言った。僕は、いたよ、と答えた。もう、いない、とは言わなかった。田原も、それ以上は訊かなかった。だが、暗がりのなかで、田原が小さく頷いたのが、気配でわかった。彼は、何かを察していた。そして、それ以上、踏み込まないでいてくれた。その優しさが、ありがたかった。

暗い天井を見上げながら、田原がぽつりと言った。

「明日、勝ったら、決勝だ」

「ああ」

「決勝の日は、晴れるらしいぞ。ものすごく、暑くなるって」

僕は目を閉じた。まぶたの裏に、あの白い光が浮かんだ。真昼の、色を灼き尽くす白。その白のなかに立つ自分の姿を、僕はもう、何度も夢に見ていた。マウンドの上で、たったひとり、白い光に灼かれながら、最後の一球を投げる自分の姿を。その夢のなかで、僕はいつも、投げる直前に目が覚めた。ボールが指を離れる、その瞬間の前に。だから僕は、その結末を、まだ知らなかった。

「なあ」と、僕は闇のなかで言った。「明日、勝てるかな」

「勝てるさ」と、田原は即座に答えた。「お前が投げるんだ。勝てるに決まってる」

その言葉に、根拠なんてなかった。ただの、気休めだった。それでも、僕は、少し眠くなった。田原の低い声が、なぜか、兄の子守唄に似ていた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。僕は、いつのまにか、眠っていた。

決勝の朝は、田原の言ったとおり、よく晴れた。

宿舎の窓を開けると、もう、空気が灼けていた。まだ朝だというのに、蝉が狂ったように鳴いていた。空は、白かった。青というより、白に近い、薄い水色。それが、時間が経つにつれて、どんどん白く灼けていった。

球場に着いて、グラウンドに出たとき、僕は、その白い光に、思わず目を細めた。夢で何度も見た、あの光だった。真昼の、色を灼き尽くす白。それが、いま、現実に、僕の頭上に広がっていた。スタンドは、両校の応援団で埋まっていた。太鼓の音が、ブラスバンドの音が、灼けた空気を震わせていた。だが、その音さえも、白い光のなかでは、どこか遠く、非現実的に聞こえた。

試合が始まった。僕は、序盤を、なんとか無失点で切り抜けた。相手も強かった。一点を先制されたのは、四回だった。だが、その裏、僕たちは二点を取り返した。田原のタイムリーツーベースだった。彼は、二塁上で、僕のほうを見て、拳を突き上げた。僕も、ベンチから、拳を突き上げて応えた。

六回に、また一点を取られて、二対二。そして、七回の裏、僕たちは、貴重な一点を勝ち越した。相手のエラーからの、幸運な一点だった。三対二。この一点を、僕は、守りきらなければならなかった。八回を、僕は三者凡退に抑えた。そして、運命の九回の裏を、迎えた。

九回、相手は、意地を見せた。先頭打者にヒットを打たれた。次の打者を、なんとか打ち取ったが、その次に、フォアボールを出した。集中力が、途切れかけていた。腕が、重かった。この夏、投げつづけてきた疲れが、いっぺんに出た気がした。さらにヒットを打たれて、一死満塁。ここで、僕は、次の打者を三振に打ち取った。二死。だが、まだ、満塁のままだった。そして、打席に、この夏いちばん打っている、四番が、入ってきたのだった。

三球目。

田原のサインは、内角高めのストレートだった。厳しいコースだ。少しでも甘くなれば、あの四番は逃さない。だが、決まれば、彼を追い込める。カウントは、一ボール一ストライク。ここで、もう一つ、ストライクを取っておきたかった。

内角高め。それは、僕のいちばん自信のあるコースだった。三年間、僕がいちばん磨いてきた球。速くはない。プロの投手のような球は、僕には投げられない。だが、コントロールだけは、誰にも負けないつもりだった。ここぞという場面で、狙ったところに、ぴたりと投げ込む。それが、僕の、たった一つの武器だった。

僕は頷いた。深く息を吸った。灼けた空気が、肺に入ってくる。喉が、からからだった。

ユニフォームの、腰のポケットに、指先が触れた。そこに、あの藍色のマッチ箱が入っていた。三日月の刻まれた、月光堂のマッチ箱。あの明け方の、月光書房の店主の言葉が、耳の奥で鳴った。投げたい球を、投げなさい。君の球を。頂点の一瞬に、迷いがあってはいけない。真昼の光の下では、影はいちばん短くなる。逃げ場が、どこにもなくなる。そのときに、迷わずにいられるかどうか――。

僕は、いま、その頂点にいた。真昼の、白く灼けた光の下。足もとの影は、いちばん短く、うずくまっていた。逃げ場は、どこにもなかった。だが、僕には、もう、迷いがなかった。

セットポジションに入る。左足を上げる。世界が、一瞬、静止した。

その静止のなかで、僕はふと、三塁側スタンドのいちばん上を見た。理由はわからない。ただ、目がそこへ吸い寄せられた。何かに、呼ばれたような気がした。

白い空だった。真昼の、白く灼けた空。だがその白のなかに、ほんの一点、蒼いものがあった。

彗星だった。

まさか、と思った。真昼に、彗星が見えるはずがない。あれほど明るい真昼の空に、星が見えるわけがない。それは、天文学の常識に反していた。だが、確かにそこに、蒼い一点があった。長い尾を引いて、白い空の高みに、静かに掛かっていた。何十年に一度の、稀なる明るさで、真昼の光すらも貫いて、それはそこにいた。

僕は、この夏のあいだ、ずっと、その星が消えていくのを見てきた。夜ごとに薄れ、明け方に溶け、もう見えなくなったと思っていた。それが、いま、この真昼の白い空に、もう一度、姿を現していた。まるで、僕に、最後の姿を見せに来たかのように。天を渡りきる、その最後の一瞬を、僕に見届けさせるかのように。

星が海をわたるまで――。

心のなかで、その一節が、ひとりでに鳴った。兄の、低い、下手な歌が。

僕は、それでいい、と思った。もう、迷いはなかった。逃げない。真っ向から、投げる。この、内角高めの、僕のいちばんの球を。三年間で、いちばん強い球を。兄の分ではなく、誰かのためでもなく、僕自身の、この一球を。

僕は左足を踏みおろした。腕を振った。三年間のすべてが、その一振りに乗った。ボールが、指先を離れる。白い光のなかを、白球が走る。内角高め。田原のミットが、そこで待っている。

バットが出た。

四番のバットが、鋭く、内側から出た。見逃すと思っていた球に、彼は初めて、手を出した。彼もまた、この一球を、待っていたのだ。追い込まれてもなお、待ちつづけて、そして、仕留めにきた。彼の三年間も、その一振りに、乗っていた。

金属の、乾いた音がした。

打球は、白い光のなかを、まっすぐ僕のほうへ飛んできた。速かった。強烈なライナーだった。マウンドの、僕の顔のあたりへ。それは、真昼の光を切り裂いて、白い弾丸のように、僕に向かってきた。

考える時間はなかった。身体が、先に動いた。三年間、繰り返してきた練習が、身体に染みついていた。僕は、考える前に、動いていた。

僕は右手を上げた。兄のグラブをはめた、右手を。左投げの僕が、投げた勢いのまま、身体を三塁側へ流しながら、その手を、打球の軌道へ突き出した。無意識だった。ただ、そこに手を伸ばした。まるで、誰かに、そうしろと言われたみたいに。まるで、その手が、僕の意志とは別に、動いたみたいに。

グラブの土手のあたりに、何かが、ずしんと当たった。衝撃が、手首から肩へと突き抜けた。あの、二年生の秋に壊しかけた、左の肩――ではなく、右の肩へ。革の焦げるような匂いがした――気がした。打球の勢いで、身体が、くるりと半回転した。僕は、マウンドの土の上に、片膝をついた。

僕は、打球がどこへ行ったのか、わからなかった。手のなかにあるのか、こぼれたのか。白い光のなかで、すべてが真っ白になっていた。音も消えていた。あの巨大な歓声も、田原の声も、太鼓も、ブラスバンドも、何も聞こえなかった。ただ、右手が、じんじんと痺れていた。世界が、しんと、静まりかえっていた。真昼の、白い静寂のなかに、僕は、たったひとりで、いた。

そして、僕は見た。

右手に突き出したグラブの、その網のなかに、白球が――ボールが、深く食い込んで、そこにあった。

一瞬、世界が、無音のままだった。

その一瞬が、ひどく長く感じられた。永遠のようだった。真昼の光のなかで、時間が止まっていた。僕は、片膝をついたまま、右手のグラブのなかの白球を、じっと見ていた。それは、確かに、そこにあった。網に食い込んで、こぼれもせず、逃げもせず、そこに、あった。

それから、音が戻ってきた。津波のように、歓声が戻ってきた。スタンドが、揺れていた。内野の八人が、僕のほうへ走ってくるのが、白い光のなかに見えた。田原が、マスクを放り投げて、こちらへ駆けてくる。彼の口が、大きく開いていた。何か叫んでいた。だが、その声は、大きすぎる歓声のなかに、かき消されていた。

だが、僕はまだ、動けなかった。突き出した右手を、そのままの形で、空へ向けていた。グラブのなかの白球を、僕は、じっと見ていた。信じられなかった。この手が、あの打球を、捕っていた。この、兄のグラブが。

そのグラブの手首のところに、二つの名前が書いてあった。汗で滲んで、もうほとんど読めなくなった、兄の名前と、僕の名前。三年間、ずっと、この手のなかにあった、二つの名前。

兄は、三年間、一度もマウンドから試合を終わらせなかった。ベンチのいちばん端で、片方だけの手袋のように、対になる相手を待ちながら、ずっとそこにいた。エースではなく、控えの投手として。誰にも注目されないまま。だが、それでも、兄は、野球が好きだった。あの、七点差の試合の九回に、三人を打ち取って、あんなに嬉しそうにマウンドを降りてきた兄が。

そのグラブが、いま、最後の一球を、受け止めていた。兄が投げられなかった分の、その最後の一つを。試合を終わらせる、その一球を。兄が、ついぞ経験できなかった、その瞬間を。

僕は、ゆっくりと右手をおろした。グラブの網から、白球を取り出す。それは、まだ僕の手のなかで、熱かった。真昼の光を吸って、灼けるように熱かった。バットの芯で叩かれた、その熱が、まだボールに残っていた。あるいは、それは、兄の手の、熱だったのかもしれない。

田原が、僕に抱きついてきた。彼の身体は、汗でびしょ濡れだった。何か叫んでいたが、言葉にはならなかった。ほかの連中も、次々に僕に飛びついてきた。誰かの肘が僕の顎に当たった。誰かの手が僕の頭を叩いた。みんな、泣いていた。笑いながら、泣いていた。汗と涙が、みんなの顔で、ぐちゃぐちゃになっていた。

「やった」と、田原が、僕の耳元で叫んだ。「やったぞ。優勝だ。日本一だ」

日本一。その言葉が、なぜか、うまく実感できなかった。ただ、終わったのだ、と思った。三年間が、終わったのだ、と。あの、地獄のような夏の練習も、肩を壊した秋も、夜のグラウンドに座った日々も、すべてが、この一瞬に向かっていたのだ。そして、いま、それが、終わった。

スタンドのほうを見た。一塁側の、いちばん見やすい場所に、両親がいた。母は、両手で顔を覆っていた。泣いているのが、遠目にもわかった。父は、その隣で、じっと立っていた。いつものように、少しだけ、空を見ていた。それから、父は、ゆっくりと、右手を挙げた。僕に向かって。何も言わなかった。ただ、片手を挙げただけだった。だが、その仕草に、僕は、胸が詰まった。父は、たぶん、兄のことを思っていた。この場所に立てなかった、もうひとりの息子のことを。そして、いま、この場所に立っている、僕のことを。僕も、右手を挙げた。兄のグラブをはめた、右手を。父と、僕のあいだで、二本の右手が、白い光のなかで、静かに向かい合っていた。

僕は、その真ん中で、もう一度だけ、三塁側スタンドのいちばん上を見た。

蒼い一点は、もう、なかった。

白い空が、どこまでも広がっているだけだった。真昼の、色を灼き尽くす白。あの彗星は、もう見えなかった。天のいちばん高いところを渡りきって、どこか遠くへ、行ってしまったのかもしれない。それとも、初めから、僕にしか見えていなかったのかもしれない。あの蒼い一点は、本当に、あそこにあったのだろうか。それとも、僕が、見たかったから、見えたのだろうか。今となっては、わからない。

だが、それでよかった。星は、海を渡りきったのだ。

星が海をわたるまで。

兄の歌が、もう一度、心のなかで鳴った。今度は、少しだけ声になった。誰にも聞こえないくらいの、小さな声で、僕はそれを口ずさんだ。灼けた土の上で、汗と涙にまみれて、仲間たちに揉みくちゃにされながら。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。兄さん、渡りきったよ。星は、海を、渡りきったよ。

表彰式が終わって、しばらくして、僕はひとりでベンチに戻った。

みんなは、まだ、グラウンドで、写真を撮ったり、応援団に挨拶をしたりしていた。優勝旗を、かわるがわる手にして、はしゃいでいた。僕は、その輪から、そっと抜けて、ベンチに戻った。誰にも、気づかれないように。

守り袋を開けた。古びた帆布の袋のなかに、あの片方だけの手袋が、まだそこにあった。右手だけの、持ち主のわからない手袋。三年間、ずっとそこにあった手袋。指の縫い目が、ますますほつれて、もう、ぼろぼろになりかけていた。だが、それでも、そこに、あった。捨てられもせず、使われもせず。

僕は、はめていた兄のグラブを外した。汗で、内側が、ぐっしょりと濡れていた。手首のところの、二つの名前を、僕は指でそっと撫でた。兄さん、と、僕は心のなかで呼んだ。捕ったよ。最後の一球、この手で、捕ったよ。兄さんが投げられなかった分、僕が、投げきったよ。そして、終わらせたよ。

そして、それを、袋のいちばん奥に、そっと置いた。片方だけの手袋の、すぐ隣に。

対になるものを失ったもの同士が、袋の底で、寄り添うように並んだ。兄のグラブと、持ち主のわからない片方の手袋。どちらも、対になる相手を、どこかで失って、それでも、ここにいる。二つは、袋のなかで、静かに並んでいた。まるで、ずっと前から、そうであったみたいに。まるで、二つで、一つであるみたいに。

僕は、その二つを、しばらく見ていた。それから、袋の口を、静かに閉じた。

このグラブを、僕は、もう使わないだろう。高校の野球は、今日で終わりだ。大学でも野球を続けるかもしれない。だが、そのときは、新しいグラブを買うだろう。この、兄のグラブは、ここに置いていこう、と思った。守り袋のなかに。片方の手袋の隣に。次の誰かが、いつか、この袋の底で、二つを見つけるかもしれない。そして、その誰かが、この二つに、それぞれの物語を、そっと重ねるのかもしれない。

ベンチを出ると、外はまだ、白かった。陽は、少しだけ西へ傾きかけていたが、光はまだ、灼けるように白かった。僕は、その白い光のなかへ、一歩、踏み出した。

グラウンドの中央で、仲間たちが、まだ肩を組んで、歌っていた。校歌ではなかった。何の歌かもわからない、めちゃくちゃな歌だった。誰かが即興で作ったような、でたらめな歌詞の歌だった。でも、それは確かに、勝った者の歌だった。喜びが、そのまま、声になったような歌だった。

僕は、彼らのほうへ歩いていった。歩きながら、もう一度だけ、空を見上げた。

蒼い一点は、やはり、なかった。

でも、それでよかった。星は、海を渡りきったのだ。片方だけの尾を引いて、たったひとりで、天のいちばん高いところを越えて、向こう側へ。もう、二度と、僕の目には見えないだろう。次にそれが来るのは、僕がもう、老人になっている頃だ。そのとき、僕は、今日のことを、思い出すだろうか。この、白い光を。この、灼けた土を。この、右手のなかで熱かった、白球を。

僕は、目を空から戻した。前を見た。仲間たちの歌が、近づいてきた。真昼の白い光が、僕の短い影を、足もとに小さく畳んでいた。頭の真上から降る光は、影を、いちばん短くする。まるで、影が、僕の足もとに、うずくまっているみたいに。

その短い影を踏んで、僕は、歩いていった。三年間で、いちばん軽い足取りで。兄が、この手のなかにいた。片方の手袋が、袋の底で、待っていた。そして、僕は、ひとりではなかった。灼ける白い光の底で、僕の短い影と、その隣を歩く、もう一つの、見えない影と、二人で、僕は、歩いていった。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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