月光書房
午の刻 ・ 真昼 ・ 第 七 話

高窓

龍崎 静嗣
歴史・政治 ・ 約26頁

高窓

正午が近づくと、玉座の間の石畳の上を這っていた影が、みるみる短く縮んでいった。

若き宰相アルセイは、その影を見ていた。柱の影、家臣たちの影、そして自分の足もとの影が、日輪の昇るにつれて足の裏へと吸い込まれていく。真昼が近い。影がもっとも短くなる刻。この国の古い言い伝えでは、影が消えるその一瞬、人は嘘をつけぬという。神の目がまっすぐ頭上から差すからだと。

高窓から落ちてくる光の柱は、白く、太く、容赦がなかった。埃の一粒までが白く灼けて、光の中で燃えているように見えた。玉座の間は、東西に細長い。北の壁の高いところに、狭い窓が七つ並んでいる。それは戦のための窓だった。矢を射るための、あるいは煮えた油を注ぐための窓だ。だがこの平時、その七つの窓はただ、天の光をひとすじずつ床へ落とすためだけにある。七本の白い柱が、いま石畳の上に立っていた。

評定は、朝の鐘とともに始まっていた。もう二刻に及ぶ。

「──ゆえに、いま討たねば、来春には向こうが攻めてまいります」

主戦派の筆頭、老将ドルカスの声が、石の天井に反響した。喉から絞り出すような、しかし芯の太い声だった。彼は片膝をつき、拳を胸にあてている。「隣国カズラは川向こうに兵を集めております。あの数は、狩りの構えではございませぬ。渡河の構えでございます。冬を越せば、雪解けとともに向こうが来る。ならば、こちらから、川の水位の低いいまのうちに──」

「川を渡って攻める、と」

遮ったのは、西の列に並ぶ和睦派の重臣、書記長ヴェレンだった。痩せた、灰色の男だ。彼はゆっくりと顔をあげた。「ドルカス卿。あなたは川を渡って攻めよと言い、同時に、向こうが川を渡って攻めてくるのを恐れておられる。同じ川を、一方は易々と渡れると言い、一方は脅威だと言う。どちらなのです」

「渡河には、先手が要る」ドルカスは動じなかった。「先に渡った者が、対岸の高みを取る。取られてからでは遅い。それだけのことだ」

「それだけのこと、で数万が死にます」

ヴェレンの声は低かった。だが玉座の間の隅々まで届いた。彼はそういう声の使い方を知っている男だった。「川を渡る兵の三割は、対岸に着く前に流れに呑まれるか、矢に射られる。渡り切ったところで、疲れ切った軍が、待ち構えた敵の高みに突き当たる。それが渡河攻めというものです。ドルカス卿、あなたはご自身の若き日に、その渡河を、対岸から見ておられたはずだ。二十年前の、あの──」

「口を慎め」

ドルカスの声が跳ねた。老いた獣が牙を剥くような一瞬だった。

二十年前の渡河。それは、この国が、いまのカズラと同じ川を、逆に、こちらから渡って攻めたときのことだった。若き日のドルカスは、その渡河の先陣を任され、そして、味方の三割を、対岸に着く前に、流れと矢に、失った。渡り切ったのちも、勝ちはしたが、獲た土地は、翌々年、また奪い返された。奪い、奪われ、また奪う。この国とカズラは、二十年、その川で、そうしてきた。ドルカスは、その二十年を、身をもって知っている。知っているからこそ、彼は、また川を渡れと言う。奪われる前に、奪えと。ヴェレンは、その同じ二十年を、記録の側から見てきた。奪い、奪われるたびに増えていく戦没者の名の、長い長い巻物を、書き足してきた側から。だからこそ、彼は、もう渡るなと言う。

二人の老臣は、同じ二十年を、別の目で見てきた。一方は、剣を握る手で。一方は、筆を握る手で。そのどちらの目も、正しかった。どちらの目も、この国の、真実の一部を、見ていた。それが、この評定を、これほどまでに、動かぬものにしていた。

アルセイは、玉座の脇に立ったまま、その二人を見ていた。

「ドルカス卿」と、アルセイは、初めて口を挟んだ。「二十年前、あなたが渡河でお失いになった三割の兵の名を、あなたは、いまも、覚えておられますか」

ドルカスは、若き宰相を、睨んだ。「──覚えておる。一人残らず」

「ヴェレン卿」と、アルセイは、次に言った。「あなたの記録した、二十年の戦没者の巻物には、何人の名が、記されておりますか」

ヴェレンは、目を伏せた。「一万と、四千と、七百。──三人。数え間違いは、ございませぬ。私は、毎年、正月に、初めから終わりまで、数え直します」

玉座の間が、静まった。ドルカスの覚えている顔と、ヴェレンの数えている名は、同じ死者たちだった。剣の側と、筆の側から見た、同じ、一万四千七百三人。

「──では、なぜ」と、アルセイは、静かに問うた。「同じ死者を知る、お二人が、いま、こうも違うことを、説かれるのです」

答えは、なかった。答えは、この評定の、いちばん深いところにあって、誰も、それを、言葉にはできなかった。

玉座には、王が座っていた。

先王が身罷って、まだ半年である。新しい王は、二十四になったばかりだった。アルセイと同い年だ。二人は幼少のみぎりからともに学んだ。剣も、文字も、天の星の巡りも、同じ師のもとで習った。王が王子であったころ、アルセイはその学友であり、影であった。そしていま、王が王となり、アルセイは宰相となった。

王は、痩せていた。父王に似た顔立ちだが、顎の線がまだ子供のように柔らかい。その柔らかさを、家臣たちは見ている。見て、値踏みしている。玉座の間に集まった三十余人の重臣の目は、みな、王の顔の柔らかさを測っていた。

王は、口を開かなかった。

朝の鐘からこの刻まで、王はただ一度も口を開いていない。主戦派が吼え、和睦派が説き、その応酬が二刻続くあいだ、王はただ、玉座の肘掛けに手を置いて、聞いていた。その手が、時折わずかに動く。指が肘掛けの獅子の彫刻をなぞる。それだけだった。

家臣たちは、王の沈黙を、それぞれに解釈していた。ある者は、王が主戦に傾いていると見た。ある者は、和睦に傾いていると見た。ある者は、王がただ怯えて、何も決められずにいるのだと見た。三十余の目が、三十余の王を、玉座の上に描いていた。

アルセイだけが、知っていた。

王は、決めかねているのではない。王は、決める前の、あの、いちばん暗い部屋の中に一人でいるのだ。答えを出さねばならぬと知りながら、どちらの答えも人を殺すと知っている、あの部屋に。アルセイはその部屋を知っていた。なぜなら、幼いころ、王が王子であったころ、二人でよくその話をしたからだ。

「いつか、私は人を死なせる」

十六の王子は、城の高い塔の上で、そう言ったことがある。星の見える夜だった。「王とは、そういうものだと父上は言う。王の一言で、畑を耕していた男が槍を持たされ、川の向こうで死ぬ。王が悪くなくても、男は死ぬ。王が善くても、男は死ぬ。私は、その男の顔を、一生知ることがない」

「ならば」と、十六のアルセイは答えた。「あなたがその男の顔を、忘れずにいればよい。知らずとも、忘れずにいる。それだけでも、違うのではありませんか」

「忘れずに」王子は、繰り返した。夜風が、塔の上を、渡っていった。「知らぬ顔を、どうやって、忘れずにいる」

「顔でなくてもよいのです」と、アルセイは言った。「その男が、畑を耕していたことを。妻がいて、子がいて、雨を待ち、麦を刈っていたことを。名は知らずとも、その暮らしを、忘れずにいる。──王が一人、その暮らしを覚えているというだけで、死んだ男は、数の中に、消えてしまわずに済む。一万四千のうちの一人、ではなくなる。一人の、暮らしを持った男に、戻る」

王子は、しばらく黙っていた。それから、こう言った。「そなたは、私より、王に向いているかもしれぬな」

「いいえ」と、アルセイは、即座に、答えた。強く、答えすぎたかもしれない。「私は、王には、向きませぬ。私は、覚えていることは、できます。数えることも、できます。ですが、決めることは──できませぬ。私は、どちらとも、決められぬ質です。あなたのように、たった一人で、選ぶことができぬ。だから、私は、あなたの、そばにいるのです。あなたが決め、私が覚える。それが、私たちの、役目です」

若かった。二人とも、若かった。だが、その夜、アルセイが言ったことは、のちに、恐ろしいほど、真実になった。彼は、決められぬ質だった。だからこそ、彼は、王を、一人にする道を、選ぶことになる。決められぬ者が、決められる者を、決めさせる。そのために、身を引くという、ただ一つの、決断だけを、彼はすることになる。

いま、玉座の間の白い光の中で、アルセイはその夜のことを思い出していた。あのとき交わした言葉が、いま、現実の刃となって、王の喉もとに突きつけられている。畑を耕していた男。川の向こうで死ぬ男。その男は、いま、幾万といた。

「宰相」

王が、初めて口を開いた。

玉座の間が、しんと静まった。二刻の応酬のあいだ一度も発せられなかった声が、いま、白い光の中に落ちた。低い、しかし澄んだ声だった。

「宰相アルセイ。そなたは、どう見る」

アルセイは、玉座の前に進み出た。石畳を踏む自分の足音が、天井まで昇って、跳ね返ってくるのが聞こえた。彼は片膝をつき、頭を垂れた。

三十余の目が、いま、アルセイに向いている。ドルカスの目。ヴェレンの目。主戦の目と、和睦の目。そのすべてが、若き宰相の口もとを見ていた。

アルセイは、頭を垂れたまま、しばし黙した。

彼は、答えを持っていた。持っていたが、その答えは、彼のものではなかった。──いや、彼のものであった。彼のものであったからこそ、恐ろしかった。

「陛下」と、アルセイは言った。「お答えする前に、一つ、お尋ねしてよろしゅうございますか」

「申せ」

「この評定は、正午の鐘までに決するとのご定め。それは、なにゆえでございましょう」

家臣たちが、ざわめいた。宰相が王に問い返すなど。しかも、そのような分かりきったことを。カズラへの使者は、正午に発つ。開戦の狼煙は、正午に上がる。どちらにせよ、刻限は正午と決まっている。それは全員が知っていた。

だが、アルセイは、それを問うたのではなかった。

王は、少し目を細めた。学友の顔を、玉座の上から見下ろした。二人のあいだにだけ通じる何かが、白い光の柱を貫いて、ひとすじ、走った。

「影が、消えるからだ」と、王は言った。

家臣たちの、ざわめきが止まった。

「古い言い伝えだ」と、王は続けた。「正午、影が消える一瞬、人は嘘をつけぬ。神の目が、まっすぐ頭上から差すゆえに。──父上は、大きな決めごとは、必ず正午になさった。この間で。この光の中で。ご自分に、嘘をつかぬために」

王は、玉座の肘掛けから、片手を上げた。

その手には、手袋がはめられていた。片方だけの、古い革の手袋だ。左手にだけ、それははめられていた。右手は、素手だった。

アルセイは、その手袋を知っていた。それは、先王の手袋だった。先王がいつも左手にだけはめていた、なめし革の手袋。右手の対は、とうに失われていた。いつ、どこで失くしたのか、誰も知らない。先王はただ、片方だけの手袋を、生涯、左手にはめ続けた。そして、身罷るとき、その片方を、王子に遺した。

「父上は」と、王は言った。手袋の甲を、素手の指でなぞりながら。「この手袋を、片方だけ、はめておられた。私が幼いころ、なぜ片方だけなのかと尋ねたことがある。父上は、こうお答えになった。──『王の手は、二つあってはならぬ。一つの手で決め、もう一つの手で、その決めたことの重さを、直に握るためだ。守られた手で決め、裸の手で悔いる。両方が守られていては、王は、何も感じなくなる』と」

王は、素手の右の掌を、開いた。白い光が、その掌の皺の一本一本を照らした。

「私は、この裸の手で、いまから、幾万の命の重さを握る」

家臣たちのあいだに、かすかな、動揺が走った。片方だけの手袋のいわれを、はっきりと語る王を、彼らは、初めて見た。先王は、生涯、そのわけを、家臣には語らなかった。誰もが、なぜ王が片方だけ手袋をはめているのか、いぶかりながら、しかし、尋ねる勇気は、なかった。その謎が、いま、若い王の口から、明かされていた。それは、王が、亡き父の場所に、確かに、立ったということでもあった。父の手袋を継ぐとは、父の謎を、継ぐことでもあったのだ。

「陛下」と、老将ドルカスが、しわがれた声で言った。「畏れながら。先王は、その裸の手で、二十年前、渡河をお決めになりました。あの渡河を、お命じになったのは、先王でございます。先王は、裸の手で、あの一万四千を、握られた。──ならば、先王は、いかにして、その重さに、耐えておられたのか。私は、いまも、それを、知りませぬ」

王は、老将を、見た。

「耐えては、おられなかった」と、王は、言った。「父上は、あの渡河ののち、生涯、夜、よく眠れなかった。私は、幼くして、それを、見ていた。父上は、真夜中に、しばしば、この玉座の間に、一人で、おられた。灯もつけずに。──何をしておられたのか、私は、長いこと、分からなかった。だが、いまは、分かる。父上は、握っておられたのだ。あの、裸の手で、二十年前に握った重さを、真夜中に、握り直しておられたのだ。忘れぬために。慣れぬために」

王の声が、一段、低くなった。

「王とは、そういうものだ、ドルカス。耐えるのではない。忘れぬのだ。眠れぬまま、握り続けるのだ。──私も、これから、眠れぬ夜を、持つのであろう。父上のように」

正午まで、あと四半刻。

高窓から落ちる七本の光の柱が、少しずつ、傾きを立てていった。もっとも垂直に近づいていく。石畳の上の光の斑が、真円に近づいていく。

アルセイは、頭をあげた。

「陛下。では、お答え申し上げます」

彼は、立ち上がった。玉座の間の中央、七本の光の柱のあいだに立った。彼の影は、いまや、足もとに小さく縮んで、ほとんど点になっていた。

「私は──」

言いかけて、彼は、窓を見た。

高窓の一つ、いちばん東の窓の向こう、白く灼ける真昼の空に、それがあった。

蒼い、一点。

真昼の空は、白い。目を灼くほどに白い。そこには何もないはずだった。太陽のほかには、何も。だが、その東の窓の向こう、白い空の高みに、目を凝らせばそれと分かる、蒼白い一点が、あった。まるで、白い布の上に、一滴だけ落ちた藍のように。

ミラ、と誰かが言った。

「ミラ彗星でございます」

言ったのは、天文の役を司る老臣だった。「昨夜来、宵の空を昇っておりました。まさか、真昼の空にまで見えるとは。あれほど明るく尾を引く彗星は、百年に一度と申します」

「凶兆だ」と、ドルカスが言った。「彗星は、剣の星。天が、戦を促しておられる。あの蒼き尾は、川を渡る我が軍の旗印。天意は、開戦にあり」

「否」と、ヴェレンが言った。「彗星は、涙の星。天が、これから流れる血を、あらかじめ悼んでおられる。あの蒼き尾は、死者の列。天意は、和睦にあり。真昼にすら見えるほど泣いておられるのだ」

同じ一点の蒼い星を、一方は剣と読み、一方は涙と読んだ。玉座の間が、ふたたび、二つに割れてざわめいた。天の一点をめぐって、地の三十余人が争った。

アルセイは、その蒼い星を、見ていた。

彼は、昨夜、それを見ていた。眠れぬ夜だった。この評定の答えを、彼はもう持っていた。持っていたからこそ、眠れなかった。城の高い塔にのぼって、彼は夜明けまで空を見ていた。そして、明け方、東の空が白みはじめるころ、その蒼い彗星が、消えゆく星々のなかで、最後まで、ひとつだけ、蒼く燃えていたのを見た。

夜が明けても消えぬ星。

そのとき、塔の上で、アルセイは、奇妙なことを、感じた。あの蒼い星が、彼を、見返しているような気がしたのだ。天のいちばん高いところから、まっすぐに、彼の頭上を、見下ろしているような。星は、何も言わなかった。剣とも、涙とも。ただ、蒼く、そこに、あった。人がどれほど争おうと、天の一点は、動かなかった。人の解釈を、超えて、それは、ただ、在った。

アルセイは、そのとき、悟りかけていた。もし、あの星に、何か意味があるとすれば、それは、剣でも涙でもなく、ただ、「見ている」ということだけなのだ、と。天は、決めない。天は、ただ、見ている。決めるのは、その天の下に立つ、人だ。星は、審判ではない。星は、証人だ。若き王が、たった一人で、選ぶ、その一瞬の、ただ一つの、証人。

いま、その星は、真昼の白い空にすら、消えずにいた。証人は、まだ、そこに、いた。

アルセイは、思った。天は、剣とも涙とも言ってはいない。天は、ただ、そこにある。人が、剣と読み、涙と読む。星は、ただ、蒼い。読むのは、人だ。決めるのは、人だ。天ではない。

「陛下」

アルセイは、蒼い星から目を離し、玉座を見た。

「あの星が、吉か凶かは、私には分かりませぬ。剣とも、涙とも、読めましょう。されど──」

彼は、一拍、置いた。

「決めるのは、星ではございませぬ。決めるのは、この間におられる、ただ一人でございます」

正午まで、あと少し。

アルセイは、語り始めた。彼の声は、静かだった。だが、その静かさが、かえって、玉座の間の隅々の耳を、彼のほうへ引き寄せた。

「主戦を説く方々の言は、正しゅうございます」と、彼は言った。ドルカスが、意外そうに眉を上げた。「カズラは川向こうに兵を集めております。冬を越せば、雪解けとともに来るやもしれませぬ。先んじて川を渡り、対岸の高みを取れば、あるいは、勝てましょう。あるいは。──兵法のうえでは、ドルカス卿の言に、誤りはございませぬ」

彼は、次に、西の列を見た。

「和睦を説く方々の言も、正しゅうございます」と、彼は言った。ヴェレンが、静かに頷いた。「川を渡る攻めは、三割を流れに失います。渡り切ったところで、疲れ切った軍が、待ち構えた敵に突き当たる。勝てるとしても、その勝ちのために、幾万が死にましょう。使者を立て、川を境と定め、貢を交わして事を収めれば、一人も死なずに済むやもしれませぬ。──政のうえでは、ヴェレン卿の言に、誤りはございませぬ」

「では、そなたは、どちらを──」

ドルカスが、身を乗り出した。

「両方が正しいのです、卿」

アルセイは、そう言って、老将を見た。

「これが、この決めごとの、いちばん恐ろしいところにございます。もし、一方が正しく、一方が誤りであれば、決めるのは易い。誤りを退け、正しきを取ればよい。されど、両方が正しいとき、王は、正しさによっては決められませぬ。二つの正しさのあいだで、王は、たった一人で、選ばねばならぬ。どちらを選んでも、正しく、そして、どちらを選んでも、人は死ぬ」

玉座の間は、静まりかえっていた。白い光の柱が、いよいよ垂直に近づいていく。

「兵法を極めても、答えは出ませぬ。政を極めても、答えは出ませぬ。天の星に問うても、剣とも涙とも読めるばかり。──では、何が、この決めごとを決めるのか」

アルセイは、玉座に向き直った。王の、片方だけの手袋を見た。

「決めるのは、王が、何を、いちばん恐れるか。それだけにございます」

王は、玉座の上で、身じろぎもせずに聞いていた。

アルセイは、続けた。

「主戦を選ぶ王は、いま討たねば、いずれ攻められることを恐れております。国が滅び、民が異国の軛につながれることを恐れております。その恐れは、正しい。和睦を選ぶ王は、いま川を渡れば、渡る兵が死ぬことを恐れております。勝っても負けても、幾万の骸が川を埋めることを恐れております。その恐れも、正しい。──二つの恐れが、いま、この間で、せめぎ合っております」

彼は、声を落とした。

「そして、王の恐れの底には、もう一つ、いちばん深い恐れがございます」

王の指が、手袋の甲の上で、止まった。

「それは、──いつか、この決めごとを、忘れてしまうことへの、恐れにございます」

白い光の中で、アルセイの声だけが響いた。

「王は、幾万の命を、この間で握ります。されど、命を握った手は、やがて、その重さに慣れます。二度めの決めごとは、一度めより、軽くなります。三度めは、もっと軽く。人を死なせることに慣れた王は、もはや、恐れませぬ。恐れぬ王は、易々と決めます。易々と決める王のもとで、民は、無限に死にます。──それが、いちばん恐ろしいことにございます。先王が、片方の手を裸のままにしておかれたのは、そのためでございましょう。決めるたびに、裸の手で、命の重さを、直に握るために。慣れぬために。忘れぬために」

アルセイは、片膝をついた。

「陛下。私は、陛下に、開戦をお勧めもいたしませぬ。和睦をお勧めもいたしませぬ。私が申し上げられるのは、ただ一つ。──どちらを選ばれても、選んだその重さを、決して、お忘れなきよう。裸の手で、握られますよう。それだけにございます」

玉座の間は、静まっていた。

ドルカスが、口を開こうとして、開けなかった。ヴェレンが、目を伏せた。三十余の家臣は、みな、若き宰相の言葉の前で、それぞれの主戦と和睦を、いっとき、忘れていた。

「宰相」

王が、言った。

「そなたは、答えを持っている。私には、分かる。幼きころから、そなたの顔は、私に嘘をつけぬ。そなたは、開戦か、和睦か、どちらがよいと思うている。それを、いま、言わずにいる。──なぜだ」

アルセイは、頭を垂れた。

長い沈黙があった。高窓の光の柱が、床の上で、真円に近づいていく。もう、ほとんど、正午だった。

「陛下」と、アルセイは、ようやく言った。「私が、答えを申し上げれば、陛下は、それにお従いになりましょう。幼きころから、私たちは、そうしてまいりました。あなたが迷えば、私が答え、あなたが従う。剣の稽古も、文字の書き取りも、星の名を覚えるのも。──私は、あなたの、もう一つの手でございました。守られた、手袋のほうの手」

彼は、顔をあげた。

「されど、いまは、なりませぬ。この決めごとだけは、なりませぬ。もし、私が答え、陛下がお従いになれば、この決めごとの重さは、二つに分かれます。半分は、陛下の手に。半分は、私の手に。二人で分け持てば、一人の手にかかる重さは、半分になります。軽くなります。──軽くなれば、忘れます。忘れれば、慣れます」

アルセイの声が、震えた。初めて、震えた。

「陛下。あなたは、たった一人で、この重さを握らねばなりませぬ。私に、分けてはなりませぬ。誰にも、分けてはなりませぬ。それが、王の、孤独にございます。私が、あなたの手であることを、いま、やめねばならぬ理由にございます。──私は、あなたを、一人になさねばなりませぬ」

王は、玉座の上で、長いあいだ、若き宰相を、見つめていた。恨みとも、痛みとも、あるいは、感謝ともつかぬ、複雑な色が、その若い顔を、よぎった。かつて塔の上で、星を見ながら、いつか人を死なせると言った、あの少年の顔が、いっとき、そこに、戻ってきた。そして、消えた。

「そなたは」と、王は、しぼり出すように、言った。「私を、突き放すのか」

「はい」と、アルセイは、答えた。声は、揺るがなかった。揺るがぬように、彼は、全身の力を、こめていた。「私は、陛下を、突き放します。これが、私にできる、ただ一つの、進言でございます。私は、開戦とも、和睦とも、進言いたしませぬ。私は、ただ、『あなた一人で、お決めなさい』と、進言いたします。それが、私の、最後の役目にございます」

「最後の」

「はい。この進言を終えれば、私は、もはや、宰相ではございませぬ。あなたの手であることを、やめた者は、あなたの宰相では、おられませぬ」

白い光の柱が、垂直になった。

石畳の上の、七つの光の斑が、真円になった。柱の影が消え、家臣たちの影が消え、王の玉座の影が消え、アルセイの、足もとの点のような影さえ、消えた。

正午だった。

影の、ない、一瞬。

その一瞬、玉座の間には、影がなかった。

天の光は、まっすぐ頭上から差していた。誰の顔にも、影がなかった。ドルカスの、皺の深い顔にも。ヴェレンの、灰色の頬にも。三十余の家臣の、誰の顔にも、翳りがなかった。白い光が、すべてを、平らに照らしていた。嘘の、つけぬ光だった。

王は、玉座から、立ち上がった。

半年前に王となってから、玉座で立ち上がった王を、家臣たちは、初めて見た。若い王は、痩せていた。顎の線は、まだ柔らかかった。だが、その一瞬、立ち上がった王には、影がなかった。影がないゆえに、その顔は、年齢を失っていた。二十四にも、四十にも、六十にも見えた。父王の顔にも、見えた。

王は、片方だけ手袋をはめた左手を、胸にあてた。そして、裸の右手を、まっすぐ、前へ差し出した。

「聞け」

その声は、朝からのどの声とも違っていた。低く、澄み、そして、揺るがなかった。

「開戦は、せぬ」

ドルカスが、息を呑んだ。

「和睦も、せぬ」

ヴェレンが、顔をあげた。

玉座の間が、どよめいた。開戦せず、和睦せず。では、何を。

王は、差し出した裸の右手を、握った。空を、握るように。何もない空を、掌の中に握りしめた。

「使者を立てる。だが、貢を差し出す使者ではない。川を、二国の境と定め、両国の民が、その川で、ともに漁をし、ともに水を引くことを、カズラの王に、申し入れる。──川を、奪い合う境ではなく、分かち合う境と、する」

「陛下、それは──」ドルカスが、声を絞り出した。「それは、和睦でございましょう。名を変えただけの」

「否だ、ドルカス」王は、老将を見た。「和睦は、戦を、先延ばしにする。次の冬まで。次の雪解けまで。貢を差し出せば、向こうは、いっそう欲を出す。和睦とは、そういうものだ。そなたが恐れているのは、それであろう。弱きを見せれば、いつか呑まれる、と。──そなたの恐れは、正しい」

王は、次に、ヴェレンを見た。

「川を渡れば、三割が死ぬ。渡り切っても、幾万が死ぬ。勝っても、負けても。そなたが恐れているのは、それだ。ヴェレン。──そなたの恐れも、正しい」

王は、両の恐れを、その裸の手の中に、握った。

「私は、その二つの恐れを、どちらも、退けはせぬ。私は、二つの恐れを、抱いたまま、進む。川を、境とする。だが、貢は、出さぬ。弱きは、見せぬ。川を分かち合う代わりに、我が国とカズラは、互いに人質を交わす。私の妹を、カズラへ。カズラの王子を、我が国へ。血を、交ぜる。血を交ぜた二国は、たやすくは、戦えぬ。──五年で、川辺に、両国の市を立てる。十年で、川を渡る橋を架ける。橋は、軍が渡れば攻めの道だが、民が渡れば、交わりの道だ。私は、橋を、交わりの道にする」

王の声が、白い光の中で、響いた。

「これは、和睦ではない。これは、戦の、別のやり方だ。剣を使わぬ、戦だ。剣で川を奪えば、来年また奪い返される。だが、血と、市と、橋で川を分かち合えば、百年、奪い合わずに済むやもしれぬ。──私は、その、百年に、賭ける」

家臣たちは、沈黙していた。

それは、主戦派の求めた答えではなかった。和睦派の求めた答えでもなかった。どちらでもなく、そして、どちらの恐れをも、抱いた答えだった。

「されど、陛下」と、ヴェレンが、静かに言った。「人質を交わし、血を交ぜ、市を立て、橋を架ける。──その百年のあいだに、和議が破れれば。人質は殺され、市は焼かれ、橋は攻めの道となりましょう。陛下の賭けは、外れるやもしれませぬ」

「外れるやもしれぬ」王は、頷いた。「そのとき死ぬ者は、いま川を渡って死ぬ者より、多いやもしれぬ。私は、それを、知っている」

王は、裸の右手を、開いた。掌を、家臣たちに、見せた。

「私は、この手で、いま、幾万の命を握った。開戦を選べば、来春、川で死ぬ者。和睦を選べば、次の冬、呑まれて死ぬ者。私の選んだ道を選べば、百年後、橋のうえで死ぬやもしれぬ者。──どの道を選んでも、誰かが、死ぬ。私は、死なぬ道を、選んだのではない。私は、いちばん、忘れずにいられる道を、選んだ」

王は、片方だけの手袋の、左手を、見た。

「川を境とし、血を交ぜ、橋を架けるまでには、長い年月がかかる。その年月のあいだ、私は、毎日、この決めごとを、握り続けねばならぬ。一瞬で剣を抜くのとは違う。百年、握り続ける。忘れれば、崩れる。慣れれば、崩れる。私は、この裸の手を、百年、裸のままにしておく。──父上が、そうであったように」

王は、玉座の間を、見渡した。三十余の、影のない顔を。

「ドルカス。そなたは、私の剣であれ。橋が攻めの道に変わろうとするとき、まっさきに、それを見抜く目であれ。ヴェレン。そなたは、私の秤であれ。私が、この決めごとを、忘れかけたとき、その重さを、私に思い出させる声であれ。私は、そなたたちを、退けはせぬ。私は、そなたたちの、二つの恐れを、そばに置いておく。恐れを、忘れぬために」

正午の鐘が、鳴った。

城の塔で、大鐘が、正午を告げた。一つ、二つ、と、鐘は、玉座の間の石の壁を、震わせた。

高窓の光の柱が、もっとも垂直な一瞬を過ぎて、ふたたび、わずかに、傾きはじめた。石畳の上の光の斑が、真円から、また少しずつ、楕円へと崩れていく。

そして、影が、戻ってきた。

柱の影が、家臣たちの影が、玉座の影が、床の上に、ふたたび、生まれた。アルセイの足もとにも、小さな影が、戻ってきた。影は、東へ、ほんのわずかに、伸びはじめた。真昼が、過ぎたのだ。日輪が、天の頂を過ぎて、西へ、傾きはじめたのだ。

影のない一瞬は、終わった。

嘘をつけぬ光は、去った。あとには、また、影のある、人の世が、戻ってきた。人が嘘をつき、迷い、悔い、慣れ、忘れる、いつもの世が。

だが、その戻ってきた影のなかで、王は、まだ、裸の右手を、開いたまま、立っていた。

アルセイは、その手を、見ていた。

彼は、ついに、自分の答えを、言わずに済んだ。彼は、開戦か和睦か、どちらがよいと思っていたのか。──いや、彼は、いま、悟った。自分は、どちらとも、思っていなかったのだ。彼が、ほんとうに恐れていたのは、王が、易々と決めることだった。誰かに答えを分けて、軽く決めることだった。若き王が、若き宰相に寄りかかって、命の重さを、二人で分け合ってしまうことだった。

彼は、答えを持っていたのではなかった。彼は、王を、一人にする覚悟を、持っていたのだ。それが、いちばん、恐ろしい答えだった。

そして、王は、一人で、決めた。開戦でも、和睦でもない、第三の道を。誰にも寄りかからず、二つの恐れを、裸の手で握ったまま。

アルセイは、玉座の前で、深く、頭を垂れた。

家臣たちが、退出したのち、玉座の間には、王と、宰相の、二人だけが残った。

高窓の光は、もう、傾いていた。七本の光の柱は、少しずつ、床の上を、東へ、這いはじめていた。午後の、始まりだった。

「アルセイ」

王が、玉座に、腰を下ろした。立ち上がっていたときの、年齢を失った顔は、消えていた。ふたたび、二十四の、痩せた、顎の柔らかい若者が、そこにいた。学友の顔だった。

「疲れた」と、王は言った。

「陛下」

「よせ。二人のときは、よせ。──昔のように、呼べ」

アルセイは、しばし黙し、それから、幼いころの呼び名で、王を呼んだ。塔の上で、星を見ながら、二人でよく呼び合った、あの名で。

王は、微かに、笑った。

「そなたは、私を、一人にした」と、王は言った。「玉座の前で、そなたが、答えを言わぬと決めたとき、私は、そなたを、恨んだ。なぜ、助けてくれぬのかと。幼きころから、そなたは、いつも、私に答えをくれた。剣も、文字も、星も。──そなたが、答えを言わぬと決めたとき、私は、生まれて初めて、たった一人になった」

「陛下」

「だが」王は、続けた。「一人にならねば、決められなかった。そなたに寄りかかっていれば、私は、開戦か和睦か、そなたの言う方を選び、そして、いつか、それを、悔いたであろう。そなたのせいに、したであろう。──一人で決めたゆえに、私は、これを、誰のせいにも、できぬ。この決めごとは、私のものだ。百年、私のものだ。重い。重いが、これは、私のものだ」

王は、片方だけ手袋をはめた、左手を、見た。それから、裸の、右手を、見た。

「父上は、なぜ、片方だけ、手袋をはめておられたか。私は、いま、分かった気がする。守られた手と、裸の手。決める手と、握る手。──だが、それだけではない。片方だけの手袋というのは、対になるべきものが、失われた、ということだ。父上の右の手袋は、失われた。いつ、どこでかは、知らぬ。誰も知らぬ。だが、失われたゆえに、父上は、裸の右手を、持たれた。──失われたことが、裸の手を、生んだ」

王は、アルセイを、見た。

「そなたは、私にとって、失われた片方だ、アルセイ。そなたは、私の、もう一つの手であった。守られた、手袋のほうの手であった。だが、そなたは、今日、自ら、失われた。私から、離れた。私を、裸の手にした。──そなたが失われたゆえに、私は、王になれた」

アルセイは、何も、言えなかった。

その日の夕、アルセイは、城を出た。

彼は、宰相の任を、退いた。王は、それを、止めなかった。二人は、それが、正しいことだと、知っていた。宰相が、あまりに王に近ければ、王は、また、寄りかかる。命の重さを、また、分け合ってしまう。だから、アルセイは、去る。王を、一人にしておくために。

王は、アルセイに、一つのものを、贈った。

先王の、片方だけの手袋の、対を。──いや、対は、失われていた。だから、王が贈ったのは、新しく仕立てさせた、右の手袋だった。先王の左の手袋と、同じ革で、同じ職人に、仕立てさせた、右の手袋。

「これを、そなたに」と、王は言った。「父上の左の手袋は、私が持つ。この右の手袋は、そなたが持て。二つは、別々の場所にあって、決して、対にはならぬ。だが、同じ革だ。同じ手だ。──そなたが、どこにあっても、これを見れば、私を、思い出すであろう。私が、この左の手袋を見れば、そなたを、思い出すように。私たちは、片方ずつ、持つのだ。決して、そろわぬ、片方ずつを」

アルセイは、その右の手袋を、受け取った。

彼は、城門を出て、夕暮れの道を、歩いた。西の空が、赤く、焼けていた。真昼の、白い光は、もう、なかった。影は、長く、東へ、伸びていた。人の、悔い、迷い、忘れる、いつもの、夕暮れが、戻っていた。

彼は、ふと、空を、見上げた。

東の空、暮れゆく紺のなかに、あの、蒼い一点が、まだ、あった。ミラ彗星。真昼の白い空にさえ消えなかった星は、夜の来る空に、いっそう、蒼く、燃えていた。長い尾を、西へ、引いていた。

剣か、涙か。アルセイは、もう、問わなかった。

星は、ただ、蒼い。読むのは、人だ。決めるのは、人だ。

彼は、懐から、右の手袋を、取り出した。夕日にかざした。新しい革が、赤い光を、吸った。この手袋は、決して、対の左とそろうことはない。城には、左だけがあり、彼の手には、右だけがある。片方ずつを、二人は、持つ。

それから、幾年もが、過ぎた。

川は、境となった。人質が、交わされ、血が、交ざった。五年目に、川辺に、市が立った。両国の民が、その市で、魚を売り、麦を売り、言葉を交わした。十年目に、橋の、最初の石が、据えられた。

戦は、起きなかった。

いや──幾度も、起きかけた。橋が攻めの道に変わろうとしたことも、市が焼かれかけたことも、人質が殺されかけたことも、あった。そのたびに、老将ドルカスの目が、それを見抜き、書記長ヴェレンの声が、王に、あの日の決めごとの重さを、思い出させた。王は、忘れなかった。慣れなかった。毎日、裸の右手で、あの日握った、幾万の命の重さを、握り直した。

とりわけ、危うい年が、あった。橋の、なかばまで石が積まれたころのことだ。カズラの側で、王が代替わりし、若い、血の気の多い王が、立った。その新王は、橋を、攻めの道と見た。半ば架かった橋を渡って、一気に、こちらへ攻め込もうとした。国境の市に、火の手が上がった。人質として送られていた、王の妹の身も、危うかった。

主戦を説く声が、ふたたび、玉座の間に、満ちた。今度こそ川を渡れ、橋を焼き払い、こちらから攻めよ、と。あの日、開戦を退けた王の判断が、間違っていたのだと、なじる声さえ、あった。

王は、そのとき、老いていた。だが、あの日と同じように、正午に、評定を開いた。同じ、高窓の下で。同じ、白い光の柱の中で。そして、影の消える一瞬に、王は、また、立ち上がった。

「橋を、焼くな」と、王は言った。「橋は、こちらの造ったものだ。焼くなら、向こうに、焼かせよ。橋を焼いた者が、和を破った者だ。天下に、それを、知らしめよ。──そして、妹を、返せと、カズラの新王に、伝えよ。妹は、人質ではない。妹は、二国のあいだに架けた、もう一つの橋だ。石の橋を焼こうとも、血の橋は、焼けぬ。妹の子は、カズラの王の、甥である。甥を攻める叔父は、ないと、伝えよ」

王は、あくまで、開戦しなかった。あくまで、川を、境のまま、保った。カズラの新王は、結局、橋を焼かなかった。焼けば、みずからが和を破った者となることを、恐れたのだ。火の手は、収まった。妹は、返されなかったが、殺されもしなかった。そして、その新王も、やがて、老いて、静まった。橋は、また、少しずつ、積み上げられていった。

危うい一瞬は、いくたびも、あった。だが、そのたびに、王は、あの日の裸の手を、思い出した。忘れなかったから、崩れなかった。慣れなかったから、崩れなかった。

王は、生涯、片方だけの手袋を、左手にはめ続けた。

そして、遠い地で、かつての宰相アルセイもまた、片方だけの手袋を、持ち続けた。彼は、それを、はめなかった。ただ、持っていた。時折、取り出しては、眺めた。決して、対とそろわぬ、右の手袋を。それを見るたびに、彼は、あの正午の、影のない一瞬を、思い出した。白い光の柱が、垂直になり、すべての影が消え、若き王が、たった一人で、玉座から、立ち上がった、あの一瞬を。

伝えによれば、王が身罷ったのは、ある夏の、正午であったという。

王は、老いていた。だが、最期まで、あの片方だけの手袋を、左手にはめていた。裸の右手を、開いたまま、王は、息を引き取った。何かを、握ろうとするように、あるいは、握っていたものを、手放すように、開いたままの、裸の右手で。

その正午、影は、なかった。

そして、その夏、白く灼ける真昼の空に、ふたたび、蒼い一点が、見えたという。百年に一度、真昼にすら見えるほど明るく尾を引く、あの彗星が。人々は、それを、王の魂が、天を渡っていくのだと言った。ある者は、剣の星だと言い、ある者は、涙の星だと言った。だが、その二つを争う声は、もう、いつまでも、続きはしなかった。

なぜなら、王の治世の百年に近い年月、川では、戦がなかったからだ。

かつての宰相アルセイの、晩年について、確かなことは、伝わっていない。

ただ、一つの話がある。

彼が、まだ生きていたころ、ある町の、夜だけ現れる古書店に、一人の老人が、迷い込んだという。その店は、夜に現れ、朝には消える、月光書房という名の店だった。書棚のあいだに、青いマッチ箱が一つ、置かれていた。月光堂の、青いマッチ箱だ。店の奥では、誰かが、低い声で、子守唄を、うたっていた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

その老人は、書棚のあいだで、一冊の、古い書物を、見つけた。それは、ある国の、ある王の治世を記した、年代記であった。その年代記の、いちばん初めの頁に、こう、記されていたという。

──ある正午、影の消えた一瞬に、若き王は、たった一人で、選んだ。

老人は、その頁を、長いこと、見つめていた。それから、懐から、片方だけの、古い革の手袋を、取り出して、その書物の、上に、置いた。

そして、店の主人に、言ったという。

「この手袋の、対は、遠い城に、ある。私は、それと、決してそろわぬ片方を、生涯、持ってきた。だが、いま、思う。──そろわぬ、ということが、私たちが、それぞれの手で、それぞれの重さを、握ってきた、ということなのだ、と」

夜が明けると、月光書房は、消えていた。

青いマッチ箱も、子守唄も、老人も、消えていた。ただ、朝の光が、白く、その場所を、照らしていた。影の、短くなりはじめる、真昼へ向かって。

そして、東の、白みゆく空の高みに、蒼い一点が、夜の最後の星として、ひとつだけ、消えずに、燃えていた。夜が明けても、消えぬ星が。読む者によって、剣とも、涙とも、変わる星が。

だが、その星を、剣と読むか、涙と読むかは、もはや、天の決めることではなかった。

それは、いつも、頭上に光の差す、たった一人の、選ぶことだった。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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