月光書房
午の刻 ・ 真昼 ・ 第 六 話

水の記憶

日下 灼
自然・動物 ・ 約26頁

影が失せる刻、大地は正しいものと正しくないものを区別しない。ただ、残るものと消えるものとがあるだけだ。

一

水は、記憶の縁までしりぞいていた。

かつて、この窪地には黒く光る水が満ちていた。雨季の終わりには、水面が空をまるごと呑みこんで、朝には桃色の、昼には白い、夕には血のような色の空を、逆さまに抱いた。象の群れが胸まで浸かり、鼻を噴水のように振りあげ、鳥たちが水を蹴って飛び立った。あの頃、水は掟の外にあった。誰のものでもなく、すべてのものの喉を潤した。

いまはちがう。

乾季の背が高くなり、太陽が毎日すこしずつ大地から水を舐めとっていって、窪地の底には、泥に縁どられた小さな鏡のようなものだけが残っていた。それは水というより、水の記憶だった。周囲の泥はひび割れ、亀の甲羅のように六角形に裂けて、ひとつひとつが縁を反りかえらせていた。踏めば、乾いた音を立てて砕けるにちがいなかった。

その泥の縁に、一頭の雄ライオンが立っていた。

老いた獣だった。鬣は色褪せて、かつて漆黒だったその毛先には、いまや灰と鉄錆の色が混じっていた。左の脇腹には、古い傷が地図の川筋のように走り、右の前肢は、歩くたびにわずかに沈んだ――ずっと以前、水牛の角に貫かれた跡だった。顔には、幾度もの戦いが刻んだ皺があり、上唇のあたりには、もはや癒えることのない裂け目があった。

彼には名前がなかった。獣に名前はない。だが、群れのなかで、また草原の広い記憶のなかで、彼はある震えとして知られていた。彼が咆えると、遠くの丘の岩がその声を返し、レイヨウの群れが夢のなかで肢を痙攣させた。ハイエナたちは、彼の匂いのする道を避けて遠回りをした。そういう獣だった。

彼はいま、水の記憶の縁に、影を持たずに立っていた。

遠くの茂みには、ほかの獣たちの気配があった。喉の渇いたレイヨウの群れが、水を求めて、ずっと以前から、そこに集まっていた。だが、彼らは、水場へ、おりてこなかった。老いた雄が、そこに立っているかぎり、水は、彼のものだった。掟が、そう定めていた。強いものが、まず飲む。それから、群れの雌が。それから、子らが。そうして、ようやく、遠くの茂みの、渇いたレイヨウたちの番が、めぐってくる。あるいは、めぐってこないまま、乾季が、彼らを、連れ去っていく。水場の掟は、古く、酷く、そして、揺るがなかった。

一羽のミナミジサイチョウが、乾いた枝の上で、じっと、水場を見おろしていた。その黒い鳥は、なにも、待ってはいないようだった。ただ、そこにいた。血の匂いを、あらかじめ知っている者のように。乾いた大地の上では、あらゆるものが、なにかの終わりを、待っている。ハゲワシは、空の高みで。ジサイチョウは、枯れ枝の上で。ハイエナは、遠い茂みの、影のなかで。そして、それらの待つものたちの下で、いのちは、いのちを賭けて、水を、飲もうとしていた。

正午が近づいていた。

太陽は天の頂へと昇りつめ、ものの影を、その足もとへ、足もとへと縮めていった。木々の影は幹の根もとに丸くうずくまり、岩の影は岩の下に潜りこんだ。獣たちの影は、その腹の下にちいさく折り畳まれた。まもなく――あとほんのわずかで――影というものが、この大地から一度、完全に失せる刻がやってくる。真昼。すべてのものが、自分の影さえ持たずに、光のなかにむき出しに立たされる刻。

老いた雄は、その刻を知っていた。

彼は喉が渇いていた。だが、水を飲むために身をかがめることをためらった。頭を低くすれば、視界が水面に落ちる。そのわずかな隙を、彼はもう幾度も、ほかの獣たちのなかに見てきた。頭を垂れた瞬間に、背後から。だから彼は、渇きを抱いたまま、しばらく立っていた。

それから、ゆっくりと、前肢を折り、身をかがめた。

水面に、彼の顔が映った。皺と傷と、褪せた鬣。老いた王の顔だった。彼はその顔を見なかった。ただ、舌をのばして、水の記憶を掬った。ぬるく、泥の味がした。それでも、喉の奥へ落ちていく一滴ごとに、彼のなかの何かが、かろうじて命の側に留まった。

風が渡った。

乾いた草原を、南から北へ、ひとすじの風が渡っていった。それは草の穂をなびかせ、砂をひとつまみ持ちあげ、老いた雄の鬣を、うしろへ、静かに撫でた。その風には、遠い水の匂いも、雨の予感もなかった。ただ乾いていた。だが、その乾いた風のなかに、なにか、ふるいものが混じっていた。

老いた雄は、水から顔をあげた。

その風の音は――彼が生まれるよりも前から吹いていたものの音だった。母の腹の下でまどろんでいたころ、その風は彼を包んでいた。母の喉が低く鳴らしていた、あの調子の外れた、けれど途切れることのない唸り――あれと、この風は、どこか似ていた。眠れ、と風は言っているようだった。眠れ、まだ影があるうちに。眠れ、星が海をわたるまで。

彼は目を細めた。

老いた獣は、風のなかに、もうひとつの匂いを嗅ぎとっていた。

若い雄の匂いだった。

それは、遠くの岩陰から近づいてきた。

若い雄ライオンだった。まだ鬣は完全には育ちきっておらず、その毛は黄金と蜂蜜の色をしていた。傷はほとんどなく、あってもそれは、若さゆえの向こう見ずが刻んだ、浅いものばかりだった。肢は長く、胸は厚く、歩くたびに、皮膚の下で筋肉が滑らかに波打った。彼のなかには、まだ一度も敗北を知らない獣だけが持つ、あの危うい輝きがあった。

若い雄も、名前を持たなかった。だが、彼のなかには、名前になろうとするものが、脈打っていた。この草原に、まだ自分の匂いを刻んでいない場所がある――そのことが、彼を焦がしていた。彼は北の丘のむこうから来た。そこには彼の父の匂いがあり、兄たちの匂いがあり、彼が居場所を持てない理由のすべてがあった。彼は追われたのではない。出ていったのだ。自分の水場を、自分の群れを、自分の掟を、どこかに持つために。

その旅は、長かった。彼は、乾いた大地を、幾日も、歩いた。喉が渇き、腹が減り、幾度も、ひとり狩りに、失敗した。ハイエナの群れに、囲まれた夜もあった。彼は、まだ、王ではなかった。王のない雄ほど、この草原で、寄る辺ないものは、なかった。群れを持たぬ雄は、狩りに、しくじる。狩りにしくじる雄は、痩せていく。痩せていく雄は、やがて、遠い茂みの、渇いたレイヨウたちと、おなじものになる。なにかの終わりを、待つだけの、影のようなものに。

だから、彼は、この水場を、見つけたとき、悟った。ここが、境目だ、と。ここで、王になるか、あるいは、ここで、影になるか。そのどちらかしか、なかった。彼のなかの、名前になろうとするものが、灼けた。彼は、渇いていた。水にも、そして、それ以上に、自分の場所に、渇いていた。

そして、彼はこの水場を見つけた。

若い雄は、泥の縁の手前で足を止めた。三十歩ほどの距離を置いて、老いた雄と向かいあった。

ふたつの獣のあいだに、影はなかった。

太陽は、いまや、ほとんど天の頂にあった。若い雄の足もとにも、老いた雄の足もとにも、影は縮みきって、腹の下に隠れていた。まるで大地が、この二頭の獣から、その影を、その逃げ場を、あらかじめ取りあげてしまったかのようだった。光は白かった。空はもはや青くなく、灼けて白く、地平線のあたりで陽炎に溶けていた。

若い雄は、低く唸った。

その唸りは、まだ完成されていなかった。老いた雄の咆哮が丘に返るのとちがって、若い雄の声は、まっすぐに、標的だけに向かって放たれた。それは挑戦の声だった。この水場は、この群れは、この草原は、いまや若さのものであるべきだ――そう、その声は言っていた。

老いた雄は、動かなかった。

彼は、若い雄をじっと見ていた。その目は、黄金でも琥珀でもなく、ずっと以前に色を失った、乾いた河床のような色をしていた。彼はその目で、若い雄の胸の厚みを、肢の長さを、傷のなさを、見た。そして、若い雄が知らないことを、いくつか知っていた。

若い雄は、まだ、渇きの深さを知らない。

若い雄は、まだ、勝ったあとに来るものを知らない。

若い雄は、まだ、この草原が、勝者にも敗者にも、等しく無関心であることを知らない。

老いた雄は、ゆっくりと、立ちあがった。

二

かつて、老いた雄も、若かった。

彼の記憶は、水のようにしりぞいてはいなかった。むしろ、乾いていく水場が、その底に沈んでいたものをすべて剥き出しにするように、老いは彼のなかの古い記憶を、くっきりと浮かびあがらせていた。

彼が、いまの若い雄とおなじ年ごろだったとき、この水場には、別の老いた王がいた。黒い鬣の、巨大な獣だった。その王は、片方の耳が裂けていて、歩くたびに、その裂けた耳が、風に揺れた。彼は、その王に挑んだ。真昼の、影のない刻に。

あのときのことを、彼はよく覚えていた。

彼は勝った。だが、簡単にではなかった。黒い鬣の王は、老いていたが、老いは彼を弱くしていなかった。老いは彼に、無駄のない動きを教えていた。若い彼が三度、飛びかかり、三度とも、王は最小限の動きでそれをかわし、そのたびに、彼の肩に、脇腹に、爪の跡を残した。四度目に、彼はついに王の喉に肢を掛けた。だが、その瞬間、王は抵抗をやめた。

抵抗をやめた王の目を、彼はいまも覚えていた。

その目には、恐れがなかった。悲しみもなかった。ただ、なにか――掟のようなものが、あった。順番が来た、とその目は言っているようだった。おまえの番が来たように、いつか、おまえの番が終わる。その目は、彼を許すのでも、呪うのでもなかった。ただ、掟を、彼に手渡した。

黒い鬣の王は、群れを離れ、ひとりで、南の岩地のほうへ歩いていった。裂けた耳を風に揺らしながら。彼は振り返らなかった。数日後、ハゲワシが南の空に輪を描いた。それが、王の最期だった。

あの日も、真昼だった。影の、失せた刻だった。彼は、いま思えば、あの黒い鬣の王のことを、ほとんど、なにも知らなかった。王がどこから来たのか、どんな旅をしてきたのか、どんな渇きを、くぐり抜けてきたのか。彼は、なにも、知らなかった。ただ、王は、そこにいた。彼が生まれるよりも前から、その水場に。そして、彼は、その王を、倒した。王が、どれだけの時間をかけて、その場所を、自分のものにしてきたのか――そのことに、思いを馳せるには、あのころの彼は、若すぎた。

若さとは、そういうものだった。若さは、いま、目の前にあるものしか、見ない。その背後にある、長い時間を、見ない。老いた雄は、いま、それを、知っていた。彼自身が、老いて、はじめて、あの黒い鬣の王の背後にあった、長い時間の、重さを、感じることができた。王を倒すとは、その時間ごと、引き受けることだった。

若かった彼は、王の去った水場に立ち、はじめて、掟の重さを知った。

勝つとは、この重さを引き受けることだった。群れを守り、水場を守り、そして――いつか、来る者に、この場所を明け渡すこと。掟は、勝者を王にした。だが同時に、掟は、王に、その終わりの日を約束した。彼が黒い鬣の王から奪ったのは、王の座ではなかった。王の座と、王の終わりと、その両方だった。

いま、彼は老いた。

そして、若い雄が、影のない刻に、彼の前に立っている。

老いた雄は、記憶から目を戻した。

若い雄は、まだ三十歩の距離を保っていた。その距離は、獣にとって、微妙な距離だった。一足飛びには届かない。だが、二歩三歩の助走があれば、届く。その距離のなかで、二頭は、たがいの呼吸を読みあっていた。

老いた雄は、若い雄の呼吸が、はやいことに気づいていた。

若さは、はやる。若さは、正午を待てない。若さは、影が完全に失せる、あの一瞬を待てずに、動いてしまう。老いた雄は、それを知っていた。彼自身が、かつて、そうだったからだ。黒い鬣の王は、彼のはやりを、辛抱づよく待った。そして、彼が焦れて飛びかかった、その最初の一撃を、王は、ほとんど憐れむように、かわした。

老いた雄は、動かなかった。

彼は、待っていた。

彼の呼吸は、ふかく、ゆっくりだった。老いた肺は、若いころほど多くの空気を掴めなかったが、そのぶん、彼はひとつの呼吸を、長く、大切に使った。彼の心臓は、太鼓のように、規則ただしく打っていた。彼の傷ついた前肢は、地面についていて、その痛みは、いまはむしろ、彼を目覚めさせていた。痛みは、彼に、いま、ここに、生きて立っていることを、思い出させた。

風が、もう一度、渡った。

その風のなかに、また、あの古い調子が混じっていた。眠れ、眠れ。老いた雄は、その調子を、こんどは、はっきりと聞いた。それは、彼の母の唸りだった。それは、彼が生まれた朝の、あの薄明の匂いだった。それは、いつか、彼が去っていくときの、南の岩地に吹く風の、あらかじめの記憶だった。

眠れ、星が海をわたるまで。

彼は、天を、一度だけ、仰いだ。

真昼の空は、白かった。

太陽は、その白さの中心で、目を焼くほどに輝いていた。だが、老いた雄は、その白い空の、太陽から少し離れた一点に、なにかを見た。

蒼い、ちいさな点だった。

それは星ではなかった。少なくとも、いつも夜に見る星々とは、ちがっていた。真昼の白い空に、そんなものが見えるはずはなかった。だが、それは、たしかに、そこにあった。蒼く、澄んで、まるで水の記憶のいちばん深いところから、天へと立ちのぼった一滴のように。そして、その点からは、うっすらと、長い尾のようなものが、白い空に引かれていた。蒼白く、細く、たなびいて。

老いた雄は、それを、明け方に見たことがあった。

数日前の、まだ影の長い朝、彼が水場へおりてきたとき、東の空の、しらじらと明けていく縁に、その蒼い星は、長い尾を引いて、かかっていた。ほかの星々がひとつずつ消えていくなかで、その蒼い星だけが、明るさを増していく空のなかに、なお、残っていた。彼は、その朝、ながいこと、その星を見ていた。獣が星を見ることは、ない。だが、その朝の彼は、なぜか、その星から、目を離せなかった。

そして、いま、真昼の白い空に、その星は、もう一度、あった。

尾を引く、蒼い一点。

老いた雄は、それを見ながら、奇妙なほど、静かだった。

その星は、動いていた。すべての星がそうであるように、それも、天をわたっていた。だが、ほかの星々よりも、それは、ずっと大きな旅をしているように、彼には思われた。それは、どこか、とてつもなく遠いところから来て、この草原の、この水場の、この真昼の上を、ひとたびよぎり、そして、また、とてつもなく遠いところへ、去っていく。二度と、戻らないかもしれない旅を。

眠れ、星が海をわたるまで。

風が、そう唄っていた。

星は、海を、わたっていた。白い空という、光の海を。

老いた雄は、天から目を戻した。

若い雄は、まだ、そこにいた。

三

若い雄が、動いた。

それは、老いた雄が待っていたとおりの、はやすぎる一撃だった。若い雄は、二歩、大地を蹴り、三歩目で、身を沈め、そして、跳んだ。その跳躍は、美しかった。若い筋肉が、余すところなく解き放たれ、黄金の獣が、白い光のなかを、一直線に飛んだ。

老いた雄は、その一瞬前に、身を、わずかに、横へずらした。

ほんの、半歩だった。若いころの彼なら、飛びのいただろう。だが、老いた彼は、飛びのかなかった。飛びのけば、体勢を崩す。彼は、ただ、必要なだけ、体をずらした。若い雄の爪が、彼の鬣の毛先を、かすめて過ぎた。若い雄の巨体が、彼の横を、風のうなりとともに、通りすぎた。

そして、若い雄が着地する、その一瞬――前肢が地につき、後肢がまだ宙にある、その不安定な一瞬に、老いた雄は、動いた。

彼の動きには、若さの爆発力はなかった。だが、そこには、無駄が、ひとつもなかった。彼は、若い雄の露わになった脇腹へ、体ごと、ぶつかった。老いた体の、すべての重さを乗せて。若い雄は、体勢を崩し、泥の縁に、横倒しに、倒れた。

乾いた泥が、砕けた。六角形のひび割れが、白い破片となって、宙に舞った。

だが、若い雄は、若かった。

倒れた次の瞬間には、もう、彼は身を起こしていた。そして、こんどは、老いた雄の顔面へ、前肢を振るった。その一撃は、はやかった。老いた雄は、それを、完全にはかわしきれなかった。若い雄の爪が、彼の左の頬を、上唇の古い裂け目の、すぐ上を、裂いた。

血が、流れた。

老いた雄の血は、若いころの血よりも、色が濃かった。それは、彼の褪せた鬣を伝い、白い大地に、点々と、落ちた。乾いた泥が、その一滴ずつを、たちまち吸いこんだ。

痛みは、あった。だが、老いた雄は、痛みを、恐れなかった。彼にとって、痛みは、もう、久しい友のようなものだった。彼は、痛みとともに、生きてきた。傷ついた前肢とともに、脇腹の古い傷とともに。痛みは、彼を、いまここに、繋ぎとめるものだった。

彼は、血の流れる顔のまま、若い雄と、ふたたび向かいあった。

二頭は、円を、描きはじめた。

たがいを中心に、ゆっくりと、円を。泥の縁を、砕きながら。血を、点々と、落としながら。二頭のあいだに、なお、影はなかった。太陽は、いまや、完全に、天の頂にあった。真昼。影の、失せた刻。

その円は、古いものだった。老いた雄は、これまでの生涯で、幾度も、この円を、描いてきた。若い挑戦者たちと。他の群れの、はぐれ雄たちと。その円のなかで、彼は、勝ちつづけてきた。その円は、彼の生の、かたちだった。円のなかで、二頭の獣は、ひとつの、張りつめた沈黙になる。まわりの世界が、消える。遠くの茂みのレイヨウも、枯れ枝のジサイチョウも、空のハゲワシも、消える。ただ、たがいの目と、たがいの呼吸と、たがいの、次の一手だけが、世界の、すべてになる。

その沈黙のなかで、時間は、奇妙に、伸びた。円の一歩ごとに、老いた雄は、若い雄の、微細な動きを、読んだ。前肢の、わずかな緊張。耳の、かすかな傾き。呼吸の、乱れ。そのすべてが、次の攻撃の、あらかじめの、影だった。影の失せた大地の上で、ただ、その影だけが、二頭のあいだに、あった。攻撃の、来る前の、影が。

若い雄が、低く、唸った。その唸りには、さっきまではなかった、なにかが、混じっていた。老いた雄の、あの、飛びのかない動きが、若い雄を、わずかに、揺らしていた。若い雄は、老いた雄が、もっと、たやすい相手だと思っていた。老いた獣は、弱い。若さは、そう信じていた。だが、老いた雄は、弱くなかった。老いは、彼を、弱くしていなかった。老いは、彼から、無駄を、そぎ落としていた。

若い雄は、はじめて、迷った。

その迷いを、老いた雄は、見た。

風が、渡った。

三度目の、風だった。それは、いちばん、静かな風だった。草の穂も、ほとんど揺らさなかった。だが、その風のなかに、あの調子は、いちばん、はっきりと、あった。

眠れ、眠れ。

老いた雄は、その調子を聞きながら、若い雄の目を、見た。

若い雄の目は、黄金だった。まだ、色を失っていなかった。まだ、渇きの底を、見ていなかった。まだ、勝ったあとに来るものを、知らなかった。その目のなかには、老いた雄が、ずっと以前に持っていた、あの危うい輝きが、あった。

そして、老いた雄は、思った。――こいつは、勝つべきだ。

それは、諦めではなかった。恐れでもなかった。それは、掟だった。黒い鬣の王が、彼に手渡した、あの掟だった。順番が来た。おまえの番が来たように、いつか、おまえの番が終わる。老いた雄は、その掟を、いま、この若い雄の目のなかに、見ていた。

だが、掟は、ただ、明け渡すことを、命じてはいなかった。

掟は、こうも、言っていた。――たやすくは、渡すな。

黒い鬣の王は、たやすくは、渡さなかった。彼は、若かった老いた雄を、三度、退けた。そのたびに、爪の跡を残した。王が、四度目に、抵抗をやめたのは、諦めたからではなかった。それは、若い獣が、王を、正しく、倒したからだった。三度の跳躍と、三度の傷と、四度目の、喉への一撃。そのすべてを、くぐり抜けた者だけが、掟を、受け継ぐことができた。

たやすく渡された王座は、たやすく、また、奪われる。

だから、老いた雄は、若い雄に、たやすくは、渡さないつもりだった。

彼は、若い雄が、正しく、彼を、倒すことを、望んだ。それが、彼が、若い雄に手渡すことのできる、最後の、そして、いちばん大切な、贈り物だった。傷を、恐れを、渇きを、くぐり抜けさせること。そうして、はじめて、この若い獣は、王に、なれる。

老いた雄は、身を、低くした。

そして、こんどは、彼のほうから、動いた。

四

老いた雄の攻撃は、若い雄を、驚かせた。

老いた獣が、守りから、攻めに転じるとは、若い雄は、思っていなかった。彼は、老いた雄が、じりじりと退き、やがて、逃げるものと、どこかで、思っていた。だが、老いた雄は、逃げなかった。彼は、若い雄の、迷いの一瞬をついて、その喉もとへ、飛びこんだ。

若い雄は、かろうじて、身をかわした。老いた雄の牙が、彼の首すじの毛を、掠めた。若い雄は、うしろへ、跳びのいた。そして、こんどこそ、本気で、唸った。

二頭は、ぶつかった。

前肢と前肢が、絡みあった。牙が、たがいの首すじを、探った。二頭の巨体が、後肢だけで立ちあがり、白い光のなかで、もつれあった。砂が、舞った。血が、飛んだ。老いた雄の血と、若い雄の血が、白い大地に、混じって、落ちた。

若い雄の力は、強かった。老いた雄は、その力に、押された。若い筋肉の、爆発するような力の前に、老いた雄の体は、じりじりと、うしろへ、傾いた。彼の傷ついた前肢が、悲鳴をあげた。彼の古い脇腹の傷が、灼けた。

だが、老いた雄は、倒れなかった。

彼は、力では、若い雄に、勝てなかった。だが、彼には、力のほかに、あるものが、あった。それは、大地の読み方だった。彼は、この水場の泥の、どこが硬く、どこが脆いかを、知っていた。彼は、若い雄を、じりじりと、押されるふりをして、脆い泥の縁のほうへ、導いた。

そして、若い雄の後肢が、脆い泥を、踏んだ、その一瞬――

老いた雄は、体をひねり、若い雄の重心を、外した。

若い雄は、崩れた。脆い泥が、彼の後肢の下で、砕けた。若い雄の巨体が、傾いた。老いた雄は、その傾いた体の、露わになった首すじへ、牙を、突き立てた。

牙は、若い雄の首すじに、届いた。

だが、老いた雄は、そこで、力を、緩めた。

彼は、若い雄の首を、噛みちぎることも、できた。頸動脈は、彼の牙の、すぐ先にあった。若いころの彼なら、あるいは、そうしただろう。だが、老いた雄は、そうしなかった。彼は、ただ、若い雄の首を、押さえた。動くな、と、その牙は、言っていた。おまえは、いま、私の牙の下にいる。私は、おまえを、殺せる。だが――

若い雄は、動かなかった。

若い雄の目が、老いた雄の目を、見上げた。その目のなかには、はじめて、恐れが、あった。死が、すぐそこに、あることを、若い雄は、知った。彼は、まだ、一度も、負けたことがなかった。彼は、まだ、一度も、死を、こんなに近くに、見たことがなかった。

老いた雄の目は、若い雄の恐れを、見ていた。

そして、老いた雄は――牙を、離した。

若い雄は、信じられない、というように、身を起こした。彼は、老いた雄から、数歩、退いた。首すじからは、血が、流れていた。だが、致命傷ではなかった。老いた雄は、致命傷を、与えなかった。彼は、ただ、教えたのだ。おまえは、まだ、死を、知らない。おまえは、まだ、王ではない。

二頭は、ふたたび、向かいあった。

老いた雄は、荒く、呼吸をしていた。彼の老いた肺は、限界に、近づいていた。彼の傷ついた前肢は、もう、体を、支えきれなくなりつつあった。彼の脇腹の傷は、開いて、血を、流していた。彼には、わかっていた。この次の一合が、最後だということが。

若い雄も、それを、感じていた。

彼は、老いた雄の呼吸の荒さを、聞いていた。彼は、老いた雄の前肢の震えを、見ていた。彼は、老いた雄が、たったいま、自分を、殺せたのに、殺さなかったことの意味を――まだ、完全にはわからないまでも――どこかで、感じていた。

若い雄のなかで、なにかが、変わりつつあった。

彼は、この水場を、この群れを、この草原を、力で、奪おうとして、ここへ来た。だが、老いた雄の牙の下で、死を、間近に見たとき、彼は、はじめて、力のほかに、なにかが、あることを、感じた。老いた雄が、彼を、殺さなかったこと。それは、弱さでは、なかった。それは、彼が、まだ、名づけることのできない、なにか、だった。

若い雄は、身を、低くした。

老いた雄も、身を、低くした。

老いた雄には、わかっていた。もう、体は、限界だということが。次の一合で、彼は、勝つか、負けるか、そのどちらかだった。そして、心の底では、彼は、もう、答えを、知っていた。彼の傷ついた前肢は、もう、一度きりの体重しか、支えられない。彼の肺は、もう、一度きりの、深い呼吸しか、掴めない。彼の生涯の、すべての闘いが、この、最後の一合へと、収斂していこうとしていた。

だが、彼は、恐れなかった。彼は、この一瞬のために、生きてきたのだ、とさえ、思った。頂点とは、こういう一瞬のことだった。生の、すべての重さが、たった一度の、動きへと、絞りこまれる、この一瞬。そこには、過去も、未来も、なかった。ただ、いまが、あった。灼けた、白い、影のない、いまが。老いた雄は、その、いまのなかへ、自分の、すべてを、投げ入れる用意が、できていた。

二頭は、たがいを、見つめた。白い光のなかで。影の、失せた大地の上で。天の頂の太陽の下で。そして、その太陽から、少し離れた白い空の一点に、蒼い星が、長い尾を引いて、なお、かかっていた。二頭の獣は、それを、見なかった。だが、その星は、そこに、あった。すべてを、見おろして。

風が、渡った。

眠れ、眠れ。

そして、二頭は、同時に、動いた。

五

最後の一合は、みじかかった。

若い雄の若さと、老いた雄の知恵とが、白い光のなかで、ひとつに、ぶつかった。爪と牙と、力と重さと、はやさと無駄のなさとが、一瞬のうちに、絡みあい、ほどけた。

そして――老いた雄が、倒れた。

若い雄の一撃が、老いた雄の、傷ついた前肢を、砕いた。長いあいだ、彼を支えてきた、あの水牛の角の跡のある前肢が、ついに、折れた。老いた雄は、横倒しに、大地に、崩れた。乾いた泥が、彼の重さの下で、砕けた。白い破片が、宙に舞い、そして、彼の褪せた鬣の上に、雪のように、降りかかった。

若い雄は、老いた雄の上に、立った。

老いた雄の首すじは、いま、若い雄の牙の、すぐ下に、あった。数刻前、老いた雄が、若い雄に対して、そうであったように。立場は、逆転していた。若い雄は、いま、老いた雄を、殺すことが、できた。

だが、若い雄は、動かなかった。

彼は、老いた雄を、見おろしていた。老いた雄の目は――恐れて、いなかった。悲しんでも、いなかった。ただ、そこには、あの、掟のようなものが、あった。順番が来た、とその目は、言っていた。おまえの番が、来たように、いま、私の番が、終わる。その目は、若い雄を、許すのでも、呪うのでも、なかった。ただ、掟を、若い雄に、手渡していた。

若い雄は、その目の意味を、いま、ようやく、理解しはじめていた。

彼は、牙を、老いた雄の首すじに、近づけた。だが、噛みちぎることは、しなかった。彼は、ただ、老いた雄の首を、軽く、押さえた。それは、数刻前、老いた雄が、彼にしたことと、まったく、おなじだった。

若い雄は、老いた雄を、殺さなかった。

老いた雄は、若い雄の牙の下で、静かに、横たわっていた。

彼は、負けた。だが、その負けには、恥は、なかった。彼は、たやすくは、渡さなかった。彼は、若い雄に、傷を、与えた。恐れを、与えた。渇きの入口を、見せた。そして、若い雄は、そのすべてを、くぐり抜けて、彼を、正しく、倒した。

老いた雄は、満たされていた。

彼は、若い雄が、自分を、殺さなかったことを、知った。そのことに、彼は、奇妙な、安堵を、覚えた。若い雄は、掟を、受け継いだ。殺すことではなく、殺さないことのなかに、掟の、いちばん深いところが、あることを、若い雄は、感じとった。老いた雄が、黒い鬣の王から、受け継いだように。

若い雄は、牙を、離した。

老いた雄は、ゆっくりと、身を、起こそうとした。だが、砕けた前肢は、もう、彼を、支えなかった。彼は、三本の肢で、かろうじて、立ちあがった。若い雄は、それを、退かずに、見ていた。彼は、老いた雄が、立ちあがるのを、待った。

二頭は、最後に、もう一度、向かいあった。

もう、闘いは、なかった。それは、闘いのあとの、静けさだった。二頭のあいだに、なお、影はなかった。だが、太陽は、いまや、天の頂を、わずかに、過ぎていた。まもなく、影が、大地に、戻ってくる。まず、東の側から、細く、ひとすじ。それから、しだいに、長く。真昼は、終わろうとしていた。

老いた雄は、水場に、背を、向けた。

彼は、三本の肢で、ゆっくりと、南のほうへ、歩きはじめた。かつて、黒い鬣の王が、歩いていった、あの、南の岩地のほうへ。彼は、振り返らなかった。振り返ることは、掟に、なかった。

若い雄は、老いた雄が、去っていくのを、見ていた。

彼は、老いた雄を、追わなかった。とどめを、刺そうとも、しなかった。彼は、ただ、老いた王が、掟にしたがって、去っていくのを、見送った。老いた雄の、褪せた鬣が、白い光のなかで、しだいに、遠ざかっていった。彼の、砕けた前肢が、地面に、つくたびに、その体が、わずかに、沈んだ。だが、彼の背は、まっすぐだった。

老いた雄は、歩きながら、天を、一度だけ、仰いだ。

蒼い星は、まだ、そこに、あった。白い空の、太陽から少し離れた一点に。長い尾を、引いて。それは、天を、わたっていた。光の海を。とてつもなく遠いところから来て、この草原の、この水場の、この真昼の上を、ひとたびよぎり、そして、また、とてつもなく遠いところへ、去っていく星。二度と、戻らない、旅を。

老いた雄は、その星に、どこか、自分を、重ねた。

彼も、いま、旅立とうとしていた。とてつもなく遠いところへ。二度と、戻らない、旅へ。彼が、この草原に来たのも、遠い昔の、ある真昼だった。彼は、この水場を、この群れを、この掟を、ひとたび、預かった。そして、いま、それを、若い雄に、手渡して、去っていく。星が、海をわたるように。

眠れ、と、風が、唄った。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

老いた雄は、目を、細めた。

その調子は、彼の母の唸りだった。それは、彼が生まれた朝の、薄明の匂いだった。そして、それは、いま、彼が去っていく、この道の、行く手に、吹いていた。眠れ。まだ影が戻らぬうちに。眠れ。星が、海の、むこうへ、わたりきるまで。

老いた雄は、南の岩地へと、歩いていった。

六

若い雄は、水場に、残った。

遠くの茂みでは、渇いたレイヨウたちが、まだ、待っていた。枯れ枝の上では、ミナミジサイチョウが、まだ、じっと、水場を見おろしていた。だが、血は、流れなかった。少なくとも、今日の、この水場では、いのちは、いのちを賭けて闘い、そして、どちらも、生きのびた。それは、乾いた大地の上では、稀なことだった。ジサイチョウは、しばらく、待ってから、やがて、羽を、ひろげた。そして、なにも得られなかった者のように、乾いた風のなかへ、飛び去っていった。今日は、まだ、その日ではないと、悟ったかのように。

若い雄は、しばらく、老いた雄の去った、南のほうを、見ていた。それから、ゆっくりと、水の記憶の、縁へと、歩いていった。彼は、頭を、低くし、舌をのばして、水を、掬った。ぬるく、泥の味が、した。だが、それは、彼が、はじめて、王として、飲む、水だった。

彼は、水を飲みながら、水面に映る、自分の顔を、見た。

若い顔だった。まだ、傷は、浅かった。首すじの傷と、頬の傷。それは、老いた雄が、彼に、与えた、傷だった。彼は、その傷を、これから、一生、身につけて、生きていくだろう。その傷は、彼に、思い出させるだろう。老いた王のことを。掟のことを。殺すことではなく、殺さないことのなかに、いちばん深いものが、あることを。

若い雄は、水から、顔を、あげた。

天の頂の太陽は、いまや、はっきりと、西へと、傾きはじめていた。そして、大地には、影が、戻りつつあった。まず、東の側から、細く、ひとすじ。若い雄の足もとにも、ちいさな影が、生まれつつあった。真昼は、終わった。頂点の、一瞬は、過ぎた。世界は、ふたたび、影を持つものたちの世界へと、戻っていく。

若い雄は、天を、仰いだ。

蒼い星は――もう、なかった。

いや、あったのかもしれない。だが、若い雄には、それを、見つけることが、できなかった。それは、白い空の、どこかに、溶けてしまったのか、あるいは、光の海の、むこうへ、わたりきってしまったのか。若い雄には、わからなかった。獣は、星を、見ない。彼は、ただ、白い空を、しばらく、見あげていた。そして、目を、戻した。

その夜、若い雄は、水場のそばで、群れとともに、まどろんだ。

雌ライオンたちが、彼を、受け入れた。掟が、そう、命じた。子ライオンたちが、彼の、褪せていない鬣の匂いを、嗅いだ。彼は、群れの、あたらしい王だった。

夜が、来ると、白い空は、深い蒼へと、沈んだ。そして、無数の星々が、天に、あらわれた。若い雄は、まどろみながら、その星々を、見るともなく、見ていた。彼は、どの星が、あの、真昼の蒼い星なのか、わからなかった。夜の星々のなかで、それは、もう、区別が、つかなかった。あるいは、それは、もう、この空には、いないのかもしれなかった。とてつもなく遠いところへ、去ってしまったのかもしれなかった。

若い雄は、まどろみのなかで、風の唄を、聞いた。

眠れ、眠れ。

それは、雌ライオンの、低い唸りだった。子ライオンたちを、寝かしつける、あの、調子の外れた、けれど途切れることのない唸り。若い雄は、その唸りのなかに、なにか、ふるいものを、聞いた。それは、彼の母の唸りだった。それは、彼が生まれた朝の、薄明の匂いだった。そして、それは、いつか、彼が、老いて、去っていくときの、南の岩地に吹く風の、あらかじめの記憶だった。

眠れ、星が海をわたるまで。

若い雄は、目を、閉じた。

南の岩地では、老いた雄が、横たわっていた。

彼は、もう、水を、飲まなかった。喉の渇きは、もう、彼を、苦しめなかった。彼は、ただ、乾いた大地の上に、体を、横たえて、夜の空を、見あげていた。三本の肢は、動かなかった。砕けた前肢は、もう、痛まなかった。老いた脇腹の傷も、もう、灼けなかった。

彼は、静かだった。

夜の星々が、天に、満ちていた。彼は、そのなかに、あの、蒼い星を、探した。だが、彼にも、それは、見つけられなかった。夜の星々のなかで、それは、もう、区別が、つかなかった。あるいは、それは、もう、この空には、いないのかもしれなかった。彼が、いままさに、去っていこうとしている、その、とてつもなく遠いところへ、ひとあし先に、去ってしまったのかもしれなかった。

老いた雄は、目を、閉じた。

風が、渡った。乾いた、岩地の風だった。その風のなかに、あの、古い調子が、あった。眠れ、眠れ。それは、彼の母の唸りだった。それは、彼が生まれた朝の、薄明の匂いだった。そして、それは、いま、この、彼の最後の道の、行く手に、吹いていた。

眠れ、星が海をわたるまで。

老いた雄は、まどろみのなかで、ずっと以前の、ある朝を、思い出した。

母の腹の下で、まどろんでいた、あの朝を。母の唸りが、彼を、包んでいた。世界は、まだ、彼にとって、匂いと、温もりと、その唸りだけで、できていた。渇きを、彼は、まだ、知らなかった。闘いを、掟を、勝利を、敗北を、彼は、まだ、知らなかった。ただ、母の唸りが、あった。眠れ、眠れ。あの朝、母は、彼に、唄っていた。

彼は、その朝へと、帰っていった。

数日後、ハゲワシが、南の空に、輪を、描いた。

若い雄は、水場から、それを、見た。彼は、それが、なにを、意味するかを、知っていた。老いた王の、最期だった。

若い雄は、しばらく、南の空を、見ていた。ハゲワシの輪は、ゆっくりと、まわっていた。彼は、南へ、行こうとは、しなかった。それは、掟に、なかった。彼は、ただ、水場に、立って、老いた王が、大地に、還っていくのを、遠くから、見送った。

そして、彼は、水の記憶の、縁へと、歩いていった。

水は、さらに、しりぞいていた。乾季は、まだ、深まっていく。この水場も、いつか、完全に、涸れてしまうかもしれなかった。そうなれば、彼は、群れを率いて、別の水場を、探さなければ、ならないだろう。掟は、王に、それを、命じていた。守ること。導くこと。そして、いつか、来る者に、明け渡すこと。

若い雄は、頭を、低くし、水を、掬った。

ぬるく、泥の味が、した。それでも、喉の奥へ、落ちていく、一滴ごとに、彼のなかの、なにかが、命の側に、留まった。かつて、老いた雄が、そうしたように。そして、いつか、彼が、老いたとき、あたらしい若い雄が、また、この水場に、あらわれるだろう。影の、失せた刻に。そのとき、彼は、たやすくは、渡さないだろう。傷を、恐れを、渇きの入口を、その若い雄に、見せるだろう。そして、正しく、倒されたとき、彼は、掟にしたがって、南の岩地へと、去っていくだろう。

星が、海をわたるように。

真昼が、めぐってきた。

また、太陽が、天の頂へと、昇りつめ、ものの影が、その足もとへ、足もとへと、縮んでいった。若い雄――もう、それほど、若くはない雄は、水場の縁に、影を持たずに、立っていた。彼の鬣は、まだ、黄金だったが、その毛先には、いつか、灰と、鉄錆の色が、混じるだろう。彼の体には、いくつもの傷が、地図の川筋のように、走っていた。それは、彼が、王として、生きてきた、日々の、記録だった。

彼は、天を、仰いだ。

真昼の空は、白かった。太陽は、その白さの中心で、目を焼くほどに、輝いていた。彼は、その白い空の、太陽から少し離れた一点に、なにかを、探した。蒼い、ちいさな点を。長い尾を、引く、星を。

だが、そこには、もう、なにも、なかった。

星は、海を、わたりきったのだ。とてつもなく遠いところへ。二度と、戻らない、旅へ。あるいは――いつか、ずっと、ずっと、遠い先に、また、この空へ、帰ってくるのかもしれなかった。彼が、もう、この草原には、いなくなったころに。あたらしい王が、この水場に、立っているころに。そのとき、その王も、真昼の白い空に、蒼い一点を、見あげるのかもしれなかった。そして、なにかを、感じるのかもしれなかった。名づけることの、できない、なにかを。

風が、渡った。

眠れ、眠れ。

その風のなかに、あの、古い調子は、なお、あった。それは、母の唸りだった。それは、生まれた朝の、薄明の匂いだった。そして、それは、いつか去っていく、その道の、行く手に、あらかじめ、吹いている風だった。乾いた大地を、南から北へ、ひとすじ、渡っていく、子守唄のような風。

眠れ、星が海をわたるまで。

雄ライオンは、天から、目を、戻した。

そして、水の記憶の、縁へと、歩いていった。頭を、低くし、舌をのばして、ぬるい、泥の味の、水を、掬った。喉の奥へ、落ちていく、一滴ごとに、彼のなかの、なにかが、命の側に、留まった。

影が失せる刻、大地は正しいものと正しくないものを区別しない。ただ、渡していくものと、受け継いでいくものとがあるだけだ。そして、その両方を、白い空の、蒼い星が、ひとたび、見おろして、また、光の海の、むこうへと、去っていく。

この物語にひそむ符牒

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  • 子守唄

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