月光書房
午の刻 ・ 真昼 ・ 第 四 話

正午の卓

財前 恒司
ビジネス・サスペンス ・ 約26頁

正午の卓

正午五分前の会議室には、影というものがほとんどなかった。

真上から降ってくる光が、長机のニスの上にも、水差しの銀の腹にも、居並ぶ者たちの頬にも、平らに乗っていた。窓の外は白く灼けていた。三十六階の高さから見おろす街は、真昼の熱で輪郭を失い、ビルの群れは陽炎の中で溶けかけた氷のように見えた。空調は正確に働いているのに、遠田要はうなじにうっすらと汗をかいていた。それは室温のせいではなかった。

長机の一方の端に、彼と、彼の会社の側の三人が座っていた。もう一方の端に、買い手の側の四人が座っていた。あいだの卓上には、製本された契約書が二部、まったく同じ厚みで、まったく同じ位置に置かれていた。表紙の右下に、それぞれの署名欄があった。空白のまま、光を受けて白かった。

「お飲み物は」と、買い手側の若い担当が言った。

「けっこうです」と遠田は答えた。

自分の声が、思ったより乾いていた。彼は水差しに手を伸ばしかけて、やめた。ここで水を飲む所作を見せることの意味を、向こうは正確に読むだろう。喉が渇いている、緊張している、時間を稼ぎたい――そのどれもが、この卓では手の内になる。彼は手を膝の上に戻した。

正面に座っているのは、笹倉という男だった。買収する側、津久見ホールディングスの専務。歳は遠田と同じくらい、五十の半ばだろう。仕立てのいい紺の背広を着て、両手を卓の上で軽く組んでいた。組んだ指のあいだから、光が抜けていた。笹倉は微笑んでいた。攻撃的でも、慇懃でもない、ただ穏やかな微笑だった。その穏やかさが、遠田にはいちばん怖かった。

「遠田さん」と笹倉は言った。「もうお互い、言うべきことは言い尽くしましたね」

「そうかもしれません」

「三か月です。この三か月、私たちはずいぶん長く話しました。数字も、雇用も、屋号も。私は誠実にやってきたつもりです」

「ええ。誠実でした」

それは嘘ではなかった。笹倉は誠実だった。少なくとも、誠実に見えるということについては、この男は職人だった。

遠田の会社――遠田製作所は、遠田の祖父が興した精密ばねの工場だった。指先ほどの、目に見えないほど細いばねを作る。時計の中に、内視鏡の先に、人工衛星の関節に、それは入っている。従業員は八十七人。工場は郊外の川べりにある。祖父が建て、父が守り、遠田が継いだ。三代で八十七人。

その八十七人分の人生が、いま、この白い署名欄の上に乗っていた。

三か月前、遠田製作所は静かに沈みかけていた。

主力の取引先が、部品の内製化に踏み切った。売上の四割が、半年でなくなることが決まった。銀行は貸し渋り、リスケジュールの相談にも顔を曇らせた。遠田は帳簿を睨みながら、あと十四か月だ、と計算した。十四か月後、給料を払えなくなる月が来る。それは動かせない事実だった。

そこへ、津久見ホールディングスから話が来た。

買収――正確には、株式の全部取得。遠田の持ち株を津久見が買い、遠田製作所は津久見のグループに入る。屋号は残す。工場も残す。従業員も原則、雇用を継続する。そして遠田自身は、しばらくのあいだ相談役として残り、それから退く。

条件は、悪くなかった。悪くないどころか、沈みかけた船にしては破格だった。津久見は遠田製作所の技術が欲しかった。あの、目に見えないほど細いばねを巻く技術。それは金では買えない。人の指に宿ったものだ。だから津久見は、人ごと買おうとした。

最初、遠田はほっとした。八十七人が守られる。それがいちばんだと思った。

夜、家で妻に話した。妻は、長いこと黙っていた。それから、悪い話ではないのね、と言った。悪い話ではない、と遠田は答えた。ただ、と言いかけて、そのあとの言葉が、そのときは、まだ出てこなかった。ただ、何だろう、と遠田は自分に問うた。何が、引っかかっているのだろう。破格の条件だった。八十七人が守られる。自分も、じゅうぶんな金を手に、身軽になれる。祖父が興し、父が守った工場を、大きな会社に託して、あとは川べりの家で、静かに老いていける。それの、どこに、ためらう理由があるのか。妻は、遠田の顔をしばらく見て、あなた、寝なさい、と言った。考えるのは、明るいところでなさい。夜に決めることじゃない。

遠田は、そのとおりだと思った。だが、その夜、彼は眠れなかった。

だが、話が進むにつれて、遠田は津久見という会社の輪郭を、少しずつ見るようになった。

「一点だけ、確認させてください」と遠田は言った。

笹倉が微笑んだまま、うなずいた。「どうぞ」

「昨年、御社が買収された甲州精工――あそこの従業員は、いま何人残っておいでですか」

会議室の空気が、ほんのわずか、締まった。

遠田の隣に座る顧問弁護士が、資料の縁を指で押さえた。買い手側の若い担当が、笹倉の横顔を盗み見た。笹倉だけが、微笑みを崩さなかった。

「よくお調べですね」と笹倉は言った。

「調べました。買収の直後は、九十人ほどいたはずです。いまは」

「二十二人です」と笹倉は言った。まっすぐに。ためらいもなく。「正確な数字をおっしゃっていただいて、こちらも嘘をつかずに済む。二十二人です」

その率直さが、また怖かった。

「三年で、七割が去った」と遠田は言った。「これはリストラですか」

「いいえ」と笹倉は言った。「リストラは一人もしていません。約束通り、雇用は継続しました。ただ――環境が変わると、人は自分で去っていくことがあります。工場が閉じ、配置が変わり、通勤が遠くなり、上司が変わる。誰も首を切っていない。ただ、皆さん、ご自分の判断で辞めていかれた。これは私たちの責任でしょうか」

「工場を閉じたのは、御社では」

「効率の問題です。二つあった工場を一つにした。それは経営として正しい判断でした。甲州精工の技術は、いまも私たちのグループの中で生きています」

「技術は生きた。人は去った」

「技術は、」と笹倉はわずかに言葉を切って、「――最後には、少数の人に集約されるものです、遠田さん。あなたもご存じでしょう。八十七人が全員、あのばねを巻けるわけではない。巻けるのは、何人ですか」

遠田は答えなかった。

答えられなかった、と言うほうが正確だった。あのばねを、図面通りに、寸分の狂いなく巻ける者は、遠田製作所に七人しかいなかった。七人。あとの八十人は、その七人を支える人々だった。材料を運び、機械を整え、検査をし、出荷をし、帳簿をつけ、昼の弁当を配る人々。会社とは、そういうものだった。七人の指と、八十人の生活。

笹倉は、その七人だけが欲しいのだ。あとの八十人は、津久見にとって、コストだった。技術を包んでいる、剥いて捨てるべき皮だった。

遠田は、この三か月のあいだに、津久見の過去の買収を、一つ一つ、調べていった。甲州精工だけではなかった。ほかにも、いくつもあった。買われた会社は、どれも、最初は「屋号存続」「雇用継続」を約束されていた。そして、どれも、三年ほどで、痩せていった。屋号は看板だけ残り、中身は入れ替わった。人は減り、工場は統合され、技術だけが、津久見の本体に、吸い上げられていった。それは、暴力ではなかった。首を切る音も、悲鳴も、なかった。ただ、静かに、水が引くように、人が去っていった。合法だった。契約どおりだった。誰も、津久見を訴えることはできなかった。訴える条項が、契約書のどこにも、なかったからだ。

これは、うまい会社だ、と遠田は思った。うますぎる会社だ。誠実の顔をして、誠実な契約書を差し出して、その契約書に書かれていないことで、静かに、目的を遂げる。笹倉という男は、その、うまさの、いちばん前に立っている顔だった。

正午の鐘が、どこか遠くで鳴った気がした。ほんとうに鳴ったのか、遠田の頭の中で鳴ったのかは分からなかった。真昼だった。窓の外の白さが、いっそう濃くなったように思えた。

遠田は、胸ポケットに手をやった。

そこに、小さな硬いものが入っていた。マッチ箱だった。青い、月光堂という古い商標の入ったマッチ箱。ずいぶん前に、ある夜、手に入れたものだった。中のマッチはもう湿気ているだろうし、擦っても火はつかないだろう。それでも遠田は、大事な話の日にはいつもそれを胸に入れていた。指先で箱の角に触れると、少しだけ落ち着いた。祖父が使っていたのと同じ商標のマッチだった。祖父はよく、その青い箱を工場の神棚の下に置いていた。

「時間ですね」と、笹倉の隣の男が言った。津久見の法務部長だった。腕時計を見ていた。「本日の正午をもって、と申し上げていた通りです。この時刻を過ぎますと、本件の条件は――」

「わかっています」と遠田は言った。

期限は正午だった。それは津久見が最初から切っていた線だった。今日の正午までに署名しなければ、条件を見直す。見直すというのは、悪くするという意味だ。遠田はそれを知っていた。急かすことも、圧力も、この卓では礼儀正しい言葉に着替えて現れる。「本件の条件は」――そのあとに続く言葉を、法務部長は言わなかった。言わないことが、いちばん重かった。

遠田は契約書に目を落とした。三か月かけて練り上げた文書だった。雇用継続の条項。屋号存続の条項。工場の所在地に関する条項。どれも、弁護士が知恵を絞って書いた。だが遠田はいま、それらの条項が、甲州精工の契約書にも、まったく同じ言葉で書かれていたことを知っていた。雇用は継続された。工場は閉じられた。二十二人が残った。言葉は守られ、人は去った。

契約書は嘘をつかない。ただ、契約書に書けないことが、この世にはあった。

遠田の隣で、常務の桑野が、そっと身を寄せてきた。

桑野は遠田より十歳上で、父の代からの人間だった。工場のことを、遠田より知っていた。誰が誰と結婚し、誰の子が受験で、誰が親の介護をしているか。八十七人の顔と、その背後にある八十七の家を、桑野は全部知っていた。

「社長」と桑野は、聞こえるか聞こえないかの声で言った。「――サインしましょう」

遠田は横目で桑野を見た。

「これ以上は、もう、探しても出てこん」と桑野は言った。唇だけを動かして。「うちに残された時間は、社長がいちばんよう知っとる。この条件を蹴って、来月、給料の遅配が出たら、それこそ皆、散り散りになる。津久見に入れば、少なくとも、来月の給料は出る。半分の人でも、四分の一の人でも、残れる者は残れる。ゼロよりは、ええ」

ゼロよりは、いい。

その言葉が、遠田の胸に鉛のように落ちた。桑野は正しかった。恐ろしいほど正しかった。この卓で今、いちばん現実を見ているのは桑野だった。遠田製作所には、もう時間がない。誇りだの、義理だの、そういうものを言っている場合ではない。八十七人のうち、二十二人でも守れるなら、それは二十二の家を守るということだ。二十二人分の来月の給料。二十二人分の子の学費。二十二人分の、明日の飯。

ゼロよりは、いい。

遠田は、若いころ、一度だけ祖父に叱られたことを思い出した。

工場を継ぐ前、大学を出て、大きな商社に勤めていたころだった。盆に帰省して、祖父の工場を訪ねた。遠田は当時、数字で世界を見ることを覚えたばかりで、生意気だった。祖父の工場の帳簿をのぞき込んで、こう言った。

「じいちゃん、この検査工程、外注に出せば人が三人減らせる。原価が七パーセント下がるよ」

祖父は、老眼鏡の奥から遠田を見た。それから、工場の隅を指さした。そこでは、松吉という老いた検査員が、ルーペを目に当てて、ばねを一つ一つ見ていた。松吉はもう七十を越えていて、手は震えていたが、その目は誰よりも正確に不良を見抜いた。

「あれを外注に出したらな」と祖父は言った。「松っちゃんは、明日から、どこへ行けばええ」

遠田は答えられなかった。

「原価が七パーセント下がる。それはお前の言う通りや」と祖父は言った。「そんで、松っちゃんの飯が、まるまるゼロになる。ゼロを七で割ったら、なんぼになる」

割れない、と遠田は思った。ゼロは割れない。

「会社ちゅうのはな、要」と祖父は言った。「儲けるための道具や、と皆言う。それは半分ほんまや。けどな、道具にしては、人が入りすぎとる。人が入っとる道具は、もう道具やない。道具に、義理が生えとる。義理の生えた道具を、道具みたいに振り回したらな、いつか、自分の手も切る」

遠田はそのとき、祖父の言葉を、田舎じみた感傷だと思った。商社では、そんなことを言う者はいなかった。彼らはゼロを割ることを恐れなかった。彼らは人を数字にすることに長けていた。そしてそれで、世界は回っていた。数字にすれば、人は動かせた。数字にすれば、痛まなかった。松吉ではなく「検査工程一名」と書けば、それは減らせるものになった。遠田は、それが、大人の見方だと思っていた。祖父のは、子どもの見方だと。

だが、いま、この卓に着いてみて、遠田は、笹倉の中に、若い日の自分を見ていた。笹倉は、あの日の遠田だった。ゼロを割ることを恐れない男。人を、剥くべき皮と、残すべき核とに、きれいに分けられる男。数字が分かる男。そして、遠田は、いま、この卓の反対側から、その自分を、見ていた。祖父の側から。松吉の飯の側から。

祖父が死んで、父が継ぎ、父が倒れて、遠田が継いだ。継いでみて、遠田はやっと、あのゼロの意味が分かった。ゼロは割れない。人がゼロになったとき、そこには何も残らない。技術は残るかもしれない。屋号は残るかもしれない。だが、松吉の飯は、まるまるゼロになる。

「遠田さん」と笹倉が言った。「何を考えておいでですか」

遠田は顔を上げた。

「祖父のことを」と正直に言った。「この会社を興した男のことを」

「立派な方だったと聞いています」

「立派だったかどうかは知りません。ただ、しつこい男でした。粘り強い、というのとは違う。ただ、しつこかった」

笹倉が、初めて少しだけ、微笑みの質を変えた。興味を持った、というふうに。

「あのばねはね、笹倉さん」と遠田は言った。「祖父が三年かけて巻き方を見つけたんです。当時、誰にもできなかった。細すぎて、機械では巻けなかった。祖父は毎晩、工場に残って、指で巻いた。何万本も、失敗した。ある夜、やっと一本、図面通りのが巻けた。祖父はそれを、自分の指の記憶だと言いました。頭で覚えたんじゃない、指が覚えたんだと。その指を、祖父は弟子に伝えた。弟子がまた弟子に伝えた。いま、その指を持っているのが、うちの七人です」

「知っています」と笹倉は言った。「だからこそ、私たちはあなたの会社が欲しい」

「その七人を、御社は残す。あとの八十人は、たぶん、自分の判断で去っていく。甲州精工のように」

笹倉は否定しなかった。否定しないことが、答えだった。

「でもね、笹倉さん」と遠田は言った。「その七人の指はね、あとの八十人が支えているんですよ。松吉が――いや、これは古い話だ。とにかく、検査員がいて、材料係がいて、機械の面倒を見る者がいて、昼飯を作る者がいる。工場がまるごと、あの七本の指を支えている。八十人を散らして七人だけ残したら、その七人の指は、たぶん、三年で鈍ります。私はそれを知っている。あなたは知らない」

「三年で二十二人が残った」と笹倉は言った。「甲州精工は、いまも良い部品を作っています」

「良い部品を、ね」と遠田は言った。「最高の部品ではなく」

はじめて、笹倉の微笑が消えた。

窓の外で、光が揺れた。

遠田は、ふと、窓のほうへ目をやった。真昼の空は白かった。雲一つない、白熱した青。三十六階の窓から、その白い空を見た。ビルの群れが陽炎に溶けている。街は音を失って、ただ光っていた。

そのとき、遠田は、空の一点に、蒼い星を見た。

真昼だった。太陽がいちばん高くにある時刻だった。それなのに、白く灼けた空の一角に、目を凝らせばそれと分かる、蒼白い一点があった。長い尾を、ごく淡く、引いていた。彗星だった。ミラ彗星。数十年に一度、真昼にも見えるほど明るくなるという、あの星。遠田は、明け方の空でそれを見たことを思い出した。今日の未明、眠れずに工場の川べりを歩いたとき、東の空低くに、その蒼い尾を引く星があった。あのときは、まだ暗い空の底にあった。それがいま、真昼の白い空にまで昇ってきて、それでも消えずに、蒼く光っていた。

昼の光に負けない星、というものが、この世にはあるのだと遠田は思った。

今日の未明のことを、遠田は思い出した。眠れずに、夜明け前の川べりを、一人で歩いた。工場の裏の、あの川。祖父が指でばねを巻いた工場の、すぐそば。水は黒く、まだ夜の底にあった。遠田は、その川べりで、東の空低くに、蒼い尾を引く星を見た。ミラ彗星だと、あとで新聞で知った。数十年に一度、真昼にも見えるほど明るくなる、稀な星。あのとき、遠田は、その星に、何を願うでもなく、ただ、見ていた。眠れない男が、眠れないまま、明けていく空の底の、蒼い一点を、見ていた。子どものころ、母が歌ってくれた子守唄の、断片が、そのとき、ふと、口をついて出た。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――そんな、古い唄。母は、もう、いない。祖父も、父も。いるのは、遠田と、八十七人だけだった。

いちばん明るい時刻に、いちばん見えにくいときに、それでも見ようとすれば見える。彗星は、遠田を励ましも、諭しもしなかった。ただ、そこにあった。白い空の中の、蒼い、消えない一点として。

遠田は目を戻した。会議室の誰も、窓の外を見ていなかった。彼らは契約書を見ていた。空白の署名欄を見ていた。真昼の空に彗星があることを、遠田のほかは誰も知らなかった。

「笹倉さん」と遠田は言った。声が、さっきより少し、据わっていた。「一つ、提案があります」

法務部長が腕時計を見た。「もう、正午です」

「二分ください」と遠田は言った。「二分で終わります」

笹倉が、法務部長を手で制した。「聞きましょう」

遠田は、鞄から一枚の紙を取り出した。それは契約書ではなかった。手書きの、簡単な数字の並んだ紙だった。彼は昨夜、工場の事務所で、桑野にも弁護士にも見せずに、一人で書いたものだった。

「御社は、うちの技術が欲しい。うちの七人の指が欲しい。それは分かっています」と遠田は言った。「でも、御社がほんとうに欲しいのは、指ではなく、指が作るものでしょう。あのばねだ。世界でうちにしか巻けない、あのばね。ちがいますか」

「その通りです」

「なら、会社を丸ごと買う必要はない」と遠田は言った。「八十七人を買う必要はない。工場を津久見の色に塗り替える必要もない。御社が欲しいのは、供給です。あのばねが、これからも、確実に、御社に届くこと。それだけのはずだ」

会議室が静かになった。空調の低い音だけが聞こえた。

「私が提案するのは、買収ではなく、契約です」と遠田は続けた。「長期の、独占供給契約。十年。うちは津久見に、あのばねを優先的に供給する。価格は据え置き、増産にも応じる。技術は開示する。必要なら、御社の技術者を工場に受け入れて、指の伝え方も教える。そのかわり――会社は、うちのままにしておく。八十七人は、うちのままで。工場も、川べりのまま」

「それは」と法務部長が口を開いた。「弊社にとっての利益が――」

「利益はある」と遠田は言った。彼は手書きの紙を、卓の上に滑らせた。「ここに書いてあります。買収して七人だけ残して、三年で指が鈍って、いずれ最高のばねが作れなくなる。それより、八十七人ごと生かして、十年、確実に最高のばねを買い続けるほうが、御社は儲かる。数字にしました。見てください。買収より、供給契約のほうが、津久見の十年の利益は――大きい」

笹倉が、その紙に手を伸ばした。

紙を見る笹倉の目が、動いた。

遠田は、その目を見ていた。数字を読む男の目だった。笹倉は数字が分かる男だった。だからこそ、この提案が笹倉にどう映るかを、遠田は昨夜からずっと計算していた。買収は、津久見にとって「技術の獲得」だった。だが同時に、それは「八十七人の面倒を見る」というコストでもあった。津久見は、そのコストを、買収後に人を減らすことで回収する腹づもりだった。甲州精工でそうしたように。

だが、供給契約なら、津久見は面倒を見なくていい。コストは遠田が負う。津久見は、ばねだけを、確実に、いちばんいい状態で買える。八十七人が支える七本の指が、鈍らずに、十年、最高のものを巻き続ける。

数字の上では、遠田の言う通りだった。買収より、供給契約のほうが、津久見は得をする。ただ一つ、条件があった。遠田製作所が、その十年、潰れないこと。

これが、遠田の切り札だった。昨夜、事務所で、一人で、この紙を書きながら、遠田は、何度も、自分の計算を疑った。都合よく数字を並べているのではないか。買収を蹴りたいという願望が、数字を歪めているのではないか。彼は、三度、電卓を叩き直した。三度とも、同じ答えが出た。買収は、津久見にとって、思ったほど得ではない。八十七人を抱えるコスト。工場を統合するコスト。技術を移転するあいだ、質が落ちるリスク。それらを全部、正直に積み上げると、買収の旨みは、思ったより薄かった。津久見が買収に踏み切ったのは、たぶん、それが「会社を手に入れる」という、分かりやすい絵だったからだ。人は、分かりやすい絵に、金を払う。だが、笹倉は、数字が分かる男だった。分かりやすい絵より、正しい数字を、笹倉なら、選ぶかもしれない。

遠田は、笹倉が数字の分かる男であることに、賭けた。皮肉なことだった。八十七人を守るために、遠田は、笹倉の「非情さ」に――人を数字で見る、あの目に――賭けたのだ。

「一つ、穴がある」と笹倉が、紙から目を上げて言った。「この計算は、御社が十年、健全であることを前提にしている。だが、御社はいま、沈みかけている。主力の取引先を失った。この供給契約を結んでも、御社は来年、資金繰りで潰れるかもしれない。そうなれば、私たちはばねの供給源を失う。それは買収より、はるかに大きな損失です」

「その通りです」と遠田は言った。「だから、御社に前払いをお願いしたい」

「前払い」

「十年分の供給契約の、頭金として。買収額の、三分の一でいい。それを前払いしてください。それで、うちは今の危機を越えられる。取引先を失った四割の穴を、埋められる。設備も更新できる。御社は、買収額の三分の一で、十年の最高のばねを確保できる。残りの三分の二を、御社は払わずに済む。買収するより、はるかに安く、はるかに確実に、あのばねが手に入る」

笹倉は、しばらく黙っていた。

「あなたは」と、やがて笹倉が言った。「私に、買収をやめろと言っている。三か月かけた買収を、正午の五分前に、白紙にしろと」

「白紙にしろとは言っていません」と遠田は言った。「もっといい取引をしましょう、と言っている。あなたは誠実な人だ。三か月、私はそれを見てきた。誠実な人なら、いい取引と悪い取引の区別がつく。これは、あなたにとっても、いい取引だ」

長い沈黙が来た。

真昼の沈黙だった。影のない、白い、張りつめた沈黙。遠田は動かなかった。桑野も、弁護士も、動かなかった。津久見の側の四人も、動かなかった。卓の上の二部の契約書は、空白の署名欄を上に向けて、白く光っていた。窓の外では、街が音もなく灼けていた。

遠田は、胸ポケットのマッチ箱に、指先で触れた。青い箱の角。祖父が神棚の下に置いていたのと、同じ商標。火はつかないマッチ。それでも、そこにあるだけで、遠田の指は少し落ち着いた。

この提案が通るかどうかは、遠田にも分からなかった。笹倉が「面白い、だが買収でいく」と言えば、それで終わりだった。正午は過ぎていた。条件は悪くなる。遠田製作所は、もっと悪い条件で買収されるか、あるいは、誰にも買われずに、来年、静かに沈むか。遠田は、八十七人の未来を、この一枚の手書きの紙に賭けた。

それは、賭けだった。桑野の言う通り、素直にサインすれば、少なくとも二十二人は守れたかもしれない。ゼロよりは、いい。桑野の声が、まだ耳に残っていた。遠田は、その確実な二十二人を、蹴った。八十七人全部か、あるいはゼロか、という賭けに、それを換えた。

これが正しいのかどうか、遠田には分からなかった。ただ、あの真昼の彗星が、頭の隅にあった。いちばん見えにくい時刻に、それでも蒼く光っている星。会社とは、道具にしては人が入りすぎている、と祖父は言った。義理の生えた道具を、道具みたいに振り回したら、いつか自分の手も切る。遠田は、自分の手を切りたくなかった。八十七の手を、切りたくなかった。

彼は、卓の向こうの笹倉を見た。笹倉は、まだ、あの手書きの紙を見ていた。その目が、数字の上を、行きつ戻りつしていた。遠田には、笹倉が何を考えているのか、読めなかった。読めないことが、この賭けの、賭けたるゆえんだった。もし読めるなら、それは賭けではない。遠田は、自分の会社の命運を、読めない一人の男の、読めない胸のうちに、預けていた。それは、恐ろしいことだった。だが、考えてみれば、この三か月、遠田はずっと、そうしてきた。人の胸のうちを、読もうとし、読めず、それでも卓に着き続けてきた。交渉とは、そういうものだった。数字の裏には、必ず、読めない人間がいた。その読めなさこそが、数字を、生きたものにしていた。

「桑野さん」と、遠田は隣に、小さく言った。「怒っているか」

桑野は、しばらく黙っていた。それから、やはり小さく、答えた。

「いいえ」と桑野は言った。「――怖い。けど、怒ってはおりません」

「二十二人を、確実に守れたかもしれん」

「守れたかもしれません」と桑野は言った。「けど、社長。二十二人を選ぶちゅうことは、あとの六十五人を、こっちの手で切るちゅうことです。津久見が切るんやない。うちが、六十五人を、選んで、外すんです。私は、それが――ようできません。八十七人の顔を、全部知っとりますから。誰の家に、来月、飯が要るか、全部知っとりますから。選べません。だから」

桑野は、そこで言葉を切った。

「だから、社長が、全部か、ゼロか、に賭けてくれて――正直、ほっとしました」

遠田は、桑野の横顔を見た。桑野の目は、窓のほうを見ていた。白い空を。だが桑野には、あの蒼い星は見えていないだろう、と遠田は思った。見えているのは、遠田だけだった。

笹倉が、契約書を、指で、こつ、と鳴らした。

「遠田さん」と笹倉は言った。「私は、津久見の専務です。私の一存で、買収をやめて供給契約に切り替えるとは、この場で言えない。それは分かっていただけますね」

「分かります」

「本社に諮る必要がある。取締役会にかける必要がある。時間がかかる。そのあいだに、御社は沈むかもしれない」

「沈むかもしれません」と遠田は言った。「でも、あなたは、いま、この場で、一つだけ言えることがあるはずだ」

「なんです」

「今日の正午の期限を、取り下げると」と遠田は言った。「買収の条件を悪くする、というあの期限を。それを取り下げてくれれば、私は待てる。あなたの本社の返事を、待てる。そのあいだ、うちは、供給契約の前提で、動く。それだけでいい」

笹倉は、法務部長を見た。法務部長は、何も言わなかった。若い担当は、息を詰めていた。

真昼の光が、卓の上で、白く、平らだった。

笹倉が、万年筆の帽子を、外した。

遠田の心臓が、一つ、大きく打った。笹倉は、契約書のほうに、手を伸ばそうとしていた。買収契約書。あの署名欄。もし笹倉がそこに署名すれば、それは「提案を却下し、買収でいく」という意思表示だった。遠田は、動かずに、それを見ていた。動けなかった。

だが笹倉は、契約書に署名しなかった。

笹倉は、遠田が滑らせた、あの手書きの紙のほうに、万年筆を持っていった。そして、紙の余白に、何かを書いた。数字だった。それから、その下に、一言、書き添えた。笹倉は紙を、遠田のほうに、滑らせ返した。

遠田は、その紙を見た。

笹倉が書き足した数字は、遠田が提案した前払いの額を、一割、上乗せしたものだった。そしてその下に、笹倉の字で、こう書いてあった。

――「期限は取り下げる。ただし、供給の質が落ちた月があれば、その月で契約は終わる。それでよければ、本社に持ち帰る」

遠田は、その字を、二度読んだ。

「一割、上乗せしてくださった」と遠田は言った。「なぜ」

「あなたの計算が、少し辛かった」と笹倉は言った。「あなたは、御社を安く見積もりすぎている。設備の更新には、あなたが書いた額では足りない。私は、御社に十年、最高のばねを巻いてほしい。そのためには、あなたが書いた額では、足りない。一割足しても、買収するより、私たちは安い」

「なぜ、そこまで」と遠田は言った。「あなたは、買い手だ。安く買うのが、あなたの仕事のはずだ」

「そうです」と笹倉は言った。「安く買うのが、私の仕事だ。だが、安く買って、質を落とすのは、私の仕事ではない。私は、二十二人のことを、ずっと、考えていました。あなたに言われるまでもなく。甲州精工の、去った六十八人のことを。私は、あの買収を、成功だと報告しました。技術は残り、原価は下がった、と。取締役会は、私を褒めた。だが――」笹倉は、そこで、言葉を切った。「あの工場を、最後に閉めた日、私は、現場に立ち会いました。誰もいなくなった工場に。機械だけが、残っていた。人の指が触れなくなった機械は、ただの鉄でした。私は、あのとき、何か、間違えたのではないか、と思った。数字は、正しかった。だが、何か、割ってはいけないものを、割ったのではないか、と。あなたの言う、ゼロを。六十八個の、割れないゼロを」

遠田は、答えなかった。

遠田は、笹倉の顔を見た。笹倉は、また、あの穏やかな微笑を浮かべていた。だが、その微笑の質が、さっきまでとは違っていた。さっきまでの微笑は、職人の微笑だった。相手の手を読み、こちらの手を隠す、交渉の微笑だった。いまの微笑は――遠田には、うまく言えなかったが――もう少し、素の顔に近かった。

「あなたは、面白い人だ、遠田さん」と笹倉は言った。「正午の五分前に、三か月分の卓を、ひっくり返した。しかも、こちらが得をするように、ひっくり返した。私は長いこと、この仕事をしているが、こういうのは、そう何度もない」

「祖父が、しつこい男だったので」と遠田は言った。

「血ですね」

「血かもしれません」

「一つだけ、聞かせてください」と笹倉は言った。「あなたは、なぜ、買収を蹴った。条件は悪くなかった。あなたは相談役として残り、それから、じゅうぶんな金を手に、退けたはずだ。八十七人のうち、何人かは去るとしても、あなた自身は、楽になれた。なぜ、こんな、面倒な道を選んだ」

遠田は、少し考えた。

「甲州精工の、二十二人のことを、考えたんです」と遠田は言った。

「二十二人」

「残った二十二人ではなく、去った六十八人のことを」と遠田は言った。「彼らは、御社に首を切られたわけじゃない。自分で辞めた。工場が閉じ、通勤が遠くなり、上司が変わり、居場所がなくなって、自分で辞めた。誰の責任でもない。あなたの言う通りだ。でも、たぶん、その六十八人の一人ひとりに、そのとき、こう思った瞬間があったはずだ。――ここは、もう、自分の会社じゃない、と」

会議室が、静かだった。

「うちの八十七人に、それを思わせたくなかった」と遠田は言った。「ここは、もう、自分の会社じゃない――そう思った瞬間に、あの七本の指も、鈍り始める。指は、心とつながっている。自分の会社だと思える者の指と、もう自分の会社じゃないと思った者の指は、同じばねを巻いても、違うものを巻く。私はそれを知っている。祖父の指を見て育ったから」

遠田は、少し、間を置いた。

「祖父の工場に、松吉という検査員がいました」と遠田は言った。「七十を越えて、手が震えていた。数字だけ見れば、外注に出して、減らすべき人でした。若いころ、私は祖父に、そう言った。松吉を外注に出せば、原価が下がる、と。祖父は、こう言いました。松っちゃんの飯が、まるまるゼロになる。ゼロを七で割ったら、なんぼになる、と。――割れないんです、笹倉さん。ゼロは、割れない。あなたの言う、甲州精工の二十二人。あれは、九十を割った数字じゃない。六十八のゼロが、そこに、隠れている。割れないゼロが、六十八個」

笹倉の顔から、微笑が、完全に消えた。彼は、遠田を、じっと見ていた。何か、久しく忘れていたものを、思い出そうとするような目で。

笹倉は、黙って聞いていた。

「だから、私は、会社を売れなかった」と遠田は言った。「売れば、金は入る。私は楽になる。でも、八十七人の指が、その日から、少しずつ鈍り始める。それは、あなたにとっても、損だ。あなたは、最高のばねが欲しいんでしょう。最高のばねは、自分の会社だと思っている指からしか、出てこない。だから、供給契約なんです。会社を、うちのものにしておく。そのほうが、あなたも、私も、得をする」

笹倉が、万年筆の帽子を、静かに、閉めた。

その音が、真昼の会議室に、小さく響いた。かちり、と。それは、買収契約書に署名されなかった音だった。空白の署名欄は、空白のまま、白く光っていた。遠田は、その白さを見た。もう、それが埋められることはないだろう、と思った。

「本社に持ち帰ります」と笹倉は言った。立ち上がりながら。「約束はできない。取締役会が、どう出るかは、私にも分からない。だが――私は、この供給契約を、推す。専務の名にかけて、推します。それだけは、約束できる」

「じゅうぶんです」と遠田は言った。彼も立ち上がった。

二人は、卓越しに、手を伸ばした。握手だった。笹倉の手は、乾いて、温かかった。遠田の手は、まだ少し汗ばんでいた。だが、もう、それを恥じる必要はなかった。汗も、手の内も、この握手の前では、ただの人間のものだった。

「彗星が」と、笹倉が、ふと、窓のほうを見て言った。「――出ているそうですね。真昼に見えるとか。新聞で読みました。この階からなら、見えるかもしれない」

遠田は、窓の外を見た。白い空。蒼い一点。まだ、そこにあった。

「見えますよ」と遠田は言った。「あそこに。目を凝らせば」

笹倉は、窓に近づいて、しばらく、白い空を見ていた。だが、彼には見えないようだった。「私には、分からないな」と笹倉は、笑って言った。「白すぎて」

「そういうものです」と遠田は言った。

津久見の四人が、部屋を出ていったあと、会議室には、遠田製作所の三人が残った。

桑野が、ふう、と、長い息を吐いて、椅子に沈み込んだ。

「社長」と桑野は言った。「わし、寿命が縮みました」

「すまん」と遠田は言った。

「いや」と桑野は言った。「いや、ええんです。ええんです。――八十七人、守れそうですか」

「まだ、分からん」と遠田は正直に言った。「津久見の取締役会が、どう出るか。前払いが下りなければ、うちは、来年、やっぱり沈む。そのときは――そのときは、もう、買収の話も来ないだろう。もっと悪くなる」

「賭けたんですな」

「賭けた」

「勝てますか」

遠田は、答えなかった。答えられなかった。彼は、窓のほうへ、歩いていった。三十六階の窓。眼下に、真昼の街が、白く灼けて、広がっていた。ビルの群れが、陽炎の中で溶けている。音のない、光だけの街。

彼は、空を見上げた。

蒼い一点は、まだ、そこにあった。白熱した真昼の空の中に、消えずに、蒼く、長い尾を引いていた。数十年に一度、真昼にも見えるほど明るくなるという星。次にこれが見えるとき、遠田はもう、この世にいないだろう。次にこれが見えるとき、遠田製作所は、まだ、川べりにあるだろうか。八十七の指は、まだ、あのばねを巻いているだろうか。

遠田には、分からなかった。

彼は、胸ポケットから、青いマッチ箱を取り出した。

月光堂の、青い箱。祖父が神棚の下に置いていたのと、同じ商標。彼は、箱を開けてみた。中には、湿気た軸木のマッチが、几帳面に並んでいた。もう、何年も、火をつけたことがなかった。彼は、一本を取り出して、箱の側面に、擦ってみた。

火は、つかなかった。

湿った軸木が、じ、と鳴っただけで、火花も上がらなかった。彼は、それを知っていた。つかないことを、知っていて、擦った。祖父も、たぶん、こうやって、つかないマッチを擦っていたのだろう、と思った。神棚の下で。工場が沈みかけた夜に。父の代にも、きっと、沈みかけた夜があったのだろう。そのたびに、誰かが、このつかないマッチを擦っていたのだろう。火をつけるためではなく。ただ、指の中に、何かを、確かめるために。

遠田は、マッチを、箱に戻した。箱を閉じた。胸ポケットに、戻した。

窓の外の、蒼い星は、火のように、白い空の中で、燃えているように見えた。真昼の火だった。つかないマッチの代わりに、空が、一点だけ、蒼く、燃えていた。

「帰りましょう」と遠田は言った。「工場に。皆が、待っている」

桑野が、うなずいて、立ち上がった。

エレベーターの中で、遠田は、目を閉じた。

三十六階から、地上まで、耳が、微かに詰まった。桑野が、隣で、また、長い息をついた。弁護士は、鞄の中の書類を、静かに整理していた。誰も、口をきかなかった。真昼だった。まだ、正午を、少し過ぎたばかりだった。今日という日は、まだ、半分も終わっていなかった。

遠田は、目を閉じたまま、あの蒼い星のことを、考えていた。

いちばん明るい時刻に、いちばん見えにくいときに、それでも見ようとすれば見える星。あれを見たのは、遠田だけだった。笹倉には見えなかった。桑野にも見えなかった。だが、遠田には見えた。今日の未明、川べりで見て、そして、正午の会議室で、もう一度見た。同じ星を。低い夜明けの空と、高い真昼の空とで、同じ、蒼い、消えない一点を。

会社を売らなかった、と遠田は思った。指を、鈍らせなかった。八十七の手を、切らなかった。勝ったかどうかは、まだ分からない。津久見の取締役会が、どう出るか。前払いが、下りるかどうか。すべては、これからだった。だが、少なくとも、今日の正午、彼は、自分の手を、切らなかった。義理の生えた道具を、道具みたいに、振り回さなかった。

それだけは、確かだった。

エレベーターが、地上に着いた。扉が開いた。真昼の光が、一度に、なだれ込んできた。白く、熱く、影のない光が。遠田は、目を開けて、その光の中へ、一歩、踏み出した。

外に出ると、街は、灼けていた。

アスファルトが、陽炎を上げていた。人々は、影を、足の下に、短く踏んで、歩いていた。真昼だった。いちばん、影の短い時刻だった。遠田は、空を、もう一度、見上げた。

もう、彗星は、見えなかった。

ビルとビルのあいだの、細い空には、ただ、白い光があるだけだった。三十六階の窓からは見えた蒼い一点も、地上からは、白さに紛れて、消えていた。だが、遠田は、それが、まだ、そこにあることを、知っていた。見えなくても、そこにある。昼の光に紛れて、消えたように見えても、あれは、まだ、蒼く、長い尾を引いて、天を渡っている。

「社長」と桑野が言った。「昼飯、まだですな」

「ああ」と遠田は言った。「腹が減った」

「川べりの、あの蕎麦屋で」

「ああ」

二人は、駅のほうへ、歩き始めた。真昼の街を。短い影を、足の下に踏んで。遠田の胸ポケットで、青いマッチ箱が、歩くたびに、こつ、こつ、と、鳴っていた。火のつかないマッチが。それでも、そこにある、ということが、いま、遠田には、何よりも、確かだった。

見えない星を、見えると信じて、彼は、真昼の光の中を、工場へ、帰っていった。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄

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