月光書房
午の刻 ・ 真昼 ・ 第 五 話

玉子のあんかけ

南雲 秋子
家族ドラマ ・ 約34頁

一

正午の光は、噓をつかない。

台所の磨りガラス越しに射しこんでくるその光を、悦子はもう三十年見てきた。朝の光にはまだやわらかさがある。夕の光には諦めがある。けれど真昼の光だけは、影を根もとまで短く縮めて、そこに立つものの輪郭をむき出しにする。まな板の上の大根の断面も、蛇口のふちに残った水滴も、そして流しに向かって背を丸めている自分の手の甲の染みも、隠しようもなく照らし出してしまう。

その光の中で、悦子は葱を刻んでいた。とんとん、とんとん、と、ひとつひとつの音が、ふだんより大きく耳に届くように思えた。家じゅうがしんとしているせいだった。奥の座敷に敷いた座卓のまわりには、もう膳の支度があらかた整っている。煮しめ、酢の物、焼いた鰆、赤飯を炊いた大きな飯櫃。父の三回忌の、法要のあとの食事だった。

「お母さん、これ、どこに置けばいい」

娘の里佳が、盆を持って立っていた。その盆の上に、揃いの湯呑みが伏せてある。

「そこの、棚の下に。あとで出すから」

里佳は言われたとおりに盆を置いて、それから少し、迷うようにその場に立っていた。母の手もとを見ているのか、窓の外を見ているのか、悦子にはわからなかった。三十四になった娘の横顔には、いつのまにか自分の母親の面影がまじりはじめている。そのことに、悦子はときどき驚く。

「兄さんは」と里佳が言った。「もう、着いてるの」

「さっき電話があった。駅からタクシーに乗ったって」

「ふうん」

その「ふうん」に、いろいろなものが込められているのを、悦子は聞き分けないふりをした。兄妹のあいだにも、あの家のことがある。父と兄のあいだにあったものが、いつのまにか兄と妹のあいだにも薄く広がって、家全体を覆う膜のようになっている。悦子はその膜の下で、三十年、飯を炊いてきた。

葱を刻み終えて、悦子は手を止めた。窓の外の空を見た。

梅雨の晴れ間の、よく晴れた真昼だった。空は白く灼けて、雲ひとつない。あんまり白いので、いっそ青さを失ったように見える。悦子はその白い空のいちばん高いあたりに、ふと目を凝らした。

そこに、蒼い一点があった。

真昼だというのに、それは見えた。白い光のただなかに、針の先ほどの、けれどまぎれもなく蒼い、小さな一点。長い尾をひいているのだと言われても、この目にはただの点にしか見えない。けれど悦子は、それが何であるかを知っていた。この春じゅう、新聞が書き立てていた。何十年、いや何百年に一度、真昼にも見えるほど明るく地球に近づくのだという、あの彗星だった。名前は――ミラ、といった。

悦子は、その名を口の中で転がしてみた。ミラ。父が最期の年に、縁側からしきりに空を仰いでいたのを思い出した。あのころにはまだ彗星は見えなかったはずだが、父はまるで何かを待つように、痩せた首をのばして、白い空を見ていた。

「お母さん」

里佳の声で、悦子はわれに返った。

「なに」

「ううん。なんでもない。空、見てるから」

「彗星が、出てるのよ」と悦子は言った。「真昼でも見えるんだって。ほら、あの、いちばん高いところ」

里佳も窓のほうへ首をのばした。けれど、

「わからない」と言った。「わたしには、見えない」

「そう」

悦子は、もう一度その一点を見上げた。見えるものと、見えないものがある。同じ空を見上げていても。そう思いながら、まな板をゆすいだ。

玄関の引き戸が開く音がした。

「ただいま」

低い、少し掠れた声だった。悦子は前掛けで手を拭いて、廊下へ出た。三和土に、喪服のままの息子が立っていた。淳一だった。三年ぶりに見る顔だった。父の葬式のとき以来、この家の敷居をまたいでいなかった。四十一になる息子の髪には、白いものがまじりはじめている。それを見て、悦子は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。

「ご苦労さま」と悦子は言った。「暑かったでしょう」

「うん」

淳一は靴を脱いで上がった。その動作のひとつひとつが、他人の家に上がるようによそよそしかった。生まれてから十八まで住んだ家だというのに。廊下を歩く足の運びにも、どこか遠慮があった。

座敷の入り口で、淳一は妹と目を合わせた。

「よう」

「久しぶり」と里佳が言った。「元気そうじゃない」

「まあな。そっちも」

それだけだった。兄妹は、それ以上のことを何も言わなかった。淳一は座卓のいちばん端に腰をおろした。仏壇のほうに向かって、ちいさく手を合わせた。父の遺影がそこにある。生前とおなじ、むっつりとした、こちらを値踏みするような表情で。

悦子は台所へ戻って、あたたかい茶を淹れた。湯呑みを盆にのせて運んでいくと、座敷では里佳が線香をあげているところだった。淳一はその後ろ姿を見ていた。何を考えているのか、その横顔からは読めなかった。子どものころは、あんなに表情が豊かな子だったのに。泣いたり、怒ったり、笑ったり、感情のひとつひとつが顔じゅうにあらわれる子だったのに。いつから、こんなに何も見せない顔をするようになったのだろう。

――たぶん、あの人のせいだ。

そう思って、悦子はすぐにその考えを打ち消した。死んだ人間のせいにするのは、たやすい。けれど、それでは何も片づかない。

「お茶、どうぞ」

湯呑みを置くと、淳一は「ありがとう」と言った。他人行儀な、けれど礼儀正しい声で。

膳が整い、三人は座卓を囲んだ。

住職はもう帰った。親戚も、法要のあとの精進落としには少しだけ顔を出して、めいめい所用があると言って、早々に引きあげていった。あとには、母と、息子と、娘の、三人だけが残った。父が生きていたころには、この家にはいつも人の出入りがあった。父は顔の広い人で、商売がらもあって、客が絶えなかった。その父が死んで、家はしんと静まりかえっている。

「じゃあ……いただこうか」と悦子が言った。

三人は箸を取った。しばらくのあいだ、箸が皿にあたる音と、ものを噛む音だけが座敷に満ちた。真昼の光が、南向きの窓から座卓の上いっぱいに射しこんでいた。煮しめの照りも、酢の物のきらめきも、赤飯の一粒一粒も、その光の中で妙にくっきりと見えた。影がほとんどない。皿の縁にできる影さえ、根もとに縮こまっている。

「……うまいよ、これ」と淳一が言った。煮しめの里芋を口に運びながら。

「そう。よかった」

「昔と、おなじ味だ」

「そう?」悦子はすこし笑った。「歳をとって、味が濃くなったって、里佳には言われるのよ」

「そんなことないでしょ」と里佳が言った。「ちょうどいいわよ」

会話は、そこで途切れた。三人は、また黙って箸を動かした。

この沈黙を、悦子はよく知っていた。この家の沈黙だった。何かを言おうとして、言えずに飲みこむ。そのたびに、沈黙が少しずつ厚くなっていく。父が生きていたころ、この家の食卓はいつもこんなふうだった。父は無口な人で、めったに口をきかなかった。けれど、その無口が、家じゅうを支配していた。父が黙っていると、みんなが黙った。父の機嫌をうかがいながら、みんなが息をつめて飯を食った。

淳一は、その父にいちばん似ていた。そして、いちばん父とぶつかった。

事の起こりを、悦子は今でもはっきりと覚えている。

淳一が十八のときだった。淳一は、家業を継ぎたくないと言った。この家は、代々つづいた表具屋だった。掛け軸や襖を仕立て、屛風を張り替え、古い書画を裏打ちする。父はその仕事に誇りを持っていた。淳一を、当然のように跡取りとして育てた。淳一もまた、幼いころから父の仕事場に出入りして、糊の炊きかたや、刷毛の使いかたを、遊びのように覚えていた。父はそれを見て、目を細めていた。この子はいい職人になる、と。

けれど、淳一は絵を描きたいと言った。美術の大学へ行きたいと。表具屋の下働きではなく、自分の絵を描いて生きていきたいと。

父は、ゆるさなかった。

そのときの父の顔を、悦子は忘れられない。怒りではなかった。もっと冷たい、もっと深いものだった。裏切られた、という顔だった。父にとって、淳一が家業を継がないということは、この家そのものを否定されることに等しかった。代々つづいた仕事を、自分の生きてきた道を、まるごと否定されるということだった。

「出ていけ」と父は言った。「絵を描いて食っていけるものなら、やってみろ。この家の敷居は、二度とまたぐな」

淳一は、出ていった。振り返りもせずに。

「兄さん、絵、まだ描いてるの」

里佳がふいに、そう訊いた。酢の物の小鉢に箸をのばしながら。

悦子は、はっとした。それは、この家で触れてはならない話だった。二十年以上、誰も口にしなかった話だった。

淳一の箸が、一瞬止まった。

「……いや」と淳一は言った。「もう、描いてない」

「そうなんだ」

「途中で、やめた」

「……そう」

里佳は、それ以上訊かなかった。悦子も、何も言わなかった。けれど、その「やめた」という言葉が、座敷の空気の中にぽつんと落ちて、波紋のように広がっていくのを、悦子は感じた。

淳一は、絵で食べていけなかった。悦子は知っていた。人づてに、断片的に聞いていた。何年か、貧しい暮らしをして、それでも絵を描きつづけて、けれど芽が出ずに、やがて絵をやめた。今は、印刷会社に勤めている。デザインの部門だと聞いた。妻がいて、子はいない。それだけが、悦子の知っている息子の人生の輪郭だった。二十年余りの歳月が、そのくらいの言葉に縮められて、悦子のもとに届いていた。

淳一が、家を出てから、父は一度も息子の名を口にしなかった。まるで、そんな息子は初めからいなかったかのように。父はますます無口になり、ますます頑固になった。表具の仕事に打ちこんで、そのほかのことにはいっさい関心を示さなくなった。悦子は、そのあいだをとりもとうとした。何度も、淳一に手紙を書いた。帰ってきなさい、と。お父さんも、本当はそう思っているのだから、と。けれど、その手紙に返事が来ることはなかった。

一度だけ、淳一から返事が来たことがあった。それは、悦子が書いた手紙への返事ではなかった。父が入院した、という知らせに対しての返事だった。淳一は、短い手紙をよこした。「見舞いには行かない」と書いてあった。ただ、それだけだった。

父は、その入院から、二度と家に帰ってこなかった。

「ごちそうさま、じゃなくて」と里佳が、湯呑みを両手で包みながら言った。「まだ、あるんだけどね」

誰も、笑わなかった。

真昼の光が、座卓の上をゆっくりと移動していた。さっきまで赤飯の飯櫃を照らしていた光が、いまは淳一の手もとを照らしている。その光の中で、淳一の手の甲の血管が、くっきりと浮き出て見えた。父の手に、よく似ていた。表具の仕事で節くれだった、あの父の手に。

悦子は、その手を見ていた。

「淳一」と、悦子は言った。

「なに」

「お父さんね」

言いかけて、悦子は言葉に詰まった。何を言おうとしているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、この機会を逃したら、もう二度と言えないような気がした。三回忌。三人が揃った、この真昼の食卓。次にこうして三人が揃うのが、いつになるのか。あるいは、二度と揃わないかもしれない。そう思うと、胸の奥から、なにか熱いものがせり上がってきた。

「お父さんね、最期に」

「やめてくれ」

淳一が、さえぎった。低い、けれどはっきりとした声だった。

「その話は、しないでくれ」

「淳一」

「聞きたくない。あの人が、最期に何を言ったかなんて。今さら、聞かされたって、どうしようもない」

淳一の声には、抑えつけられた激しさがあった。二十年以上、その激しさを、どこか奥のほうに閉じこめてきたのだろう。それが、いま、少しずつ滲み出てきていた。

「兄さん」と里佳が言った。「そんな言いかた」

「里佳は黙っててくれ」

「黙ってられないわよ。だって、お母さんは」

「里佳」

悦子が、娘の名を呼んだ。里佳は、口をつぐんだ。

座敷に、また沈黙が落ちた。けれど、それは、さっきまでの沈黙とはちがっていた。張りつめた、いまにも切れそうな沈黙だった。真昼の熱が、いつのまにか座敷にこもっていた。窓を閉めきっているせいだった。汗が、悦子の背をつたって落ちた。

二

「言いたいことが、あるんだろう」と、淳一がふいに言った。

畳の一点を見つめたまま。

「ずっと、俺に言いたいことが、あったんだろう。お母さんも、里佳も。俺が、親父の見舞いにも来なかったこと。葬式のときも、ろくに口をきかずに帰ったこと。親不孝だと。冷たいやつだと。そう思ってるんだろう」

「そんなこと」と悦子は言いかけた。

「思ってないなんて、言わないでくれ」淳一の声が、少し高くなった。「里佳、お前は思ってるだろう。ずっと。俺が家を出てから、この家のことは、全部お前が背負ってきたんだからな。親父の面倒も、お母さんのことも。俺は逃げた。お前は、逃げなかった。そのちがいを、お前が恨まないわけがない」

里佳の顔が、こわばった。

「……そうよ」と、里佳は言った。

低い声だった。けれど、それは二十年ぶりに堰を切ったような声だった。

「そうよ、恨んでたわよ。ずっと。兄さんは、自分の好きなことのために家を出て、絵を描くって、勝手にいなくなって。それで、お父さんが倒れたときも、来なかった。わたしは、仕事も辞めて、お父さんの介護をしたのよ。おむつも替えたのよ。夜中に何度も起こされて。お父さんは、ぼけてからは、わたしのことを『淳一』って呼ぶこともあったのよ。知ってた? お父さんは、最期まで、兄さんのことを――」

里佳の声が、詰まった。

「――呼んでたのよ。ぼけて、わけがわからなくなってからも。『淳一はどこだ』『淳一を呼んでこい』って。わたしじゃ、だめだったのよ。どんなに尽くしても。わたしは、兄さんの代わりにはなれなかったのよ」

真昼の光の中で、里佳の頰を、涙がひとすじ流れた。その涙が、光を受けて、きらりと光った。

淳一は、何も言わなかった。ただ、畳の一点を見つめていた。

「わたしはね」と里佳はつづけた。「ずっと、兄さんが憎かったの。だって、家を出た兄さんは、自由だったんだもの。好きなことをして、失敗しても、それは自分で選んだことだったんだもの。わたしは、何も選べなかった。この家に縛られて。お父さんに縛られて。気がついたら、三十過ぎて、結婚もしないで、この家に残ってた。兄さんが、うらやましかった。憎いくらい、うらやましかった」

「里佳」と悦子は言った。声が震えていた。「あなた、そんなふうに」

「言わせて、お母さん」里佳は、涙をぬぐいながら言った。「一度、言わせて。ずっと、言えなかったんだから」

淳一は、長いあいだ黙っていた。

真昼の光が、座卓の上を、ゆっくりと移ろっていく。その移ろいだけが、時の流れをしめしていた。座敷は暑かった。三人とも、汗をかいていた。けれど、誰も窓を開けようとはしなかった。窓を開けたら、この張りつめたものが、いっぺんに散ってしまうような気がした。散ってしまえば、また元の沈黙に戻ってしまう。二十年つづいた、あの沈黙に。

「うらやましかった、か」と、淳一がぽつりと言った。

「そうよ」

「そうか」

淳一は、湯呑みを手にとった。けれど、飲まなかった。ただ、それを両手で包んで、じっと見つめていた。

「里佳。お前は、俺が自由だったと思ってるんだな」

「ちがうの?」

「ちがうよ」と淳一は言った。「俺は、一度も、自由だったことなんかない」

淳一は、湯呑みを座卓に戻した。かちり、と、小さな音がした。

「家を出て、絵を描いた。好きなことをした。そう思ってるんだろう。でも、俺は、絵を描いてるあいだじゅう、親父のことを考えてた。ずっとだ。一枚描くたびに、思ったよ。これを、親父が見たら、何て言うだろうって。『そんなものは、絵じゃない』って言うだろうって。俺は、親父に認めさせたかった。ただ、それだけのために、絵を描いてたんだ。二十年、ずっと」

悦子は、息子の顔を見た。淳一は、遺影のほうを見ていた。父の、むっつりとした顔を。

「認めさせたくて、認めさせたくて。でも、親父は、一度も、俺の絵を見にこなかった。個展をやったこともあるんだ。小さな画廊で。案内状を、この家に送った。お母さん、覚えてるか」

「……ええ」と悦子は言った。「覚えてる」

送られてきた案内状を、父がどうしたか。悦子は、それをはっきりと覚えていた。父は、その案内状を、封も切らずに、火鉢の中にくべた。悦子が見ている前で。何も言わずに。案内状は、火の中で、ちりちりと縮んで、灰になった。悦子は、それを止められなかった。

「親父は、来なかった」と淳一は言った。「案内状に、返事もよこさなかった。俺は、あの個展で、いちばんいい絵を、いちばん奥に飾ってたんだ。親父が来たら、それを見せるつもりで。でも、親父は来なかった。誰も、いい絵だなんて言わなかった。一枚も売れなかった。俺は、その絵を、家に持って帰って――」

淳一の声が、そこで途切れた。

「捨てたよ」と、淳一は言った。「河原で、燃やした」

悦子は、目を閉じた。

親子は、似ている。案内状を燃やした父と、絵を燃やした息子。どちらも、火を使った。どちらも、いちばん大事なものを、火にくべた。そうすることでしか、自分を守れなかったのだ。悦子には、それがわかった。似た者どうしだった。似すぎていたのだ。だから、ぶつかった。だから、許せなかった。

「絵を、やめたのはね」と淳一はつづけた。「才能がなかったからじゃない。いや、才能もなかったんだろう。でも、それより、疲れたんだ。親父に認めさせるために描く、っていうことに。俺は、自分のために描いてなかった。ずっと、親父のために描いてた。憎い、憎いと思いながら、その憎い相手に認めてもらうために描いてた。そんなの、おかしいだろう。おかしいと、あるとき気がついたんだ。それで、やめた。筆を折った」

「淳一」

「絵をやめたら、楽になると思った。でも、楽にはならなかった。今度は、絵を描かない自分のことを、親父がどう思うだろうって、考えるようになった。『それみたことか』って言うだろうって。『だから言っただろう』って。俺は、親父の亡霊に、ずっと見張られてるみたいだった。家を出ても、絵をやめても、親父から逃げられなかった。一度も、自由になんか、なれなかったんだよ」

淳一は、はじめて、母のほうを見た。その目が、赤かった。

「だから、見舞いに行かなかった。行けなかったんだ。あの人の顔を見たら、俺は、何を言われるかわからなかった。あるいは、何も言われないかもしれない。ただ、あの目で、値踏みするみたいに、俺を見るかもしれない。それが、怖かった。俺は、四十過ぎて、まだ、親父が怖かったんだ。情けないだろう」

真昼の光が、いつのまにか、淳一の顔を照らしていた。

その光の中で、悦子は、息子の顔をまじまじと見た。四十一の、白髪のまじりはじめた息子。その顔に、十八のときの淳一が重なった。あの日、「出ていけ」と言われて、振り返りもせずに家を出ていった、あの少年の顔が。あの少年は、二十年余り、ずっと、この家の敷居の外に立っていたのだ。中に入れずに。かといって、離れることもできずに。

「わたしはね」と悦子は言った。「あなたたち二人の、あいだにいたのよ。ずっと」

淳一と里佳が、母のほうを見た。

「お父さんと、あなたのあいだ。淳一と、里佳のあいだ。わたしは、いつも、そのあいだにいた。どっちの言い分も聞いて、どっちの顔もうかがって。とりもとうとして、でも、とりもてなくて。わたしは、無力だった。ただ、飯を炊くことしか、できなかった」

悦子の声も、震えていた。

「あなたが家を出た日ね、淳一。わたしは、あなたの部屋の抽斗を、そっと開けたのよ。あなたが、何か忘れていってないか、と思って。そうしたら、抽斗の奥に、手袋が片方だけ、入ってたの」

淳一の眉が、かすかに動いた。

「手袋?」

「毛糸の、子ども用の手袋。片方だけ。あなたが小さいころ、わたしが編んだものよ。覚えてない? 冬に、片方なくして、あなた、泣いたのよ。もう片方だけでも、って、大事にとっておいたのね。それが、抽斗の奥に、二十年近く、しまわれてた。あなたは、家を出るとき、それを持っていかなかった。忘れたのか、わざと置いていったのか。わたしには、わからない。でも、わたしは、その手袋を、今でも持ってる。捨てられなくて」

悦子は、立ち上がった。仏壇の脇の、小さな簞笥のところへ行った。その抽斗を開けて、何かを取り出した。手のひらにのるほどの、小さなもの。それを持って、座卓に戻ってきた。

赤い毛糸の、子ども用の手袋だった。片方だけ。色は褪せ、毛羽立って、ところどころほつれていた。けれど、たしかに、それは手袋だった。悦子は、それを座卓の上に、そっと置いた。真昼の光が、その褪せた赤を照らした。

淳一は、その手袋を見つめた。長いあいだ。

「……覚えてるよ」と、淳一は言った。かすれた声で。「これ。俺、これ、なくしたとき、親父に叱られたんだ。物を大事にしないやつは、何をやってもだめだって。だから、もう片方だけでも、大事にしなきゃって思って。抽斗に、しまってた」

「そうだったの」と悦子は言った。「知らなかった。お父さんに叱られたなんて」

「小さいことだよ。もう、忘れてた。今の今まで」

しばらく、誰も何も言わなかった。

座卓の上には、片方だけの手袋が置かれていた。三人は、それぞれの思いの中で、その手袋を見ていた。真昼の光は、あいかわらず座敷に射しこんで、影を根もとまで縮めていた。窓の外の白い空に、あの蒼い一点が、まだあるのだろうか。悦子は、ふと、そう思った。けれど、座卓からは、空は見えなかった。

「お母さん」と里佳が言った。「お父さんが最期に言ったこと。さっき、言いかけたでしょ。あれ、なんだったの」

悦子は、娘のほうを見た。それから、息子のほうを見た。淳一は、また、畳の一点を見つめていた。聞きたくない、という顔で。けれど、その耳は、明らかに、母の言葉を待っていた。

「言っても、いい?」と悦子は、淳一に訊いた。「淳一。聞きたくないなら、言わない」

淳一は、答えなかった。

長い、長い沈黙があった。真昼の熱が、座敷にこもっていた。汗が、三人の背をつたって落ちた。柱時計の振り子の音だけが、かちり、かちり、と、時を刻んでいた。

「……言ってくれ」と、ついに淳一が言った。

うつむいたまま。

「聞くよ。聞かなきゃ、いけないんだろう。今日、聞くために、俺は、来たのかもしれない」

三

悦子は、目を閉じて、その日のことを思い返した。

父が息を引き取ったのは、去年の初夏だった。ちょうど、今ごろの季節。梅雨の晴れ間の、よく晴れた日だった。病院の窓から、真昼の光が射しこんでいた。父は、もう長いあいだ、ほとんど口をきかなくなっていた。ぼけが進んで、悦子のことも、里佳のことも、わからなくなっていた。ただ、ときどき、うわごとのように、「淳一」と呼ぶことがあった。里佳の言ったとおりに。

その日も、真昼だった。悦子が、父の枕もとについていた。里佳は、少し前に、着替えを取りに家に帰っていた。病室には、悦子と父の、二人きりだった。

父は、目を開けていた。天井を見ていた。けれど、その目は、何も見ていないようでもあった。悦子は、父の手を握っていた。節くれだった、痩せた手を。

「お父さん」と悦子は呼んだ。「わかる? 悦子よ」

父は、答えなかった。ただ、天井を見ていた。

そのとき、父の唇が、かすかに動いた。悦子は、耳を近づけた。父が、何か言おうとしていた。

「……じゅん、いち」

父は、そう言った。かすれた、けれど、はっきりとした声で。

悦子は、はっとして、父の顔を見た。父の目は、あいかわらず天井を見ていた。けれど、その目に、涙が滲んでいた。ぼけて、何もわからなくなったはずの父の目に。

「淳一が、どうしたの」と悦子は訊いた。「淳一に、何か、言いたいの」

父の唇が、また動いた。悦子は、もう一度、耳を近づけた。

「お父さんはね」と悦子は言った。座卓の前で。二人の子の顔を、かわるがわる見ながら。「こう言ったの」

淳一の肩が、こわばった。里佳が、息をのんだ。

「『あの子の、絵が、見たい』って」

座敷が、しんとなった。

「『あの子の絵が、見たい』って。お父さんは、そう言ったのよ。淳一。二十年余り、一度も、あなたの名前を口にしなかったお父さんが。あなたの案内状を、封も切らずに燃やしたお父さんが。最期に、そう言ったの。『あの子の絵が、見たい』って」

淳一は、動かなかった。石になったように、動かなかった。

「わたしはね」と悦子はつづけた。声が、涙で滲んでいた。「そのとき、思ったのよ。ああ、この人は、ずっと、見たかったんだって。あなたの絵を。ずっと、見たかったのに、見られなかったんだって。意地を張って。あなたと、おなじように、意地を張って。似た者どうしで。だから、見にいけなかった。案内状も、燃やすしかなかった。見たら、負けだと思ってたのかもしれない。あなたを認めることが、自分の生きてきた道を、否定することになると思ってたのかもしれない。でも、本当は、見たかったのよ。ずっと」

淳一の目から、涙が、ひとすじ、落ちた。真昼の光の中で。

「俺は」と淳一は言った。声が、震えていた。「俺は、その絵を、燃やしたんだ。河原で。親父が、見たがってた絵を。俺が、いちばんいいと思ってた絵を。もう、ないんだ。この世に、一枚も。俺の絵は、一枚も」

「淳一」

「見せてやれなかった。親父に。親父が、見たがってたのに。俺は、それを、燃やしちまった」

淳一は、両手で顔を覆った。四十一の男が、子どものように、肩を震わせて泣いた。悦子は、その姿を、じっと見ていた。二十年余り、この子は、こうして泣くことを、自分に禁じてきたのだろう。父を憎み、父を怖れ、父から逃げ、そのくせ、父に認められたくて。その苦しみを、誰にも見せずに。ひとりで。

里佳も、泣いていた。声をあげずに。ただ、涙を流しながら。

「わたし」と里佳が言った。「わたし、知らなかった。お父さんが、そんなこと言ってたなんて。お母さん、なんで、教えてくれなかったの」

「言えなかったのよ」と悦子は言った。「あなたに言ったら、あなたが、どんなに傷つくか。あんなに尽くしたあなたが。お父さんは、最期まで、あなたのことじゃなくて、淳一のことを想ってた。それを、あなたに言うのは、あんまり、むごいと思ったの」

「そんな」と里佳は言った。「そんなこと。わたしは」

里佳は、言葉に詰まった。それから、涙をぬぐって、こう言った。

「わたしは、いいのよ。お父さんが、兄さんのことを想ってても。だって、わたしは、ずっと、そばにいたんだもの。お父さんの、いちばん近くに。おむつを替えて、ご飯を食べさせて、手を握って。淳一って呼ばれても、それでもよかったのよ。だって、そのときのお父さんは、たしかに、わたしの手を握り返してくれたんだもの。淳一だと思って、握ってたのかもしれない。でも、その手のあたたかさは、わたしのものだったんだから」

悦子は、娘の顔を見た。三十四になった娘の顔を。その顔に、涙が光っていた。真昼の光の中で。

「里佳」と淳一が言った。顔を覆っていた手を、離して。「すまなかった」

「……なにが」

「全部だ。全部、お前に、押しつけた。俺が、逃げたから。お前が、逃げられなかった。お前が、この家を、背負った。俺が、逃げたぶんまで。すまなかった」

里佳は、兄の顔を見た。二十年余り、恨みつづけてきた兄の顔を。その顔が、涙で、ぐしゃぐしゃになっていた。

「……もう、いい」と里佳は言った。「もう、いいのよ、兄さん」

真昼の光が、座卓の上を、ゆっくりと移ろっていた。

三人は、それぞれの涙をぬぐって、また、箸を取った。膳のものは、まだ半分以上、残っていた。冷めてしまった煮しめを、冷めてしまった赤飯を、三人は、黙って食べた。けれど、その沈黙は、もう、さっきまでの沈黙とはちがっていた。張りつめたものは、消えていた。かわりに、なにか、あたたかいものが、座敷に満ちていた。

「これね」と悦子が、片方だけの手袋を手にとって言った。「あなたが、小さいころ。冬になると、いつも、この手袋をして、外へ遊びに行ったのよ。淳一も、里佳も。二人で。おなじ手袋を、色ちがいで編んで。淳一のは、赤で、里佳のは、青で」

「覚えてる」と里佳が言った。「青いの。わたし、あれ、好きだったな」

「あなたたち、仲がよかったのよ。小さいころは。淳一が、里佳の手をひいて、雪の中を歩いて。里佳は、兄さんの後ろを、ちょこちょこついて歩いて。転ぶと、淳一が、起こしてやって」

淳一が、かすかに笑った。二十年ぶりに見る、息子の笑顔だった。

「そんなこともあったな」

「あったのよ」と悦子は言った。「たくさん。忘れちゃっただけで」

悦子は、その片方だけの手袋を、両手で包んだ。褪せた赤い毛糸を。二十年近く、抽斗の奥にしまわれていた、それを。

「わたしね」と悦子は言った。「あなたが、家を出てから、ときどき、この手袋を出して、見てたのよ。そうすると、あなたが、小さかったころを、思い出せたから。あんなに、かわいかったのに。あんなに、素直な子だったのに。いつから、こんなに、遠くなっちゃったんだろうって。でも、この手袋を見てると、思えたのよ。遠くなっても、あの子は、あの子だって。片方だけになっても、手袋は、手袋だって」

淳一が、その手袋に、手をのばした。

母の手のひらから、そっと、それを受けとった。褪せた赤い毛糸の、片方だけの手袋を。淳一は、それを、じっと見つめた。それから、自分の手に、はめようとした。けれど、それは、子ども用の手袋だった。四十一の男の手には、入るはずもなかった。指が、二本しか入らなかった。

淳一は、それを見て、また、笑った。今度は、泣きながら、笑った。

「小さいな」と淳一は言った。「こんなに、小さかったのか。俺の手は」

「小さかったのよ」と悦子は言った。「みんな、小さかったの。あなたも、里佳も。この手袋に、すっぽり入るくらい、小さかった」

淳一は、その手袋を、そっと、座卓の上に戻した。褪せた赤い毛糸を。真昼の光が、それを照らしていた。影が、ほとんどなかった。真昼だから。いちばん、影の短い時刻だから。

「お母さん」と淳一は言った。「もう片方は、どこにあるんだろうな。この、赤いやつの、もう片方は」

「さあ」と悦子は言った。「どこかで、なくしたのよ。あなたが、小さいころに。もう、二度と、見つからない」

「そうか」

「片方だけでも、いいのよ」と悦子は言った。「片方だけでも、あれば。それで、思い出せるんだから」

四

食事が終わるころ、悦子は、あることを思い出した。

「そうだ。淳一。あなたに、渡したいものが、あるの」

悦子は、また立ち上がって、仏壇の脇の簞笥のところへ行った。今度は、いちばん下の抽斗を開けた。そこから、平たい、桐の箱を取り出した。両手で抱えるほどの大きさの、桐の箱を。それを持って、座卓に戻ってきた。

「これね」と悦子は言った。「お父さんの、遺品を整理してたときに、仕事場の奥から、出てきたの。誰も知らない場所に、隠すみたいに、しまってあった」

悦子は、その桐の箱を、座卓の上に置いた。ふたを開けた。

中には、一枚の、掛け軸が入っていた。

「これは」と淳一が言った。

悦子は、その掛け軸を取り出して、座卓の上に、そっと広げた。表具は、見事なものだった。父の仕事だった。淡い水色の裂地に、金の界線。父が、いちばん腕をふるったときの、仕立てだった。そして、その表具の中に、一枚の絵が、収められていた。

墨で描かれた、一枚の絵だった。冬の、雪景色。雪の中を、二人の子どもが、手をつないで歩いている。一人は大きく、一人は小さい。大きいほうの子が、小さいほうの子の手をひいている。二人とも、手袋をはめている。稚拙な、けれど、のびのびとした線で描かれた絵だった。

「これ」と淳一は言った。声が、震えていた。「これ、俺が」

「あなたが、小学生のころに、描いた絵よ」と悦子は言った。「覚えてない? 図画の時間に描いて、賞をもらったの。お父さん、それを、こっそり、もらってきて、しまってあったのね。仕事場の、奥に。誰にも見せずに」

淳一は、その絵を、じっと見つめた。自分が、子どものころに描いた絵を。父が、こっそりと、表具に仕立てて、隠すようにしまっておいた絵を。

「お父さんは」と悦子はつづけた。「あなたの絵を、燃やしたんじゃなかったのよ。案内状は、燃やした。でも、この絵は、燃やさなかった。それどころか、自分の、いちばんいい表具に仕立てて、大事に、しまってた。あなたが、絵描きになりたいって言ったときも、本当は、わかってたのかもしれない。この子には、絵の才能があるって。だから、こんなに、大事にしてたんだから」

淳一は、その絵を見つめたまま、動かなかった。

真昼の光が、その掛け軸を照らしていた。淡い水色の裂地が、光を受けて、やわらかく輝いていた。墨で描かれた、二人の子どもが、雪の中を、手をつないで歩いていた。

「俺は」と淳一は言った。「俺は、親父が、俺の絵を、認めてくれないと思ってた。ずっと。一度も、認めてくれないと。だから、認めさせたくて、絵を描いて。認められなくて、絵をやめて。憎んで。怖れて。逃げて。でも、親父は」

淳一の言葉が、途切れた。

「親父は、いちばん最初に、俺の絵を、認めてたんだ。俺が、まだ、小学生のころに。この絵を、こんなに、大事に。それを、俺は、知らなかった。知らずに、二十年。憎みつづけて」

淳一は、その絵に、そっと、手をのばした。けれど、触れなかった。触れることが、できなかった。ただ、その、雪の中の、二人の子どもを、見つめていた。

「兄さん」と里佳が言った。「その絵の、二人。兄さんと、わたしよね」

「ああ」と淳一は言った。「たぶん、そうだ。俺と、お前だ」

「手袋、してるね」

「してるな」

「片方の子は、赤い手袋。もう片方の子は、青い手袋」

墨の絵だったから、色はなかった。けれど、二人には、わかった。大きいほうの子の手袋が、赤で、小さいほうの子の手袋が、青だと。おなじ手袋を、色ちがいで編んで。母が。二人の子のために。

悦子は、その絵を見ながら、子守唄を思い出していた。

二人が、まだ、赤ん坊だったころ。悦子は、毎晩、その子守唄を歌って、二人を寝かしつけた。淳一を、そして、里佳を。おなじ唄で。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

そんな、歌い出しの唄だった。どこで覚えた唄だったか、悦子自身も、もう覚えていない。悦子の母が、悦子に歌ってくれた唄だったかもしれない。あるいは、もっと昔から、この土地に伝わっていた唄だったかもしれない。ただ、悦子は、その唄を、二人の子に歌った。毎晩。星が海をわたるまで、と。

「あなたたちがね」と悦子は言った。「小さいころ、わたし、毎晩、子守唄を歌ったのよ。覚えてる? 眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、って」

淳一が、顔をあげた。

「……覚えてる」と、淳一は言った。「その唄。俺、その唄、聞くと、眠くなったんだ。すぐに」

「そうよ」と悦子は笑った。「あなたは、すぐ寝る子だった。里佳は、なかなか寝ない子で。だから、里佳のほうを、長く歌ったのよ。淳一が、先に寝ちゃってからも」

「ずるい」と里佳が言った。半分、笑いながら。「わたし、そんなに、寝なかった?」

「寝なかったのよ」と悦子は言った。「あなたは、いつも、最後の一節まで、聞きたがった。星が海をわたるまで、って。その、海をわたる星って、どんな星なの、って、いつも、訊いてた」

「訊いてたの? わたし」

「訊いてた。海をわたる星って、どんな星なの、って。わたしは、答えられなかった。わたしも、知らなかったから。ただ、そういう星があるのよ、って、言うだけで」

そのとき、悦子は、ふと、窓のほうを見た。

南向きの窓。そこから、真昼の光が、座敷いっぱいに射しこんでいる。悦子は、立ち上がって、窓のところへ行った。そして、窓を開けた。

とたんに、外の熱気が、どっと座敷に流れこんできた。蟬の声が、いっせいに耳に届いた。真昼の、灼けるような光が。けれど、悦子は、その光の中に、空を見た。白く灼けた、真昼の空を。

「淳一。里佳」と悦子は言った。「あそこに。彗星が、出てるのよ」

二人も、立ち上がって、窓のところへ来た。三人は、並んで、白い空を見上げた。

「どこ?」と里佳が言った。「見えない」

「あそこ」と悦子は言った。「いちばん、高いところ。目を、凝らして」

三人は、目を凝らした。白い、白い空の、いちばん高いあたり。そこに、針の先ほどの、蒼い一点があった。真昼だというのに、見える、稀なる星。長い尾をひいた、彗星。ミラ。

「……見えた」と、淳一が言った。「あれか。蒼い、点」

「見えた?」と悦子は言った。

「見えた。かすかに。でも、たしかに」

「わたしにも、見えた」と里佳が言った。「ほんとに。小さいけど。蒼い、点」

三人は、しばらく、その蒼い一点を、見上げていた。真昼の、白い空に、ひとつだけ、蒼く光る、星を。

「あれがね」と悦子は言った。「たぶん、海をわたる星なのよ」

「え?」

「子守唄の。星が海をわたるまで、って。あの、海をわたる星。あれが、そうなのかもしれない。何百年に一度、真昼の空を、わたっていく星。あんまり、ゆっくり、わたっていくから、人の一生のあいだには、一度きり。だから、あれを見た子どもは、大人になって、また、次の子どもに、子守唄を歌うのよ。星が海をわたるまで、って」

三人は、その蒼い星を、見上げていた。

真昼の光が、三人を照らしていた。影が、根もとまで、短く縮んでいた。母と、息子と、娘の、三つの影が、それぞれの足もとに、短く縮こまっていた。三人は、汗をかきながら、蟬の声の中で、その星を見上げていた。

「親父も」と淳一が、ぽつりと言った。「これを、見たのかな」

「見たかもしれない」と悦子は言った。「お父さんね、最期の年に、縁側から、しきりに、空を見てたのよ。何かを、待つみたいに。あのときは、まだ、彗星は、見えなかったはずだけど。でも、お父さんは、知ってたのかもしれない。もうすぐ、あの星が、来るって。自分は、それを、見られないかもしれないって」

「見られなかったな」と淳一は言った。「親父は。去年の夏に、逝ったから」

「見られなかったのよ」と悦子は言った。「でも、あなたたちが、見てる。お父さんの、子どもたちが。それで、いいのよ。星は、次の代に、わたっていくんだから」

淳一は、その蒼い星を、見上げていた。長いあいだ。それから、こう言った。

「俺、また、絵を、描こうかな」

悦子は、息子の顔を見た。里佳も。

「あの絵を」と淳一はつづけた。「もう一度。あの、燃やした絵を。もう、おなじものは、描けないだろうけど。でも、また、描いてみようかな。今度は、親父のためじゃなくて。自分のために。いや、ちがうな。この、雪の中の、二人のために。俺と、里佳の、ために」

「描いて」と里佳が言った。「兄さん。描いてよ。わたし、見にいくから。今度は、ちゃんと、見にいくから」

「ああ」と淳一は言った。「見にきてくれ」

悦子は、窓を閉めなかった。

真昼の熱気と、蟬の声を、座敷に招き入れたまま、三人は、また、座卓のまわりに座った。冷めた茶を、淹れなおして。片方だけの手袋と、桐の箱から出した掛け軸を、座卓の上に置いたまま。

「淳一」と悦子は言った。「あなた、いつ、帰るの。もう、帰るの?」

「いや」と淳一は言った。「今日は、泊まっていくよ。久しぶりに。かまわないか」

「かまわないわよ」と悦子は言った。声が、少し、震えていた。「あなたの部屋、そのままだから。抽斗も、そのままよ。あなたが、置いていったもの、みんな、そのまま」

「そうか」と淳一は言った。「じゃあ、あとで、見てみるよ。俺が、何を、置いていったのか」

「見てらっしゃい」と悦子は言った。「たくさん、あるわよ。あなたが、忘れていったものが」

淳一は、うなずいた。それから、片方だけの手袋を、もう一度、手にとった。褪せた赤い毛糸を。そして、それを、掛け軸の隣に、そっと置いた。雪の中の、二人の子どもの、絵の隣に。まるで、絵の中の子どもが、はめている手袋を、絵の外に、そっと、置くように。

真昼の光が、その二つを、照らしていた。片方だけの手袋と、二人の子どもの絵を。影は、ほとんど、なかった。真昼だから。いちばん、影の短い時刻だから。

その日の午後、淳一は、二階の、自分だった部屋に上がっていった。

長いあいだ、降りてこなかった。悦子と里佳は、階下で、片づけをしながら、ときどき、天井を見上げた。二階から、物音がした。抽斗を開ける音。何かを、手に取る音。そして、しばらくして、静かになった。

悦子が、様子を見に、二階へ上がっていくと、淳一は、窓辺に座って、外を見ていた。二十年余り、そのままにしてあった、少年の部屋の、窓辺に。四十一の男が、少年のように、膝を抱えて。

「淳一」と悦子は、声をかけた。

淳一は、振り返った。その手に、何かを、持っていた。

「これ」と淳一は言った。「抽斗に、入ってた」

それは、青いマッチ箱だった。小さな、青いマッチ箱。ラベルには、「月光堂」と、白い文字で、印刷されていた。

「ああ、それ」と悦子は言った。「懐かしい。月光堂の、マッチ箱ね。昔、この町に、あったのよ。月光堂って、小さな店が。何を売ってた店だったか、もう、覚えてないけど。でも、その、青いマッチ箱だけは、どの家にもあったの。淳一、あなた、それ、どこで」

「覚えてないよ」と淳一は言った。「でも、抽斗の、いちばん奥に、入ってた。片方の手袋が、あった、あの抽斗だ。俺が、これを、しまったんだろうな。子どものころに。何のために、しまったのか、覚えてないけど」

淳一は、そのマッチ箱を、開けてみた。中には、マッチが、まだ、何本か、残っていた。軸の先の、赤い頭薬が、二十年余りの時を経て、少し、色褪せていた。

「使えるかな」と淳一は言った。

「どうかしら」と悦子は言った。「もう、湿気てるかもしれない」

淳一は、一本、抜き出した。そして、箱の横で、擦ってみた。

しゅっ、と、かすかな音がして、けれど、火は、つかなかった。もう一度、擦った。今度は、ちいさな火が、ぽっと、灯った。二十年余りの時を経て。真昼の、明るい部屋の中で、その火は、ほとんど、見えないくらいに、淡かった。けれど、たしかに、燃えていた。淳一は、その火を、じっと、見ていた。それから、そっと、吹き消した。

「つくんだな」と淳一は言った。「二十年たっても」

「つくのね」と悦子は言った。「よかった」

五

日が、傾きはじめるころ、里佳が、帰り支度をした。

里佳は、隣町に、家を借りて、一人で暮らしていた。父の介護が終わってから、この家を出たのだった。悦子は、そのことを、寂しくは思わなかった。里佳が、自分の人生を、生きはじめたことが、うれしかった。

「お母さん」と里佳は、玄関で、言った。「また、来るね」

「来なさい」と悦子は言った。「いつでも」

「兄さん」と里佳は、二階に向かって、声をかけた。「わたし、帰るから」

淳一が、降りてきた。手に、あの青いマッチ箱を、持ったまま。

「おう」と淳一は言った。「気をつけてな」

「うん。兄さんも。また、来てよ。ときどきは」

「ああ。来るよ」

里佳は、うなずいて、それから、少し、ためらうように、こう言った。

「兄さん。今日は、来てくれて、よかった。わたし、ずっと、兄さんのこと、恨んでたけど。でも、今日、来てくれて、よかった。お父さんのこと、聞けて。あの絵も、見れて。よかった」

淳一は、妹の顔を見た。それから、こう言った。

「里佳。俺、お前に、謝りきれないことが、たくさんある。今日、謝ったくらいじゃ、足りない。だから、これから、少しずつ、謝っていく。何年、かかっても。だから、これからも、俺と、会ってくれるか」

里佳の目に、また、涙が滲んだ。

「……当たり前でしょ」と里佳は言った。「兄妹なんだから」

里佳が、帰っていったあと、家には、また、悦子と、淳一の、二人が残った。

夕方の光が、玄関の三和土に、長い影を落としていた。真昼の、あの、短かった影は、もう、どこにもなかった。かわりに、ものの影が、みな、長く、のびていた。悦子は、その、長い影を見て、なぜか、ほっとした。真昼の、あの、むき出しの光は、たしかに、噓をつかなかった。けれど、ものの輪郭を、あんまり、くっきりと、照らしすぎた。夕方の、この、やわらかい光のほうが、悦子には、ありがたかった。

「淳一」と悦子は言った。「夕飯、何が、いい? 何でも、作るわよ」

「何でも、いいよ」と淳一は言った。「お母さんの、作るものなら」

「そう」と悦子は笑った。「じゃあ、あなたの、好きだった、あれを、作ろうかしら。覚えてる? あなたが、子どものころ、好きだった」

「なんだっけ」

「玉子の、あんかけ。あなた、あれが、大好きで。熱を出したときは、いつも、あれを、食べたがった」

「ああ」と淳一は言った。「覚えてる。玉子の、あんかけ。うまかったな、あれ」

「作ってあげる」と悦子は言った。「今晩」

その晩、悦子は、玉子のあんかけを作った。

台所で、鍋を火にかけながら、悦子は、窓の外を見た。もう、日は、暮れかけていた。空は、白い真昼の色を失って、茜色に染まりはじめていた。あの、蒼い一点は、もう、見えなかった。夕焼けの中に、溶けてしまったのか。あるいは、まだ、そこにあるのに、この目には、見えなくなっただけなのか。

悦子は、ふと、口ずさんでいた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

その子守唄を。二人の子に、毎晩、歌った、あの唄を。もう、二人とも、大人になってしまったのに。もう、子守唄など、いらないのに。それでも、悦子は、口ずさんでいた。鍋の、あんが、とろりと、煮詰まっていくのを、見ながら。

座敷のほうから、物音がした。淳一が、何かを、している音。悦子は、耳を、澄ました。それは、鉛筆を、走らせる音だった。しゃっ、しゃっ、と。淳一が、絵を、描いているのだった。二十年余り、折っていた筆を、また、手に取って。

悦子は、その音を、聞きながら、あんかけを、仕上げた。玉子を、そっと、流し入れて。ふわりと、玉子が、あんの中で、花のように、ひらいた。悦子は、それを、器に、盛った。二人分。母と、息子の、二人分。

座卓に、二人の膳が、並んだ。

淳一は、鉛筆を置いて、膳の前に、座った。その手もとに、一枚の、描きかけの絵が、あった。悦子は、それを、そっと、見た。雪の中を、手をつないで歩く、二人の子ども。あの、掛け軸の絵を、写しているのだった。けれど、まったく、おなじではなかった。淳一の、今の、線で。四十一の、男の、線で。

「まだ、途中だ」と淳一は言った。悦子の視線に、気づいて。「へたになってるな。二十年、描いてないと」

「そんなこと、ないわよ」と悦子は言った。「いい絵よ。とても」

「お世辞は、いいよ」と淳一は笑った。「でも、また、描くよ。何枚も。うまくなるまで。今度は、燃やさない。ちゃんと、残す。誰かが、見たいって、言ってくれるまで」

悦子は、うなずいた。それから、玉子のあんかけを、指した。

「冷めないうちに、食べなさい」

淳一は、箸を取って、あんかけを、口に運んだ。ふうふうと、冷ましながら。それから、少し、驚いたような顔をした。

「……おなじ味だ」と、淳一は言った。「子どものころと、おなじ味だ」

「そうよ」と悦子は言った。「おなじ味。何十年、たっても」

淳一は、それを、黙って、食べた。ゆっくりと。ひとくち、ひとくち、味わうように。悦子は、その姿を、見ていた。四十一の息子が、玉子のあんかけを、食べる姿を。子どものころと、おなじ顔で。

食事が、終わって、淳一は、また、絵の続きを、描きはじめた。

悦子は、膳を片づけながら、ときどき、その手もとを、見た。雪の中の、二人の子どもが、少しずつ、紙の上に、あらわれてくる。大きい子と、小さい子。手をつないで。手袋をはめて。片方は、赤い手袋。もう片方は、青い手袋。

「淳一」と悦子は言った。「その絵、できたら、どうするの」

「表具に、出すよ」と淳一は言った。「親父の、知り合いの、表具屋に。この町に、まだ、いるだろう。親父の、弟子だった人が。その人に、頼んで、掛け軸に、仕立ててもらう。親父が、あの絵を、仕立てたみたいに」

「そう」と悦子は言った。「いいわね」

「それで」と淳一はつづけた。「その掛け軸を、仏壇の、そばに、かけるよ。親父の、遺影の、そばに。そうすれば、親父も、見られるだろう。俺の、絵を。ずっと、見たがってた、俺の絵を。もう、遅いけど。でも、遅くても、見られないよりは、ましだ」

悦子は、その言葉を、聞いて、胸の奥が、あたたかくなるのを、感じた。

「お父さん、喜ぶわよ」と悦子は言った。「きっと」

「どうかな」と淳一は言った。「あの、頑固親父が。素直に、喜ぶかな」

「喜ぶわよ」と悦子は言った。「口には、出さないでしょうけど。でも、心の中で。あの人は、いつも、そうだったの。心の中で、思ってても、口に出さない人だった。あなたと、おなじよ。似た者どうし」

淳一は、鉛筆を、止めて、母の顔を見た。それから、かすかに、笑った。

「似た者どうし、か」と淳一は言った。「そうだな。似てたんだな。俺と、親父は。似すぎてたんだ」

夜が、更けて、淳一は、二階の、自分だった部屋に、上がっていった。

悦子は、階下で、後片づけを、済ませて、それから、仏壇の前に、座った。父の遺影に、線香を、あげた。細い煙が、まっすぐに、立ちのぼった。

「お父さん」と悦子は、小さな声で、言った。「淳一が、帰ってきましたよ。三年ぶりに。今日は、泊まっていくって。それで、また、絵を、描きはじめたの。あなたが、見たがってた、絵を。あの子、あなたに、見せるって。あなたの、そばに、かけるって。だから、待っててね。もうすぐ、見られますよ。あの子の、絵が」

遺影の父は、あいかわらず、むっつりとした顔で、こちらを見ていた。値踏みするような、あの目で。けれど、悦子には、その目が、少しだけ、やわらいで見えた。気のせいかもしれなかった。夜の、灯りのかげんかもしれなかった。それでも、悦子には、そう見えた。

悦子は、立ち上がって、二階へ、上がっていった。淳一の部屋の、ドアの前で、少し、立ち止まった。中から、かすかに、物音が、していた。まだ、絵を、描いているのだった。悦子は、ノックしようとして、けれど、やめた。かわりに、ドアの前に、そっと、立ったまま、耳を、澄ました。

そして、悦子は、口ずさんだ。ごく、小さな声で。ドアの、向こうの、息子に、届くか、届かないか、くらいの声で。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

真夜中に、悦子は、ふと、目を覚ました。

喉が、渇いていた。台所へ、水を飲みに、降りていった。台所の、窓の外は、真っ暗だった。けれど、その闇の中に、星が、いくつか、瞬いていた。悦子は、水を飲みながら、その星を、見た。

そして、ふと、思った。あの、蒼い彗星は、今、どこにあるのだろう、と。真昼には、あんなに、はっきりと見えたのに。夜の、この、たくさんの星の中では、どれが、あの彗星なのか、悦子には、わからなかった。真昼の、白い空でこそ、あの星は、ひとつだけ、蒼く、際立って見えたのだ。ほかに、何も、見えないから。ほかの星が、みな、真昼の光に、消されているから。あの、たった一点だけが、見えたのだ。

悦子は、コップを、流しに置いた。二階から、まだ、かすかに、物音が、していた。淳一は、まだ、起きているのだった。まだ、絵を、描いているのだった。

悦子は、その音を、聞きながら、思った。真昼の、あの、対決の一瞬を。二十年余りの、確執が、正午の食卓で、ついに、噴き出した、あの一瞬を。言葉の、応酬。沈黙。そして、片方だけの手袋と、桐の箱に、しまわれていた、一枚の絵。あれは、和解だったのだろうか。それとも、決裂だったのだろうか。悦子には、わからなかった。たぶん、どちらでも、なかった。和解でも、決裂でもない、何か。もっと、静かで、もっと、深い、何か。

二十年余り、片方だけになっていた手袋が、もう片方を、見つけることは、もう、ないのだろう。それでも、片方だけの手袋は、そこに、ある。褪せた赤い毛糸のまま。そして、その片方だけの手袋を、いま、絵の中で、二人の子どもが、はめている。片方は、赤。もう片方は、青。手をつないで、雪の中を、歩いている。

悦子は、灯りを消して、また、二階へ、上がっていった。息子の部屋の、ドアの下から、細い光が、漏れていた。悦子は、その光を、見て、小さく、微笑んだ。そして、自分の部屋へ、戻っていった。

眠れ、眠れ、と、心の中で、もう一度、口ずさみながら。星が、海をわたるまで。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 片方の手袋

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