秤の刻
影というものは、たいてい、失ってはじめてその重さを知る。
これは、その重さを量りにかけた男の話である。町の年寄りは今でも、正午の鐘が十二を打ちおわったあとの、あのわずかな無音の間を「秤の刻」と呼ぶ。針が水平になり、天と地とがどちらへも傾かず、世界がいっとき息をとめる、あの一瞬のことである。むかし、その一瞬に、影を賭けて勝負をした男がいたからだ。
男の名は、レーヴィといった。もう名を憶えている者は少ない。憶えていても、口にはしない。名を呼べば、正午に、その者の足もとの影が、ほんのわずか短くなる気がするからだ。
一
レーヴィは日時計を作る職人であった。
町の広場の中央に据えられた石の日時計も、教会の壁にはめこまれた青銅の目盛りも、市長邸の中庭にある大理石の盤も、みな彼の手によるものだった。彼は影を測ることで暮らしを立てていた。棒を一本、正しい角度で立て、その落とす影の先を石に刻む。朝の影は西へ長く伸び、正午に向かって北へ縮み、午後にはふたたび東へ伸びていく。影が語る時刻には、一分の狂いもなかった。人々は彼を「影読みのレーヴィ」と呼んだ。
日時計を据えるのは、たやすい仕事ではなかった。棒――職人はそれを「陰針」と呼んだ――を立てる角度は、その土地の緯度によって、髪の毛一本ほども違えてはならなかった。少しでも傾きを誤れば、影は嘘をつく。朝を昼と言い、昼を夕と言う。だからレーヴィは、新しい日時計を据えるとき、まる一日、いや幾日も、その場に立ちつくして、影の動きを見張った。夜明けの、まだ薄墨のような影から。天のいちばん高い刻の、点のように縮んだ影を経て。日の沈むころの、地の果てまで届きそうな長い影まで。彼はそれを、根気よく、石の上に、刻んでいった。人の一生を刻むよりも、なお、根気のいる仕事だった。
若いころ、彼はそれを、美しい仕事だと思っていた。光そのものは、つかむことも、留めることも、刻むこともできない。だが、その光が地に落とす影ならば、刻める。移ろいゆく時を、動かぬ石の上に留めておける。目に見えぬものを、目に見えるものへと、翻訳してやれる。それは、ほとんど、魔法のように思われた。
だが、歳月は、魔法を、ただの手仕事に変えてしまう。
彼はよい職人だった。だが、よい職人であることに、彼はもう飽きていた。
「影を測って何になる」と、あるとき彼は弟子に言った。まだ若い、手先の器用な弟子だった。「わたしは日の光を、影に翻訳してやっているだけだ。影は主人ではない。太陽の召使いにすぎん。召使いの背丈を刻んで、それを一生の仕事と呼ぶ。ばかばかしいとは思わんか」
弟子は答えなかった。彼は主人が近ごろ、正午になると仕事の手を止め、自分の足もとを、妙な目つきで見おろすのに気づいていた。
正午――影がいちばん短くなるとき。棒の真下に、影がわずかに、黒い染みのように縮こまるとき。その一点を、レーヴィはじっと見つめるのだった。まるでそこに、なにか秘密が埋まっているとでもいうように。
「あれを見ろ」と、ある正午、レーヴィは弟子に言った。空を指していた。真昼の空は白く灼けて、目を開けているのがやっとだった。「あそこに、星がある」
弟子は目を細めた。まぶしさに涙がにじんだ。だが、たしかに――白く灼けた天のいちばん高いところに、ほんの一点、蒼いものがあった。針の先で突いたほどの、蒼い一点。真昼の光にも消えず、そこにだけ、夜のかけらが取り残されていた。
「ミラ、というそうだ」とレーヴィは言った。「長い尾を引く彗星だ。明け方にはよく見える。だが、あれが真昼に見えるのは、幾百年に一度のことだと聞いた。今がその年らしい。――弟子よ、おかしいとは思わんか。真昼だぞ。すべての星が光に負けて消える刻だ。それなのに、あれだけが消えずにいる。あれには影がない。それでいて、あそこにいる」
弟子には、主人が何を言いたいのか分からなかった。
弟子は、答えに詰まった。彼は、影があるからこそ、日時計は時を刻めるのだ、と言いたかった。影がなければ、主人の一生の仕事も、成り立たぬではないか、と。だが、そう言えば主人を怒らせるような気がして、口をつぐんだ。
「わたしは、いつも思うのだ」とレーヴィは、弟子の沈黙をよそに、続けた。「わたしの立てた陰針は、幸せだ、と。あれは、まっすぐ、天を指している。天のいちばん高いところを。太陽の、まさにそこを。ところが、わたしはどうだ。わたしは、一生、うつむいて、影ばかりを見て生きてきた。地面を這う、黒い染みばかりを。陰針は天を指し、わたしは地を這う。どちらが、日時計の主人か、分かったものではない」
「でも」と、ようやく弟子が口をひらいた。「陰針は、影を落とすことでしか、時を告げられません。天を指しているだけでは、なにも語れない。影があってはじめて――」
「そうだ」とレーヴィは、遮った。少し、苛立ったように。「だから、わたしは、影が厭わしいのだ。あれがなければ、時など、告げなくてよい。時を告げねばならぬから、影がいる。影がいるから、時に縛られる。時に縛られるから、老いる。老いるから、死ぬ。すべては、あの、足もとの黒い染みから、はじまっている」
弟子は、黙った。主人の言うことは、どこかで筋が通っているようで、どこかで、大きく、道を踏みはずしているように思われた。だが、それがどこなのか、若い弟子には、言葉にできなかった。
「わたしはな」とレーヴィは言った。声を低くして。ふたたび、天の蒼い一点を見あげながら。「あの星のように、なりたいのだ」
二
そのころ、町には奇妙な噂があった。
夜、空を蒼い彗星がよぎる晩にだけ、路地のいちばん奥に、一軒の古書店が現れるというのだ。木の看板に「月光書房」とだけ書かれた店。朝になれば、店はもうそこにない。まるで夜のあいだにだけ根を張り、日の出とともに消える、影のような店。
多くの者は、それを子どもの作り話だと思っていた。だがレーヴィは、その店を見つけた。
彗星の見えた晩のことだった。仕事の帰り、いつもは通らぬ路地に足を踏みいれると、奥のほうに灯りがともっていた。近づけば、古い木の扉。押すと、蝶番が低く鳴いて、埃と紙の匂いがした。
店のなかは、外から見たよりもずっと広かった。天井まで届く棚が、奥へ奥へと続いていた。棚は、一日の十二の刻に分かれているようだった。夜明け前、明け方、朝、昼前、真昼、昼下がり、夕方、黄昏、宵、夜、真夜中、丑三つ時――そう記された小さな札が、それぞれの棚の縁にさがっていた。
ふしぎな店だった。窓はひとつもないのに、それぞれの棚のあたりだけ、その刻にふさわしい光が、どこからともなく差していた。「夜明け前」の棚は薄墨に沈み、「朝」の棚には金色の光がこぼれ、「黄昏」の棚は茜に染まっていた。そして「真昼」の棚のあたりだけ、白く、灼けるように、明るかった。棚の前に立てば、影が、足もとに、点のように縮こまるほどに。
店の主人らしき老人が、帳場に座っていた。老人は顔を上げなかった。ただ、卓の隅に、青いマッチ箱がひとつ置かれていた。藍色の紙に、三日月がひとつ刻まれている。老人はその一本を擦って、卓上の小さな燭台に火をともした。真昼のように明るかった店のなかが、その一瞬だけ、なぜか夜のように翳って見えた。
「探しものかね」と老人は言った。
「探しものかどうかも、分からんのです」とレーヴィは正直に答えた。「わたしは日時計を作る者です。影ばかり測って生きてきた。近ごろ、その影が――厭わしくてならん」
老人は初めて顔を上げた。深い皺のあいだから、こちらを見た。
「影が厭わしい」と老人はくり返した。「なるほど。真昼の棚を、のぞいてみるといい」
老人の指した棚には、「真昼」の札がさがっていた。レーヴィは背表紙を指でたどった。どれも古く、題は色褪せて読めぬものが多かった。だが一冊、薄い革表紙の本が、彼の指を止めた。題はなかった。ただ表紙に、金の箔で、正午の日時計が――棒とその真下の、短い影とが――刻まれていた。
「それは」と老人は言った。「借りていくなら、ひとつだけ約束がある。読み終えたら、返しにきなさい。ただし、あんたが読み終えるとき、あんたはもう、それを返しにくる気があるかどうか、分からなくなっているだろう。それでもよいなら、持っていくといい」
奇妙な物言いだった。レーヴィは、その本を、両手で受けとった。薄いのに、ずしりと重かった。まるで、なかに、なにか――誰かの一生ぶんの時間でも――綴じこまれているかのようだった。
「代金は」とレーヴィは訊いた。
「いらぬ」と老人は言った。「これは、借りるものだ。売るものではない。代金は、返しにきたときに、いただく」
「返しにきたときに、なにを」
「そのときの、あんたに、いちばん値打ちのあるものを」と老人は言った。深い皺のあいだから、こちらを見て。「なに、心配はいらぬ。値打ちのないものを、値打ちのないままに置いていく者もいる。それはそれで、よいのだ。ただ――値打ちのあるものを、値打ちのあると知って、なお置いていける者は、めったにおらぬ。それだけのことだ」
レーヴィには、その言葉の意味が、よく分からなかった。だが、深く問う気にもなれなかった。彼は礼を言って、その本を懐に入れ、店を出た。
翌朝、彼が改めて礼を言おうと路地をたずねると、そこにはもう、店はなかった。灰いろの塀と、猫が一匹、日なたで丸くなっているだけだった。その猫の足もとにも、短い影があった。レーヴィは、なぜか、その影を、しばらく見つめてから、その場を去った。
三
その本には、影の話が書かれていた。
正確には、影を失った男の話、影を賭けた男の話、影と取引をした者たちの話が、幾篇も収められていた。どれも古い寓話のようで、どこの国の、いつの時代の話とも知れなかった。
そのなかに、一篇、こういう話があった。
――昔、太陽に不満を抱いた男がいた。太陽は毎日、東から昇り、西へ沈む。男を照らし、男の影を落とし、男を老いさせ、やがて死なせる。男はそれを理不尽だと思った。なぜ光は、こちらの都合を訊かずに、勝手に昇り、勝手に沈むのか。なぜ影は、こちらの意に反して、伸びたり縮んだりするのか。
ある正午、影がいちばん短くなったとき、男は天に向かって叫んだ。「もし太陽に心があるなら、わたしと勝負をしろ。わたしが勝ったら、望みをかなえてくれ。負けたら、なんでもくれてやる」
すると、影がいちばん短くなったその一点から――棒の真下の、黒い染みのように縮こまった影の、そのまんなかから――ひとりの者が現れた。
その者には、顔がなかった。というより、顔があるべきところが、光でいっぱいだった。真昼の白い光が、そのままひとの形をとったようだった。その者は影を持たなかった。真昼の、影のいちばん短い刻にだけ、その者は現れることができた。
「勝負をしよう」と、その者は言った。「賭けるものは、おまえの影だ」
――本は、そこまでを語っていた。あとの頁は、破れて失われていた。男が勝ったのか、負けたのか。影を得たのか、失ったのか。何ひとつ、書かれていなかった。破れ口は、古く、ぎざぎざとして、まるで、誰かが、荒々しく、あるいは苦しみながら、そこを引き裂いたかのようだった。
レーヴィは、その破れた頁を、何度も何度も指でなでた。指の腹に、破れ口の、かさついた感触が伝わった。この先に、なにが書かれていたのか。彼は、それを知りたくてたまらなかった。だが同時に、こうも思った。――知らずにおくほうが、よいのかもしれぬ、と。破れているということは、誰かが、隠したかったということだ。あるいは、この先は、読むものではなく、みずから、生きて確かめるものだ、ということだ。
本には、ほかにも、いくつもの影の話が収められていた。影を売って富を得た商人が、日なたに出られなくなり、生涯を地下の蔵で過ごした話。影と入れ替わった男が、鏡のなかにしか住めなくなった話。子の影を質に入れた母が、その子を、二度と抱けなくなった話。どの話も、影を失った者が、なにか大切なものを、ともに失う話だった。だが、どの話も、はっきりとした教訓は語らなかった。ただ、静かに、影を失うということの、そのかたちだけを、描いていた。
レーヴィは、それらを、幾晩もかけて読んだ。読むほどに、彼の心は、二つに裂けた。一方は、恐れた。影を失うことの、その代償を。もう一方は、それでも、憧れた。あの、真昼にも消えぬ、蒼い一点に。日なたを歩く者に。時に縛られぬ者に。
四
その日から、レーヴィは眠れなくなった。
彼は思った。この話は、作り話ではない。誰かが本当に、正午に、影を賭けたのだ。そして、その勝負の結末が破り取られているのは――誰かが、それを隠したかったからだ。あるいは、その先を知る資格は、実際に勝負をした者にしかないからだ。
彼は、自分がその資格を得たいと思った。
「あなたは、影が厭わしいのですね」と、ある夜、弟子がおずおずと言った。眠れぬ主人につきあって、工房に残っていたのだ。「でも、わたしは思うのです。影があるから、日時計は時を刻める。影があるから、わたしたちは、光がそこにあると分かる。影は――召使いではなく、証人ではないでしょうか」
「証人」とレーヴィはつぶやいた。「なるほど、うまいことを言う。だが、証人は、いつも脇にいるだけだ。日なたを歩くのは、いつも他の誰かだ。わたしは一生、影を刻む側にいた。今度は、光の側に立ちたいのだ」
弟子は口をつぐんだ。彼は、主人がもう決めてしまっているのを知った。
そして、決めた者は、たいてい引き返さない。
五
その正午が来た。
夏の盛りの、いちばん影の短くなる日だった。太陽は天のちょうど真上にあり、町じゅうの影が、それぞれの主の足もとに、黒い染みのように縮こまっていた。空は白く灼けて、鳥も鳴かず、風もなかった。町の井戸端の話し声も、市場のざわめきも、なぜかその刻だけ、すっと引いていた。
秤の刻。天と地とが、どちらへも傾かぬ一瞬。
レーヴィは広場に出た。彼が作った石の日時計の前に立った。棒の影は、真下に、ほとんど点のように縮まっていた。彼は、その一点を見おろした。
そして、天に向かって言った。声は静かだった。叫ぶ必要はなかった。この刻には、ささやきさえ、天のいちばん高いところまで届くのだ。
「勝負をしよう」とレーヴィは言った。「賭けるものは、わたしの影だ」
正午の鐘が、十二を打ちおわった。
その最後の一打の余韻が消えたとき――影がいちばん短くなったその一点から、ひとりの者が立ちあがった。
顔があるべきところに、光がいっぱいだった。真昼の白い光が、ひとの形をとっていた。その者は影を持たなかった。足もとに、なにもなかった。それでいて、そこに、たしかにいた。
天のいちばん高いところで、蒼い一点が――ミラ彗星が――ちらりと瞬いた。まるで、この勝負を見ている、もうひとつの目のように。あるいは、その者の、もうひとつの影のように。真昼にも消えぬ、天の高みの、蒼いしるし。
「勝負をしよう」と、その者は言った。声は、遠い水の音のようだった。「わたしは真昼の者だ。影のいちばん短い刻にだけ、こうして現れることができる。おまえは、わたしと何を賭けたいのだ」
「三番勝負を」とレーヴィは言った。あらかじめ決めてきたことだった。「三度勝負をして、二度勝ったほうが勝ちだ。わたしが勝てば、望みをかなえてほしい。わたしを、あなたのように――影のない者にしてほしい。日なたを歩く者に。時に縛られぬ者に」
「そしておまえが負ければ」とその者は言った。「おまえの影をもらう。影を失った者がどうなるか、おまえは知っているか」
「知りません」
「影を失った者は、この世のどこにも属さなくなる。ひとは、その者を見ても、すぐに忘れる。名を呼んでも、その名は口のなかで溶ける。証人がいなくなるからだ。おまえの弟子が言ったろう。影は、光がそこにあることの証人だと。影を失うとは、おまえがこの世にいたことの、証人を失うことだ。それでもよいか」
レーヴィの背に、冷たいものが走った。だが、蝉のように鳴きたてる欲が、それを押し流した。
「よい」と彼は言った。
六
第一の勝負は、影くらべだった。
「見ろ」とその者は言った。「おまえの足もとに、影がある。わたしには、ない。だが、影のない者に勝ちたければ、影のほうが濃くなければならぬ。わたしと、おまえと――どちらの立つところが、より暗いか。日なたにおいて、より深い闇を持つほうが勝ちだ」
これは、レーヴィにとって、たやすい勝負に思えた。相手には影がない。ならば、影を持つ自分が勝つに決まっている。
だがレーヴィは、日時計の職人だった。彼は影のことを、誰よりもよく知っていた。そして、こう考えた。――今は正午だ。影がいちばん短く、いちばん薄くなる刻だ。この刻に、影の濃さで勝負をするのは、いちばん不利だ。相手は、わざとこの刻を選んでいる。
影を濃くする。どうすれば、影は濃くなるか。彼は、生涯、影を見つめてきた者だった。答えは、すぐに浮かんだ。影の濃さとは、その背後の闇の深さである。白い壁に落ちる影は薄い。だが、暗がりへと続く影は、その暗がりと溶けあって、際限なく濃くなる。
彼は、あたりを見まわした。広場の隅に、古い井戸があった。彼は歩いて、その井戸のそばに立った。井戸の縁の、内側の、暗い口のところに立った。夏の日照りにも涸れぬ、深い井戸だった。底のほうから、ひやりとした闇が、立ちのぼってくるようだった。彼は、その闇へ向けて、自分の影が伸びるように、身の向きを、そっと変えた。すると、彼の足もとの影は、井戸の闇と溶けあって、深く、黒く、底なしになった。もはや、どこまでが彼の影で、どこからが井戸の闇なのか、見分けもつかなかった。
「わたしの勝ちだ」とレーヴィは言った。「わたしの立つところの闇は、この井戸の底まで届いている。地の底まで。あなたの立つところは、どこまでも、白い光だ。あなたには、背後に、闇がない。だから、あなたの立つところは、けっして、濃くはなれぬ」
その者は、しばらく黙っていた。真昼の光でいっぱいの、顔のあるべきところが、井戸の闇のほうを、じっと見ているようだった。それから、遠い水の音のような声で言った。
「一勝だ。おまえは影を知っている。影の濃さが、その背後の闇の深さであることを、知っている。それは、認めよう。――だが、レーヴィよ。ひとつ、覚えておくがいい。おまえは、いま、みずから、井戸の縁に立った。深い闇のほとりに。影を濃くするために、みずから、闇のいちばん近くへ、歩みよった。そういうものだ。影を欲する者は、いつも、みずから、闇の縁に立つ。それを、忘れるな」
レーヴィは、その言葉を、深くは考えなかった。彼の胸には、勝ちの味だけが、広がっていた。甘く、熱く、蝉のように鳴きたてる、勝ちの味だけが。
七
第二の勝負は、影あてだった。
「町を見ろ」とその者は言った。真昼の広場を指した。井戸端の女、荷を運ぶ男、日陰で眠る犬、教会の塀に寄りかかる老人。「あの者たちの、それぞれの足もとに、影がある。わたしが今から、あの者たちのうちの、ひとりの影を、そっと消す。おまえは、誰の影が消えたか、当ててみせろ。当てれば、おまえの勝ち。外せば、わたしの勝ちだ」
その者が手をかざした。真昼の光が、いっそう白く灼けた。
レーヴィは、広場を見わたした。どの者も、足もとに、短い影を落としていた。井戸端の女も。荷を運ぶ男も。日陰の犬も。塀の老人も。――どれも、影があるように見えた。真昼の、点のように縮こまった、短い影が。
彼は、目を凝らした。影読みのレーヴィである。影の、わずかな濃淡を、その縁の、髪の毛ほどのにじみを、彼は読むことができた。
まず、井戸端の女を見た。女の影は、足もとから、ほんの少し、東へ寄っていた。正しい。太陽はわずかに西へ傾きかけている。影は、正しく、その反対を指していた。
荷を運ぶ男。男の影は、荷の重みで前かがみになった、その背の形を、正しく、地に写していた。正しい。
日陰の犬。犬の影は、日陰のなかに、いっそう濃く、まどろんでいた。正しい。
そして、教会の塀に寄りかかる老人――そこで、レーヴィの目が、止まった。老人の足もとにも、影があった。あるように、見えた。だが、その影は、どこか、おかしかった。影の縁が、老人の体の輪郭と、わずかに、ずれていた。老人が、ほんの少し、身じろぎしても、影は、動かなかった。
彼は、気づいた。それは、老人の影ではない。教会の塀が落とす、塀そのものの影だった。老人は、その塀の影のなかに、たくみに、身を置いていた。だから、あたかも、老人にも影があるように見える。だが、老人自身の影は――消えている。塀の影を、借りて、みずからの影のなさを、隠しているのだ。
「あの老人だ」とレーヴィは言った。塀ぎわを指して。「あの老人の影が、消えている。あれは、老人の影ではない。教会の塀の影だ。老人は、その塀の影を借りて、みずからの影のなさを、隠している。――影の縁が、体とずれている。身じろぎしても、影が動かぬ。あれは、借りものの影だ」
その者は、また黙った。それから言った。
「二勝だ。おまえの勝ちだ、影読みよ。おまえは、影のないことを、影のなかから見つけだした。――これで、望みはかなう。おまえは、わたしのようになる。影のない者に。日なたを歩く者に」
レーヴィは、天を仰いだ。歓喜が、胸を灼いた。彼は勝ったのだ。太陽に、真昼の者に、勝ったのだ。
だが、その者は、まだ手をおろさなかった。
「望みをかなえる前に」とその者は言った。「もうひとつだけ、話しておくことがある。おまえが望んだのは、影のない者になることだ。だが、影のない者が、どういうものか――おまえは、まだ本当には、知らないのだ」
八
「わたしを見ろ」とその者は言った。「わたしには影がない。だから、わたしは、正午にしか、この世に現れられぬ。影がいちばん短くなる、この一瞬にしか。なぜだと思う」
レーヴィは、答えられなかった。
「影を持たぬ者は」とその者は言った。「この世に、根を張れぬからだ。影とは、おまえがこの地面に立っている、その錨のことだ。影があるから、朝も、昼も、夕も、おまえはこの世にいられる。影があるから、おまえは伸びたり縮んだりしながら、一日を、生きていける。――影を失えば、おまえは、この一瞬にしか、いられなくなる。正午の、影のいちばん短い、この一瞬にしか」
レーヴィの背が、冷えた。
「わたしは、かつて、おまえと同じだった」とその者は言った。声が、少しだけ、震えたように聞こえた。「わたしも、影を厭うた男だった。日なたを歩きたいと願った。時に縛られたくないと願った。そして、勝負をして――勝った。望みは、かなった。わたしは、影のない者になった。時に縛られぬ者に。そうして、この、正午の白い光のなかに、閉じこめられた。もう何百年も、ここにいる。朝が来ない。夕が来ない。夜が来ない。子守唄も聞こえない。ただ、白い正午が、永遠に続くだけだ」
天の高みの、蒼い一点が、ちらりと瞬いた。
「あの星を見るがいい」と、その者は蒼い一点を指した。「あれもまた、影のない者だ。真昼にも消えず、あそこにいる。うつくしいだろう。だが、あれは孤独だ。ほかのすべての星が、夜には冴え、明け方には溶けていくのに、あれだけは、いつも、あそこにいる。誰にも属さず、どの刻にも属さず、ただ、白い空に、蒼く、ひとりで」
レーヴィは、天を仰いだ。蒼い一点が、そこにあった。美しく、そして、たしかに、孤独だった。
「おまえは勝った」とその者は言った。「約束は守る。おまえを、影のない者にしてやろう。おまえは、望んだとおり、日なたを歩く者になる。時に縛られぬ者になる。この、正午の一瞬に、永遠に。――さあ、望みを言え。もう一度」
九
レーヴィは、動けなかった。
彼の足もとには、まだ、影があった。短く縮こまった、黒い染みのような影。井戸の底まで届いていた、あの影。教会の塀の老人の、消えた影を、そこから見つけだした、あの、影を知る者の、影。
彼は、その影を見おろした。
いままで一度も、それを愛おしいと思ったことはなかった。厭わしかった。召使いだと思っていた。太陽の、卑しい召使い。だが今、彼は初めて、その影が、自分とともに、生まれた日からずっと、この地面の上を歩いてきたことを思った。朝には西へ長く伸びて、彼を先導し。夕には東へ長く伸びて、彼を見送り。正午には、こうして、足もとに、静かに寄りそって。
――影は、証人だ。弟子は、そう言った。おまえがこの世にいたことの、証人だ。
レーヴィは、口をひらいた。喉が、ひどく渇いていた。
「ひとつ、訊きたい」と彼は言った。「あなたは、なぜ、その先を教えてくれるのだ。破れた頁のことを。わたしが借りた本の――結末が、破り取られていた。あれは、あなたが破ったのか」
その者は、しばらく黙っていた。それから言った。
「あれを破ったのは、わたしだ」と、その者は言った。「わたしが、影を失う前の――まだ影を持っていた、最後の日に、破った。次に来る誰かのために。結末を知って、なお望むのなら、その者は、本当に望んでいるのだと。だが、結末を知って、望みを取り下げるのなら――その者は、まだ、影の意味を、忘れていなかったのだと。わたしは、それを、確かめたかったのだ。誰かが、わたしと同じ過ちを、くり返さぬように。あるいは、くり返すのを、見届けるために」
「では、あなたは」とレーヴィは言った。「わたしに、望みを取り下げてほしいのか。それとも、望んでほしいのか」
「それは」と、その者は言った。真昼の光でいっぱいの、顔のあるべきところが、かすかに、揺れた。「わたしには、言えぬ。わたしは勝負に負けた。約束は守らねばならぬ。おまえが望めば、かなえる。それだけだ。――だが、レーヴィよ。ひとつだけ、教えてやろう。わたしは、この何百年、ずっと、待っていた。誰かが、この正午に、勝負を挑んでくれるのを。勝って、影のない者になってくれるのを。そうすれば、わたしの代わりに、その者がここに閉じこめられ、わたしは――解き放たれる。ふたたび、影を持ち、朝を、夕を、夜を、取り戻せる。そういう、約束なのだ。影のない者は、次の影のない者が現れたときにだけ、この牢を出られる」
レーヴィは、その者を見た。
「では」と彼は、ゆっくりと言った。「あなたが、その先を教えてくれたのは――わたしを、ここに閉じこめないためか。あなた自身が、解き放たれる、その機会を、みずから手放して」
その者は、答えなかった。答えは、その沈黙のなかに、あった。
十
秤の刻は、まだ続いていた。
天と地とが、どちらへも傾かぬ一瞬。ふしぎと、その一瞬は、長かった。何百年も、その者がここにいたように、その一瞬もまた、幾百年をたたえているようだった。
レーヴィは、目を閉じた。
彼は、これまでの一生を思った。影を測って生きてきた一生を。朝の長い影を、正午の短い影を、夕の長い影を、石に刻んで生きてきた一生を。厭わしいと思っていた。だが、いま思えば――彼は、影とともに、生きてきたのだ。影は、彼の一日を、区切ってくれていた。朝を朝とし、昼を昼とし、夕を夕としてくれていた。時に縛られることは、時に生かされることだった。影に縛られることは、この世に錨をおろしていることだった。
彼は、幼いころのことを思った。母が、まだ生きていたころのことを。夏の夕方、母は、彼の手を引いて、麦畑のあぜ道を歩いた。西へ傾いた日が、ふたりの影を、地の果てまで届きそうなほど、長く、長く、伸ばしていた。彼は、その長い影を追いかけて、はしゃいだ。影のあたまを踏もうとして、けっして踏めずに、笑った。母も、笑った。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――と、母は、低く、口ずさんでいた。あのとき、影は、厭わしいものではなかった。影は、母とともに、彼の傍らを、歩いていた。ふたりが、たしかに、その夕暮れの畑に、いたことの、証しとして。
母が死んだあと、彼は、影を、厭うようになった。母を連れ去ったのは、時だった。時が過ぎたから、母は老い、病み、死んだ。時を告げるのは、影だった。だから、彼は、影を憎んだ。時を憎むかわりに、その召使いである、影を。――だが、それは、筋ちがいだった。いま、彼には、それが分かった。影は、時を告げるが、時を作るのではない。影は、ただ、傍らを歩くだけだ。あの、夏の夕暮れの、長い影のように。母とともにいた、あの影のように。影を憎むことは、母と歩いた、あの夕暮れをも、憎むことだった。
そして、影のない者は――永遠の正午に、たったひとりで、閉じこめられている。朝も来ず、夕も来ず、母と歩いたような、あの長い影の夕暮れも、二度と来ぬ場所に。子守唄も、聞こえぬ場所に。
彼は、目をひらいた。
「望みを言おう」とレーヴィは言った。声は、静かだった。もう渇いてはいなかった。「わたしは――影のない者には、ならぬ。日なたを歩く者にも、ならぬ。わたしの影を、わたしのもとに、置いておく。望みは、それだけだ」
その者は、動かなかった。真昼の光でいっぱいの、その姿は、微動だにしなかった。
「それでよいのか」と、やがて、その者は言った。声は、あの遠い水の音より、なお、遠かった。「おまえは勝ったのだぞ。望みは、なんでもかなうのだ。影のない者になれるのだ。それを、みすみす」
「わたしは勝った」とレーヴィは言った。「だから、望みを選べる。そして、わたしは、影を選ぶ。――あなたを、ここに残していくことになる。それは、心が痛む。だが、あなたは、わたしを閉じこめないために、みずから、その機会を手放してくれた。ならば、わたしも、あなたに、閉じこめられには、いかぬ。あなたの犠牲を、無駄にはせぬ。それが、せめてもの、返礼だ」
天の高みの、蒼い一点が、ちらりと、瞬いた。
その者は、しばらく、天のミラ彗星を見あげていた。それから、レーヴィのほうへ、向きなおった。
「レーヴィよ」と、その者は言った。「おまえは、本当の勝ちを、いま、手にした。影を賭けて、影を守った。それは、この正午の勝負で、はじめてのことだ。何百年で、はじめてのことだ。――ならば、わたしからも、ひとつ、贈りものをしよう。約束にはないが、勝者への、褒美だ」
十一
「あの本を」とその者は言った。「月光書房で借りた、あの本を、返しにいくがいい。破れた頁の、その先を、おまえが、書き足すのだ。おまえが、いま選んだことを。影を賭けて、影を守った者がいたことを。次に、この正午に来る誰かのために。――そうすれば、その者は、破れた頁の代わりに、おまえの結末を読むだろう。そして、選ぶだろう。閉じこめられるか、影を守るかを。おまえが、いま、そうしたように」
レーヴィは、うなずいた。
「そして」と、その者は続けた。声が、いくぶん、明るんだように聞こえた。「いつか――いつか、また誰かが、この正午に、勝負を挑むだろう。そして、おまえの結末を読んで、なお、影のない者になることを望むかもしれぬ。そのときは、わたしは、解き放たれる。だが、それでいい。それは、その者が、みずから選んだことだ。おまえが、みずから、影を選んだように。――選ぶ、ということが、大事なのだ。知らずに失うのではなく。知って、なお、選ぶ、ということが」
天の白い光が、少しずつ、傾きはじめた。
秤の刻が、終わろうとしていた。天と地とが、また、傾きはじめていた。針が、水平から、少しずつ、午後のほうへ、動きはじめていた。
その者の姿が、薄れはじめた。正午が終われば、影が、また伸びはじめる。影のいちばん短い、その一瞬が過ぎれば、真昼の者は、もう、この世にはいられない。
「さらばだ、影読みのレーヴィ」と、その者は言った。薄れゆく声で。「おまえは、よい職人だ。影を測る者は、いつか、影の意味を知る者になる。おまえは、それに、なった」
その者の姿が、光のなかに、溶けていった。真昼の白い光が、ひとの形を失って、ただの、白い光に、もどっていった。
レーヴィの足もとの影が、ほんの少し、伸びた。ほんの、髪の毛一本ほど。正午が過ぎ、午後が、はじまったのだ。
彼は、その、少し伸びた影を、見おろした。
そして、生まれてはじめて、それに、頭をさげた。
十二
その夜、彗星が、ふたたび空をよぎった。
レーヴィは、あの本を抱えて、路地のいちばん奥へと歩いた。すると、そこに、灯りがともっていた。木の看板に「月光書房」とだけある、あの店。
なかへ入ると、老人が、帳場に座っていた。卓の隅に、あの青いマッチ箱があった。老人は、一本を擦って、燭台に火をともした。
「返しにきたか」と老人は言った。
「返しにきました」とレーヴィは言った。「ですが、そのまえに――ひとつ、書き足しました。破れた頁の、その先を」
老人は、本を受けとって、ひらいた。かつて破れて失われていた頁のところに、新しい紙が、そっと、綴じこまれていた。そこには、レーヴィの手で、この正午のことが、記されていた。影を賭けて、影を守った者がいたこと。真昼の者が、みずからの牢を、また閉ざしたこと。
老人は、それを読んだ。深い皺のあいだから、しばらく、その頁を見つめていた。
「あんたは」と老人は、やがて言った。「わしが、この店をひらいて以来――いや、もっと昔から、この本が、あの棚にあって以来――その頁を、書き足した、はじめての者だ」
「では」とレーヴィは言った。「これまでにも、あの本を借りた者が」
「幾人もいた」と老人は言った。「みな、真昼の棚から、あの本を持っていった。みな、影を厭う者だった。そして、みな――帰ってこなかった。あの正午に、勝負を挑み、そして、勝った者も、負けた者も、みな、影を、失った。影を失った者は、この世のどこにも属さぬ。だから、返しにこられぬのだ。名を呼んでも、その名は、口のなかで溶ける。――あんたが、はじめてだ。あの本を返しにきた、はじめての者だ」
レーヴィは、その者のことを思った。真昼の光でいっぱいの、顔のあるべきところが、かすかに揺れた、あの者のことを。何百年、たったひとりで、白い正午に閉じこめられていた、あの者のことを。
「ひとつ、お訊きしたい」とレーヴィは言った。「真昼の者は――もとは、ひとだったのですか。この店から、あの本を借りた、ひとだったのですか」
老人は、答えなかった。ただ、青いマッチ箱を、指で、そっと、卓の上に、まっすぐに、置きなおした。
そのとき、レーヴィは、老人の足もとを見た。
老人には、影がなかった。
燭台の火が、まわりのすべてに影を落としているのに――帳場の柱にも、積まれた本にも、レーヴィ自身にも――老人の足もとにだけ、影が、なかった。
レーヴィは、なにも言わなかった。老人も、なにも言わなかった。
ただ、老人は、遠い、遠いところを見るような目で、天井のほうを――その、はるか向こうの、夜空のほうを――見あげた。そして、ごく低く、なにかを、口ずさんだ。子守唄のような、旋律だった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――と、そう、聞こえたような気がした。
十三
レーヴィは、店を出た。
外は、夜だった。空を、蒼い彗星が、長い尾を引いて、よぎっていた。夜のミラは、真昼のときとはちがって、冴え冴えと、うつくしかった。だが、レーヴィには、それが、少し、寂しく見えた。あの、真昼の者の、もうひとつの影のように。永遠の正午に閉じこめられた者と、永遠の夜空をわたる星とが、遠く、たがいを見あっているようだった。
彼は、自分の足もとを見た。
夜だった。月あかりのなかで、彼の影は、ぼんやりと、長く、伸びていた。彼は、その影を、しばらく、見つめていた。それから、歩きだした。影も、彼とともに、歩きだした。
朝が来れば、影は、また西へ長く伸びるだろう。正午には、また、足もとに、短く縮こまるだろう。夕には、また、東へ長く伸びるだろう。それを、彼は、これから、毎日、見ていくのだ。厭わしいとは、もう、思わなかった。
町にもどると、工房に、灯りがついていた。弟子が、待っていた。眠らずに、待っていたのだ。
「お帰りなさい」と弟子は言った。それから、はっと、なにかに気づいたように、主人の顔を見た。「よかった。あなたには――影があります」
「ああ」とレーヴィは言った。「影がある」
弟子は、それ以上、なにも訊かなかった。ただ、主人の足もとの、月あかりに伸びた影を、しばらく、うれしそうに、見ていた。
翌朝、レーヴィは、いつものように、日時計の前に立った。朝の光が、棒の影を、西へ長く伸ばしていた。彼は、その影の先に、目盛りを、ひとつ、刻んだ。いつもの仕事だった。だが、いつもとは、ちがっていた。
彼は、もう、影を、太陽の召使いだとは思わなかった。影は、証人だった。彼がこの世にいることの。この地面に、錨をおろしていることの。朝を朝とし、昼を昼とし、夕を夕としてくれる、静かな、伴侶だった。
正午が来た。影が、いちばん短くなった。彼は、足もとの、黒い染みのような影を、見おろした。それから、天を仰いだ。白く灼けた空の、いちばん高いところに、蒼い一点が、あった。ミラ彗星が、真昼にも消えず、そこにいた。
レーヴィは、その蒼い一点に向かって、心のなかで、話しかけた。あなたのことは、忘れない、と。あなたが、みずから、その牢を、また閉ざしたことを。わたしを、閉じこめないために。わたしは、あなたの代わりに、この地上を、影とともに、歩いていく。あなたが取り戻せなかった、朝を、夕を、夜を、あなたの分まで、生きていく。だから――どうか。
正午の鐘が、十二を打ちおわった。秤の刻が、来た。天と地とが、どちらへも傾かぬ、一瞬が。
その一瞬、レーヴィには、天の蒼い一点が、ほんの、かすかに、瞬いたように見えた。まるで、うなずくように。
そして、秤が、傾いた。針が、午後へと、動きだした。彼の影が、ほんの、髪の毛一本ほど、伸びた。
彼は、日時計に、目盛りを、また、ひとつ、刻んだ。
影を持つ者だけが、時を刻める。そのことを、彼は、もう、知っていた。そして、時を刻めるということは、この世に、いられるということだった。伸びたり縮んだりしながら、朝から夜まで、一日を、生きていられるということだった。
年寄りたちは、いまでも言う。町の広場の石の日時計は、いちばん正確だと。あれを刻んだ影読みは、影の意味を知る者だったのだと。そして、正午の鐘のあとの、あのわずかな無音の間に、耳をすませば――白く灼けた天のいちばん高いところで、蒼い星が、ひとつ、こう囁くのが聞こえる、とも。
影を賭けて、影を守れ。日なたを歩く者になどなるな。おまえの短い影こそ、おまえがこの世にいた、たったひとつの証しなのだから。