呼気の残り
呼気の残り
真昼の火事には、影がない。
その日の朝、安曇は庭先で、蒼い星を見た。
まだ夜が明けきらない、藍と灰のあいだの時刻だった。官舎の狭い庭に出て、欠けた湯呑みで白湯をすすっていた。夜勤明けの体は、いつも通り重かった。膝が鈍く痛み、肩の付け根が凝っていた。四十を過ぎてから、こういう朝が増えた。若いころは、火に入ったその足で酒を飲みに行けたのに、いまはただ、庭の隅にしゃがんで、湯気の向こうの空をぼんやり眺めるのがせいぜいだった。
東の空の低いところに、それはあった。
蒼白い、細長い一点。尾を引いていた。星にしては、位置がおかしかった。動かないくせに、まるで空をゆっくり横切っている途中で、静止画に切り取られたように見えた。何日か前から、天気予報のあとで話題になっていた。何十年に一度、あるいは何百年に一度の彗星が、いま地球のそばを通っているのだと。ミラ、という名前だと、若い隊員が言っていた。ラテン語で「不思議なもの」という意味らしいですよ、と。
安曇は、その蒼い点を、しばらく見ていた。
なぜだか、胸が騒いだ。理由はわからなかった。ただ、あの尾を引く旅人が、はるか遠くの闇からやってきて、この空を一度だけ通り過ぎて、また闇へ帰っていくのだと思うと、何か、取り返しのつかないものを見ているような気がした。もう二度と会えないものを。いま、この一瞬にしか、会えないものを。
白湯が冷めた。安曇は残りを飲み干し、湯呑みを縁側に置いて、立ち上がった。膝が鳴った。今日も暑くなる、とラジオが言っていた。今年いちばんの暑さになるでしょう、と。
その日の正午、安曇は火のなかで、ひとつの命を選ぶことになる。だがこの朝の安曇は、まだ何も知らなかった。ただ、蒼い星を見て、胸を騒がせただけだった。あの星が、真昼の白い空にまで居残ることを――その白のただなかで、自分がもう一度、あの蒼を見上げることになるとは――知る由もなかった。
夜の火災なら、炎そのものが世界のいちばん明るいものになる。だが正午の火は違う。頭の上で陽が白く灼けているから、外から見れば煙のほうが黒々として、火はかえって薄く、透きとおって見える。まるで熱い水が空気のなかで揺れているだけのように。その透明さが、いちばん人を騙す。まだいける、と思わせる。まだ間に合う、と。
安曇は防火帽の下で目を細め、三階建ての木造アパートを見上げた。天神町の外れ、築五十年は下らない古い建物。一階の食堂から出た火が、乾ききった夏の木を舐めるように駆けあがり、いまや二階の窓という窓から、あの薄い透明な炎が舌を出している。時刻は正午をわずかに回ったところ。アスファルトは陽炎に溶け、消防車の赤が白い光のなかで滲んでいた。
「二階に二名、逃げ遅れ。奥の部屋だ」
無線の声が、耳のなかで割れた。安曇は空気呼吸器のマスクを顔に押しつけ、面体の縁を確かめた。呼気が、鼓膜のすぐ内側で潮のように鳴っている。吸って、吐いて。吸って、吐いて。この音だけが、火のなかでは自分の生きている証になる。
隊長の梶が、ホースの陰から怒鳴った。「安曇、行けるか。応援は五分あとだ」
五分。火は五分を待たない。
梶とは、もう十年の付き合いだった。安曇が三十そこそこの荒っぽい時分から、この男に叱られ、殴られるようにして、火の読み方を仕込まれた。梶は口数の少ない男だった。だが、危険を測る目だけは、この署の誰よりも正確だった。その梶が「行けるか」と訊いた。それは「行くな」ではなかった。行けるなら行け、だが自分の命は自分で測れ、という、梶なりの信頼の言葉だった。安曇は、その信頼の重さを知っていた。
野次馬が、規制線の向こうに集まっていた。夏休みの子どもたち。買い物袋を提げた主婦。携帯を掲げて動画を撮る若者。みな、真昼の白い光のなかで、額に汗を光らせ、燃える建物を見上げていた。その顔には、恐怖と、それから、ほんのわずかな――安曇が長年見てきた、あの、後ろめたい高揚があった。他人の不幸を見ることの、罪深い明るさ。だが安曇には、それを責める資格はなかった。火に惹かれるのは、人の性だ。安曇自身、火に惹かれてこの仕事を選んだのだから。
安曇は返事の代わりに、右手を挙げた。手袋をした手のひらを、陽に向けて。承知した、という合図。それから玄関の暗がりへ、白い真昼を背にして踏み込んだ。
一歩踏み込むと、真昼が消えた。
なかは夜だった。いや、夜ですらない。夜には星がある。ここには、渦巻く黒い煙と、その底で赤く脈打つ熱があるだけだった。ヘッドライトの光が、煙の壁に丸い穴をあけて、すぐに呑まれる。手を伸ばせば指先が見えない。安曇は左手で壁をさぐり、体を低くして、階段の手すりを探した。
熱が、防火服の外側を撫でていく。厚い難燃素材の内側にいてなお、皮膚が「危ない」と叫ぶ温度。床板が、足の裏で不吉に軋んだ。木造の古い建物は、鉄骨のように潔く倒れはしない。じわじわと燃え、たわみ、ある一瞬に、まとめて落ちる。そのある一瞬が、いつ来るかは誰にもわからない。
十四年、この仕事をしてきた。安曇はもう若くない。膝は雨の前に痛むし、夜勤明けの朝には手が震える。だが火のなかでの体の使い方だけは、若い連中の誰よりも知っていた。恐怖を消すのではない。恐怖を、正確に測る。どこまで踏み込めば、まだ戻れるか。その一線を、皮膚と鼓膜と、床の軋みで読む。それが古参の技術だった。
火は、生きものだった。安曇はいつもそう感じていた。壁を這い、天井を舐め、酸素を求めて呼吸する。人の逃げ道を先回りして塞ぎ、油断した者の背後にまわりこむ。だが、生きものであるということは、癖があるということだ。癖を読めば、先が読める。いま、この火は――階段を這い上がってきた熱の流れ、天井近くで滞留する黒煙の厚み、それらが安曇に告げていた。この建物は、もう長くない。芯まで焼けている。あと、数分の命だ。
その数分のなかに、二つの命がある。
階段を、一段ずつ。手すりは熱くて、手袋越しにも痛い。段板の一枚が、体重をかけた瞬間に、ぐにゃりと沈んだ。安曇は反射的に体を引いた。焼けて、内側から炭になりかけている。踏み抜けば、そのまま一階の炎の口へ落ちる。安曇は手すりに体重を預け、沈んだ段を避けて、次の段へ足を運んだ。一段ごとに、命を賭けている。この仕事とは、そういうものだった。
二階に達したとき、煙が一瞬だけ、風の加減で薄れた。廊下の奥に、二つの扉が見えた。
無線が、また割れる。「安曇、位置報せ」
「二階廊下。奥、二部屋」安曇の声は、マスクのなかでくぐもった。「これから確認する」
奥の左の部屋の扉は、半分開いていた。安曇は身を伏せて、そこへ滑り込んだ。
部屋のなかは、まだ煙が薄かった。窓が割れずに残っていて、外の白い光がわずかに射している。その光の帯のなかに、二つの命があった。
ひとつは、老人だった。
畳の上に倒れている。痩せた体、白いランニングシャツ、下は寝間着のズボン。安曇が肩を叩くと、うっすらと目を開けた。生きている。だが足が――右の膝から下が、おかしな方向にねじれていた。倒れた拍子に折れたか、もともと動けなかったのか。この人は、自力では一歩も歩けない。
老人は、乾いた唇を動かした。声にならない声で、何かを言っている。安曇は耳を寄せた。
「……こ、を……」
そのとき、安曇は気づいた。もうひとつの命に。
部屋の隅、押入れの下の段が開いていて、その暗がりのなかに、子どもがいた。
四つか、五つか。女の子だった。膝を抱えて、体を小さく丸めて、押入れの奥に自分を押し込んでいる。煙を吸うまいと本能でそうしたのか、それとも、ただ怖くて隠れたのか。大きな目が、ヘッドライトの光のなかで、濡れて光っていた。声を出さない。泣きもしない。ただ、じっと安曇を見ていた。
老人が、もう一度、絞り出すように言った。
「……この子を……」
安曇の背中を、氷のような何かが走った。真昼の火のなかで、それだけが冷たかった。
二人。運び出せるのは――一人。
なぜ一人か。理屈は残酷なほど単純だった。
老人は歩けない。抱えるか、背負うしかない。大人一人を担いで、この煙と熱のなかを、割れかけた階段まで運ぶ。それだけで両手がふさがる。子どもを同時には抱えられない。防火服を着た消防士の体は、思っているほど自由には動かない。空気呼吸器のボンベが背中で重く、視界は面体に狭められ、床はいつ抜けるかわからない。
では二往復すればいい――そう考えるのは、火を知らない者だ。
床が、さっきから軋んでいた。ただの軋みではない。木の芯が焼けて、繊維が裂けていく音。安曇の十四年の経験が、その音を翻訳していた。あと、もって数十秒。この床が落ちれば、この部屋は下の炎の口に直結する。往復はできない。一度出れば、二度目に入る床はもうない。
無線が叫んだ。「安曇、下がれ! 一階の梁が来る! 崩落の前兆だ、聞こえるか! 撤退しろ!」
梶の声だった。いつも冷静なあの男の声が、初めて裏返っていた。
安曇はマスクのなかで、ゆっくりと息を吐いた。吸って。吐いて。鼓膜の内側で、自分の呼気が潮のように鳴る。
一人。
老人か、子どもか。
――決めろ。
頭のなかで、訓練の声がした。何百回とくり返した訓練。判断の優先順位。要救助者が複数で、救助能力が限られる場合。生存の可能性が高い者を優先する。救命の見込みの大きさで測る。それが「正しい」とされる冷たい算術だった。
安曇の頭のなかで、時間の感覚が、ねじれた。
外の世界では、たぶん、まだ二秒も経っていない。だが、安曇の内側では、その二秒が、引き伸ばされて、何時間ぶんもの思考が流れ込んだ。火のなかで、極限の判断を迫られると、いつもこうなる。脳が、生き延びるために、時間を薄く延ばす。その延ばされた時間のなかで、安曇は、これまで下してきたすべての判断を、一瞬にして思い出した。助けられた顔。助けられなかった顔。間に合った現場。間に合わなかった現場。それらが、走馬灯のように、ではなく、一枚の絵のように、同時に、目の前に広がった。
その算術に従うなら、答えは子どもだった。
老人は、足が折れている。高齢で、体力もない。煙も吸っている。仮に運び出せても、その先の見込みは薄い。子どもは若く、体が小さく、呼吸器の被害も少ない。運び出せば、ほぼ確実に助かる。数字が――残酷な数字が、子どもを指していた。
だが。
安曇の目は、老人の顔から離れなかった。この人は、たったいま、自分の口で言ったのだ。「この子を」と。折れた足で、燃える部屋で、自分の命が尽きかけているとわかっていて、それでも他人の――いや、この子は孫だろうか、それともただ隣に居合わせただけの子だろうか――ともかく、自分ではない誰かの命を、先に、と。
その言葉を聞いてしまった。聞いてしまった以上、安曇が子どもを選ぶのは、もはや算術ではなくなる。老人の願いを、聞き届けることになる。それは救助ではない。看取りに近い。この人を、ここに、置いていくということだ。この人が「そうしてくれ」と言ったから、置いていく。その重さは、算術の何倍も重い。
安曇は、押入れの子どもを見た。子どもは、まだ声を出さない。ただ、右手をわずかに前に出していた。助けを求めるでもなく、拒むでもなく。その小さな手には――片方だけ、手袋がはめられていた。毛糸の、赤い手袋。夏だというのに。もう片方は、ない。素手の左手が、赤い右手のとなりで、白く小さかった。
なぜ夏に手袋を、と思う余裕は、もうなかった。
安曇の頭のなかで、二つの選択肢が、白く灼けた真昼のように、影もなくくっきりと立った。逃げ場がなかった。どちらを選んでも、選ばなかったほうを、この火のなかに残す。この部屋に、この崩れかけた床の上に。他人の命を、自分の判断ひとつで、炎に引き渡す。それがこの仕事のいちばん暗い底だった。誰も教えてくれなかった。訓練でも、教本でも。数字の話はした。優先順位の話はした。だが、実際にその二つの命が、目の前で息をしていて、片方を置いていく――その手触りだけは、誰も、言葉にできなかったのだ。
床が、大きく鳴った。
判断とは、時間を止めることではない。時間が流れているただなかで、下すものだ。あとで振り返れば、あの一瞬は永遠のように長かったと言うだろう。だが実際には、二秒か、三秒だった。その二、三秒で、安曇は自分の十四年を、いや、自分の生涯のすべてを、天秤にかけた。
老人が、目を閉じた。
安否を確かめる余裕はなかった。だが安曇は、その閉じ方を知っていた。あきらめではない。委ねる目の閉じ方だった。もう自分のことは決めた、という顔。この人は、安曇が誰を選ぶか、わかっていた。わかっていて、目を閉じた。おまえは間違っていない、と告げるように。
安曇の手が動いた。
子どもへ。
赤い手袋の、小さな体へ。
安曇は押入れに手を突っ込み、子どもの胴を抱えた。驚くほど軽かった。羽根のようだった。命というものが、こんなにも軽いはずがないのに。子どもは抵抗しなかった。ただ、抱えられたその一瞬、安曇の面体を、濡れた目でまっすぐ見た。何かを訴えるでもなく、ただ、見た。安曇は、その目を一生忘れないだろうと、抱えたその瞬間に、もう知っていた。
老人のほうを、振り返らなかった。
振り返れば、動けなくなる。振り返らないことが、いまの安曇にできる唯一の――誠実さだった。おかしな言葉だ。置いていく相手を振り返らないことが、誠実さだなんて。だが火のなかでは、それが真実だった。振り返る一秒は、子どもの命の一秒だった。
安曇は子どもを胸に抱え、身を低くして、扉へ向かった。
一歩。二歩。その一歩ごとに、背後の老人との距離が、決定的に開いていく。もう戻れない距離に。安曇は、自分の足が、自分の意志で、後藤老人を火のなかに残していくのを、他人事のように感じていた。足は、進む。子どもを抱えて。それが正しい。それが選択だ。だが、心のどこかで、ひとつの声が、ずっと叫んでいた。戻れ、戻れ、あの人を置いていくな、と。その声を、安曇は、聞かなかったことにした。聞かなかったことにする、その一瞬の非情さこそが、この仕事の核心だった。優しさでは、人は救えない。非情になれる者だけが、一人を確実に運び出せる。だが、その非情さの代償を、あとで、一生かけて払うことになる。
背後で、老人が、最後にひとこと、言ったような気がした。
「……ありがとう」
聞き違いかもしれない。マスクの呼気の音と、火のうなりのなかで、そんな言葉が届くはずもなかった。だが安曇の耳は、確かにそれを拾った。拾ってしまった。その二音節が、これから何年も、安曇の眠りのなかで鳴りつづけることになる。
廊下は、来たときより濃かった。煙が天井から降りてきて、光の帯を塗りつぶしていた。安曇は子どもの顔を防火服の胸に押しつけ、自分の体を煙と子どものあいだの盾にした。階段。手すり。熱い。一段、二段。子どもの重みが、腕のなかで確かに脈打っている。生きている。この命は、いま、生きている。それだけを頼りに、安曇は白い光のほうへ降りていった。
玄関の四角い明るさが見えた。真昼だ。あの、影のない、灼けるような真昼。あそこに出れば、助かる。
背後で、床が落ちた。
轟音ではなかった。むしろ、大きなため息のような音だった。二階が――さっきまで安曇と老人と子どもがいたあの部屋が、下の炎の口へ、まとめて崩れ落ちた。熱風が、階段を吹き降りて、安曇の背中を突き飛ばした。安曇は前のめりに、子どもを抱えたまま、玄関から白い光のなかへ転げ出た。
真昼が、爆発するように明るかった。
そのあとのことは、断片でしか覚えていない。
誰かが子どもを受け取った。救急隊の腕。子どもは、外の光のなかで、初めて泣いた。火のなかでは一度も泣かなかった子が、助かった安全な場所で、堰を切ったように泣きだした。その泣き声を、安曇はあおむけに倒れたまま、アスファルトの熱を背中に感じながら、聞いていた。マスクを剥ぎとられ、煤で真っ黒な顔を、真昼の陽が容赦なく照らした。
梶が、覗き込んでいた。「安曇! 生きてるか! おい!」
その顔を、安曇はぼんやりと見上げた。梶の頬に、煤と汗が筋を作っていた。この男も、限界まで働いたのだ。放水の指揮を執り、隊員を守り、そして安曇が一人で建物に呑まれるのを、ホースの陰から見ていた。安曇が子どもを抱えて飛び出した瞬間、梶がどんな顔をしたか、安曇は見ていない。だが、いま覗き込むこの顔には、安堵と、それから、まだ言葉にならない何かがあった。もう一人が――出てこなかったことへの、何か。
安曇は、答えられなかった。ただ、空を見ていた。
白く灼けた、真昼の空。雲ひとつない、まぶしくて目を開けていられないような空。だが、安曇の目は、その白のただなかに、ひとつの点を見つけた。
蒼い、点。
真昼だというのに、そこにひとつだけ、消え残ったように、蒼い星があった。細い、長い尾を、白い空にかすかに引いている。ミラ彗星。何日か前から、夜空を横切っていた彗星。夜には冴え、明け方には薄れる、あの蒼い旅人。それが、いま、真昼の白い空に、目を凝らせばそれとわかる一点として、居た。
明け方に、見たのだった。今朝、出勤の前に。まだ薄暗い庭先で、湯呑みを手に、東の空にあの尾を見つけて、なんだか胸が騒いだのだった。ああ、あれが噂の彗星か、と。あのときは、まさか今日、火のなかで人ひとりを選ぶことになるとは、思いもしなかった。
蒼い点は、瞬きもせず、ただそこにあった。安曇を裁くでもなく、慰めるでもなく。ただ、見ていた。あの子の、濡れた目のように。
そして、崩れつづける建物の黒い煙が、ふいに空を横切って、その蒼い点を隠した。
煙の切れ間は、それきり閉じた。
焼け跡
火が鎮まったのは、日が西に傾きはじめたころだった。
真昼の白い暴力が過ぎ、光がすこし黄色を帯びると、焼け跡はいっそう惨めに見えた。黒く炭化した柱。崩れた瓦。水を吸って膨れた畳の残骸。すべてが濡れて黒く、真昼の乾いた熱がまるで嘘のようだった。焦げた匂いが、湿った空気に重く沈んでいた。
安曇は、酸素マスクを外し、毛布を肩からかけられて、消防車の脇に座っていた。軽い煙の吸引。手の甲に軽いやけど。それだけだった。体は無事だった。
子どもは、助かった。病院に運ばれたが、命に別状はないと連絡が入った。名前は、まだわからない。あの食堂の常連の孫だったらしい、とか、近所の子が遊びに来ていたらしい、とか、断片的な話が飛び交っていた。だが確かなのは、あの子が生きている、ということだった。安曇の腕のなかで脈打っていた、あの軽い命が、いまも脈打っているということ。
そして、老人は。
遺体は、二階の崩落した場所から見つかった。折れた足の、あの老人。名前は、後藤という、と誰かが言った。ひとり暮らしで、一階の食堂に毎日通っていた常連だった。孫は遠くにいて、めったに会えない。あの日、たまたま食堂の主人の子どもを預かって、二階の自分の部屋であやしていたのだという。
たまたま。
安曇は、その言葉を、口のなかでころがした。たまたま預かった子。血のつながらない、他人の子。それを、後藤という老人は、自分の命と引き換えに、先に、と言った。折れた足で。燃える部屋で。
「安曇さん」
若い隊員が、遠慮がちに声をかけた。手に、何かを持っていた。「あの……焼け跡から、これが」
差し出されたのは、片方だけの、赤い手袋だった。
毛糸の、小さな、子ども用の手袋。煤で汚れてはいたが、燃えてはいなかった。奇跡のように、焼け残っていた。子どもがはめていたほうではない――あれは、子どもの手に、いまも病院にあるはずだ。これは、もう片方。ずっと「ない」とされていた、対のもう片方。
「後藤さんの、手のなかに、握られてました」
安曇は、その赤い手袋を受け取った。手のひらに、それはひどく軽かった。あの子の命が軽かったように。
若い隊員は、それ以上、何も言わなかった。ただ、安曇の顔を、しばらく見ていた。この隊員も、たぶん、聞いていた。無線を。「撤退しろ」という梶の声を。そして、安曇が一人だけを抱えて出てきたことを。二階に、もう一人が残されたことを。若い隊員の目には、責めるものはなかった。ただ、問いがあった。安曇さん、あれで、よかったんですか、という問い。声にはならない問い。だが、その問いこそが、これから何年も、安曇自身が自分に投げつづける問いだった。
安曇は、答えなかった。答えられなかった。ただ、赤い手袋を、握った。
握られていた。老人の手のなかに。
きっと、こういうことだ。子どもが片方をなくして、べそをかいていたのだろう。夏なのに手袋を離さない子で、片方をどこかに落として。後藤老人は、それを見つけて、拾って、握っていた。「あとで返してやろう」と。あるいは、あやしながら、その片方を握らせてやろうとして。そして火が来た。子どもは押入れに隠れ、片方だけを握りしめて。老人は、もう片方を、自分の手に握ったまま――。
安曇は、赤い手袋を、両手で包んだ。
真昼には、あんなに乾いて灼けていた世界が、いまはもう、湿って冷えていく。安曇の頬を、煤の筋にそって、何かが伝った。それが汗なのか、放水の飛沫なのか、それとも――安曇は、確かめなかった。
梶が、隣に腰を下ろした。
何も言わなかった。しばらく、二人で焼け跡を見ていた。西日が、崩れた柱の影を、地面に長く伸ばしていた。真昼にはなかった影が、いまはある。影がある、というだけのことが、安曇には妙に応えた。あの、影のなかった正午の、逃げ場のなさが、思い出された。
「後藤さん、だったな」と、梶が言った。
「ああ」
「あの人、常連だったんだよ、下の食堂の。俺も何度か、あの店で飯を食った。無口な爺さんでな。いつも隅の席で、冷やしそばを食ってた」
安曇は、黙っていた。
「あんたの判断は、間違ってない」と、梶は言った。前を向いたまま。「歩けない年寄りと、逃げられる子ども。あの床の状態で、二人は無理だ。誰が入っても、同じ選択をした。俺でも、そうした」
「――わかってる」と、安曇は言った。「頭では」
梶は、それきり黙った。
わかっている、と安曇は思った。頭では、わかっている。梶の言う通りだ。誰が入っても、同じ選択をした。それは正しい選択だった。だが、正しさは、いま安曇の手のなかにある赤い手袋の重さを、消してはくれなかった。頭でわかることと、この手が覚えていることは、別の場所にあった。手は、覚えている。あの老人を振り返らなかったことを。背中しか見せなかったことを。「ありがとう」という声を、聞きながら、階段を降りたことを。
梶は、ポケットから何かを取り出した。
小さな、藍色の箱だった。三日月が刻まれている。マッチ箱だった。梶は、一本を擦って、火をつけた。煙草に。真昼にあれだけの火と戦ったあとで、この男は、小さな火を、指先に灯していた。その火は、頼りなく、揺れていた。だが、それは、人が自分の意志で灯し、自分の意志で消せる、ただひとつの火だった。安曇は、その小さな炎を、しばらく見ていた。
「もらった店の名前、覚えてないんだがな」と、梶はマッチ箱を眺めて、ぽつりと言った。「夜中に、路地でな。妙な古本屋があって。そこの隅に、これが積んであった。持ってけって」
安曇は、聞いていなかった。ただ、揺れる小さな火を、見ていた。
それから
その夜、安曇は眠れなかった。
官舎の狭い部屋で、天井を見ていた。目を閉じると、あの老人の、目の閉じ方が見えた。委ねる、あの閉じ方。「おまえは間違っていない」と告げる、あの顔。そして「ありがとう」という、聞こえるはずのなかった二音節。
間違っていない、と後藤老人は言った。
だが、間違っていないことと、正しいことは、同じではない。安曇はそれを知っていた。自分は、老人の願いを聞き届けた。子どもを選んだ。それは訓練の教える「正しい」判断とも一致していた。生存可能性の高い者を優先する。数字も、老人の言葉も、同じ答えを指していた。すべてが子どもを指していた。
なのに、なぜ、こんなに苦しいのか。
安曇は、寝返りを打った。
苦しいのは、と安曇は思った。苦しいのは、選ばなかったほうの命が、確かにそこに在ったからだ。数字は数字だ。だが後藤という人は、数字ではなかった。折れた足で「この子を」と言った、ひとりの人間だった。その人を、自分は置いてきた。振り返りもせずに。あれが正しかったとして――正しかったとして、あの人の最後の時間に、安曇の背中しか見せなかったことは、消えない。あの人は、燃える部屋で、たったひとり、崩れ落ちる床とともに逝った。誰の手も握れずに。いや、握っていたのだ。赤い手袋を。子どものものを。自分の命の最後の瞬間に、握っていたのは、他人の子の落とし物だった。
安曇は、これまでにも、人を看取れなかったことがあった。間に合わなかった現場。手が届かなかった命。この仕事を十四年もやっていれば、そういうことは、いくらでもある。だが、それらは「間に合わなかった」だけだった。運命が、時間が、火が、非情だっただけだった。安曇は、そのつど悔やんだが、いつか、忘れられた。忘れられるように、できていた。人は、そうやって、この仕事を続けていく。
だが、今度は違った。今度は、安曇が、選んだのだ。
間に合わなかったのではない。手が届かなかったのでもない。安曇の手は、後藤老人にも、届いていた。肩に触れた。声を聞いた。だが、安曇はその手を、子どものほうへ伸ばした。自分の意志で。後藤老人を、生きているうちに、置いていくと決めた。それは「間に合わなかった」死とは、まるで別のものだった。安曇が、選び取った死だった。だから、忘れられない。忘れるための逃げ場が、どこにもない。真昼の火事に影がなかったように。
窓の外の彗星が、ゆっくりと、位置を変えていた。夜が更けていくのだった。
安曇は、枕元に置いた赤い手袋を、暗がりのなかで見た。
窓の外に、蒼い光があった。ミラ彗星。夜には冴えるという、あの旅人。カーテンの隙間から、細い尾が見えた。真昼の白い空で消えかけていたそれが、夜になって、また息を吹き返したように光っていた。
安曇は、いつのまにか、口のなかで何かを口ずさんでいた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
どこで覚えた歌か、思い出せなかった。母が歌ってくれたのか、それとも、この仕事のどこかで、誰かの枕元で聞いたのか。ただ、その旋律が、勝手に唇からこぼれた。眠れ、眠れ。誰に向けて歌っているのか、自分でもわからなかった。あの子にか。後藤老人にか。それとも、眠れない自分自身にか。
星が海をわたるまで。
蒼い彗星は、海のかわりに、夜空をわたっていた。
翌々日、事情聴取と、内部の検証があった。
会議室に呼ばれ、安曇は、あの数十秒のことを、何度も言葉にさせられた。二階に上がった時刻。二人の要救助者の状態。床の軋み。崩落の前兆。自分がどの時点で、どちらを選ぶと決めたか。淡々と質問が続いた。責める口調ではなかった。手順だった。人がひとり死んだ現場では、必ずこうして、あとから言葉で検証される。安曇は、聞かれたことに、正確に答えた。感情を抜いて。まるで他人の話をするように。
そうしなければ、話せなかった。
検証の結論は、朝には出た。安曇の判断は「適切であった」。あの床の状態、あの残り時間、あの二人の状態を鑑みれば、一名の救助に絞ったことは、消防戦術として正しい。むしろ、一名を確実に救出したことは、評価に値する。表彰の話まで出た。人命救助に対する、署長からの感状。
安曇は、その話を、無表情で聞いた。
適切であった、という言葉が、天井から降ってくる、乾いた砂のように感じられた。適切。正しい。評価。それらの言葉は、全部、本当だった。そして、全部、安曇のいちばん痛いところには、届かなかった。誰も、後藤老人の「ありがとう」のことは、報告書に書かなかった。書きようがなかった。安曇しか、聞いていないのだから。あの二音節は、どの検証にも、どの評価にも、乗らなかった。それは安曇一人の胸に沈んで、そこで、いつまでも鳴りつづけるしかなかった。
会議室を出ると、廊下の窓から、真昼の光が射していた。
またひとつ、影のない正午が来ていた。安曇は、白い光のなかに立って、目を細めた。空を見上げた。あの日と同じ、白く灼けた空。だが、もう蒼い点はなかった。彗星は、夜のうちに、また薄れていったのだった。真昼の空は、ただ、まぶしいだけだった。
安曇は、胸ポケットに手をあてた。そこに、赤い手袋があった。まだ、返しに行っていなかった。
行かなければ、と思った。あの子に。会わなければ。何のためか、まだわからないまま。ただ、会わなければ、自分のなかの何かが、この白い光のように、逃げ場もなく灼けつづける気がした。
翌朝、安曇は病院へ行った。
非番だった。行くべきかどうか、迷った。救助した消防士が、救助された子に会いに行く。それは越権かもしれない。感傷かもしれない。だが安曇は、行かずにはいられなかった。あの、濡れた目に、もう一度、会わなければならない気がした。何のために、とは言えない。ただ、会わなければ、自分のなかの何かが、永遠に宙吊りのままになる気がした。
小児科の病室で、子どもは、ベッドに起きていた。
思ったより元気そうだった。煙の吸引で少し喉を痛めていたが、それだけだった。おかっぱの、小さな女の子。あの火のなかで見たときの、あの張りつめた顔ではなかった。ふつうの、五つの子の顔だった。母親らしい女性が付き添っていて、安曇を見ると、深く頭を下げた。何度も、何度も。言葉にならないようだった。
母親は、途切れ途切れに、話した。あの日、急な用があって、近所の食堂に子を預けたのだと。ほんの一、二時間のつもりだった、と。その食堂の常連の後藤さんが、子どもを可愛がってくれていて、二階の部屋であやしてくれることになった。それが――と、母親は言葉を詰まらせた。あの人が、うちの子を、と。会ったこともほとんどない、ただの近所の老人が、自分の命で、うちの子を。母親は、そこで、こらえきれずに顔を覆った。
安曇は、何も言えなかった。慰めの言葉は、どれも安っぽく思えた。この母親は、これから一生、後藤という名前を、忘れられずに生きていくのだろう。感謝と、負い目と、名づけようのない重さとを、抱えて。それは、安曇が背負うものとは違う、けれど同じくらい消えない何かだった。同じ火のなかから、それぞれが、それぞれの消えないものを持ち帰ったのだった。
安曇は、赤い手袋を、そっと差し出した。両方の。
片方は、あの子がずっと握っていたもの。もう片方は、後藤老人の手のなかにあったもの。安曇が、昨夜、消防署から預かってきた。持ち主に返すために。
「これ、君のだろう」
子どもは、二つの赤い手袋を見た。それから、安曇の顔を見た。あの、濡れた目で。もう火はうつっていなかった。ただ、澄んでいた。
子どもは、片方の手袋を手に取った。そして、もう片方は取らなかった。
かわりに、その残った片方を、安曇のほうへ、そっと押しやった。
「……おじさんに、あげる」
安曇は、動けなかった。
なぜ、と問う言葉が、喉でつかえた。なぜ、片方を、自分に。子どもは、うまく説明できないようだった。ただ、まっすぐに安曇を見て、もう一度、言った。
「おじさん、いっしょに、いてくれたから」
いっしょに、いた。
火のなかで。安曇が、あの子を抱えて出た、あのわずかな時間を、この子は「いっしょにいてくれた」と言った。そして、片方の手袋を差し出した。対になるはずのものの、片方を。
安曇は、それを受け取った。
小さな、赤い、片方だけの手袋。もう片方は、この子の手のなかに戻った。ふたつは、これで、別々の手のなかにある。だがそれは、ばらばらになったのではなかった。分けあった、のだった。ひとつずつ。この子と、安曇とで。
いっしょにいた、と子どもは言った。
安曇は、その言葉を、帰りの道すがら、何度も反芻した。あの数十秒、安曇は、この子を「選んだ」つもりでいた。老人を「置いていく」と決めた、と。だがこの子にとっては、選ばれたのでも、助けられたのでもなかった。ただ、誰かが、いっしょにいてくれた。火のなかで、ひとりではなかった。それだけだった。子どもは、天秤のことも、算術のことも、崩れる床のことも、知らない。ただ、大きな手が自分を抱えて、暗いところから明るいところへ運んでくれた、その温度だけを覚えている。
もしかすると、後藤老人にとっても、そうだったのかもしれない。あの人は、安曇に「置いていかれた」のではなく、自分が「この子を託した」のだ。折れた足で動けない自分の代わりに、この消防士が、この子を運んでいってくれる。あの人にとって安曇は、自分の手の続きだった。届かなくなった自分の手を、最後に伸ばしてくれた、他人の手。だから、「ありがとう」と言った。置いていく者への恨みではなく、託した相手への、感謝として。
そう思うことは、安曇に許された、ささやかな慰めだった。ほんとうにそうだったのか、確かめるすべはない。後藤老人は、もういない。だが、安曇は、そう思うことにした。そう思わなければ、この仕事を、続けられなかったから。
安曇は、その手袋を、いまも持っている。
あれから何度も火のなかに入った。何度も、判断を下した。誰を先に、どこまで踏み込むか。そのたびに、あの真昼を思い出す。影のない、白く灼けた正午。二つの命。折れた足の老人と、押入れの子ども。そして、目を閉じた老人の、あの委ねる顔。
若い隊員たちは、時々、安曇に訊く。もし、二人いて、一人しか運べなかったら、どうやって選ぶんですか、と。教本には優先順位が書いてある。生存可能性の高い者を、と。だが、それを口で言うのと、目の前の二つの命を前にして手を伸ばすのとでは、まるで違う。安曇は、若い連中に、教本の通りのことを教える。数字のことを。冷静に測れ、と。だが、心のなかでは、いつも、こう付け加える。――そして、選ばなかったほうを、忘れるな。忘れられると思うな。おまえは、それを一生背負う。背負う覚悟のない者は、この仕事をしてはいけない。だが、その言葉を、安曇は口には出さない。若いうちに、その重さを言葉で渡しても、たぶん、伝わらない。火のなかで、自分の手で選んだときに、初めてわかる。安曇がそうだったように。
安曇は、いまでもわからない。あれが正しかったのか。
いや――正しさなら、たぶん、正しかったのだ。数字も、老人の言葉も、あとで書かれた報告書も、みな、安曇の判断を「適切だった」と言った。表彰さえされた。だが、正しさは、安曇の眠りを返してはくれなかった。「ありがとう」という二音節は、いまも夜ごとに鳴る。あの人の最後に、背中しか見せなかったことは、いまも消えない。
だが、と安曇は思う。
消えないことは、間違っていることとは違う。消えないからこそ、あの人は、まだ安曇のなかに生きている。忘れてしまえば、あの人は二度死ぬ。だから安曇は、忘れない。あの折れた足を。あの目の閉じ方を。他人の子の落とし物を、最後まで握っていた、あの手を。忘れないことが、あの人を看取れなかった安曇にできる、たったひとつの、遅すぎる看取りなのだ。
真昼の火事には、影がない。
だが、そのぶん、選んだものと、選ばなかったものとが、白い光のなかに、くっきりと立つ。逃げ場のない明るさのなかで。人はそこで、生涯背負うものを、一瞬で決めなければならない。影がないというのは、隠れる場所がないということだ。自分の選択から、どこにも、隠れられないということだ。
安曇は、時々、あの蒼い彗星のことを考える。
真昼の白い空に、たった一点だけ、消え残っていた蒼。夜には冴え、明け方には薄れ、真昼にはその名残だけを残す、あの旅人。あれは、いまごろどこを行っているだろう。海をわたるまで、と子守唄は歌う。星は、いつか、どこかの海をわたって、見えなくなるのだろう。二度と、この空には戻らないのかもしれない。
それでも、一度は、確かに来た。
真昼の火のなかで、安曇が二つの命を天秤にかけた、あの一瞬の頭上に。蒼い一点は、確かに、来ていたのだ。
安曇は、あとになって、彗星のことを調べた。次にこの空に戻ってくるのは、何百年も先だという。安曇はもちろん、いま生きている誰もが、二度とあの蒼を見ることはない。一度きり。あの日、あの正午、あの火のなかで見たあれが、安曇の生涯における、最初で最後のミラ彗星だった。それが、よりによって、あの日に居合わせた。安曇が、自分の生涯でいちばん重い選択を下した、その頭上に。偶然だ、と安曇は思う。ただの偶然だ。星は、地上の人間の営みなど、知らない。だが、偶然だからこそ、安曇にとってあの蒼は、忘れられない印になった。あの選択と、あの蒼とは、安曇のなかで、もう分かちがたく結びついている。真昼の空を見上げるたびに、そこに蒼はなくても、安曇の目は、あの一点を探してしまう。
眠れ、眠れ、と、安曇は今でも、時々、口ずさむ。星が海をわたるまで、と。あの子守唄が、どこから来たのか、いまだにわからない。だが、いつからか、それは安曇の歌になった。眠れない夜に、火のなかの誰かを思う夜に、その旋律が、勝手にこぼれる。あの子に。後藤老人に。そして、いつか自分が救えなかった、すべての顔に。眠れ、眠れ。星が、海をわたるまで。彗星は、とうに、どこかの海をわたってしまった。だが、歌は、まだ、安曇の唇に残っている。
赤い手袋は、片方だけ。
いまも、安曇の胸ポケットのなかにある。出動のたびに、指先でそっと触れる。対になるもう片方は、遠い町で、大きくなった誰かの引き出しのなかにあるだろうか。それとも、とうに捨てられただろうか。安曇は、確かめない。確かめないことのなかに、まだ繋がっているものが、あるような気がするから。
対になるはずのものが、片方だけ。
失われたもの。置いていかれたもの。そして、待っているもの。
安曇は、いまでも、真昼になると空を見上げる。白く灼けた、影のない空を。そこに、もう蒼い点はない。彗星は、行ってしまった。だが安曇の目は、それでも探す。何かを。誰かを。あの、濡れた目を。あの、委ねる顔を。
火のなかで下した、たったひとつの選択を。
その選択に、まだ「ありがとう」と言われつづけている、自分自身を。
真昼の火事には、影がない。だから安曇は、いつまでも、自分の選んだ光の、まんなかに立っている。