影の消える刻
障子の外で、光が音もなく研がれていた。
二日目の朝、私は盤の前に坐って、まだ一手も指していなかった。指す必要がなかった。手番は相手にあり、相手はまた、指さなかった。私たちは互いの沈黙を、川の両岸のように隔てて眺めていた。その川の底には、七十七手の局面が沈んでいた。昨日の夕刻、記録係の若い青年が「本日はこれまで」と告げ、私が次の一手を紙に書いて封じ、それを袋に納めて糊で閉じたとき、盤上の三十一の駒は、その紙のなかにいる一つの駒の帰りを、じっと待つ姿勢になった。
封じ手というものを、私は嫌ったことがない。むしろ好んだ。夜のあいだ、盤上の局面はそのまま凍り、しかし私の頭のなかでは、封じた一手を軸に、数百の変化が音もなく渦を巻きつづける。眠りは浅く、夢は盤の目のかたちをしていた。桂馬が跳ね、香車が走り、そのどれもが、明日の正午へ向かって収束していく気配を持っていた。
障子は東と南の二面にあり、その紙の向こうを光が通っていた。二日目の朝の光は、まだ斜めで、やわらかい。障子の桟の影が、畳の上に細く長く伸びていた。その影が、時とともに短くなっていくのを、私は数十年、対局のたびに見つづけてきた。影の丈は時計だった。畳の目を這うようにして縮んでいくその影が、桟の真下に畳み込まれて消えるとき——つまり影が最も短くなるとき——それが正午だった。
正午に、この局は終わる。
私はそれを知っていた。理屈ではなく、指の腹が知っていた。四十年、盤に触れつづけてきた指の腹が。
一
私の名は要(かなめ)という。姓は言わずにおく。盤の前では、姓は要らない。段位も、肩書も、これまで積んだ勝ち星の数も、盤の上には一つも乗らない。乗るのは駒だけだ。
七十歳を過ぎた。名人戦の挑戦者としてこの部屋に坐るのは、これで最後だろうと思っていた。挑戦者としては、という但し書きが付く。この対局が終われば、私はおそらく、二度と番勝負の椅子には坐れない。齢がそれを許さない。読みの速度は、若い頃の半分にも満たない。ひと目で見えていたものが、いまは三つ数えなければ見えない。それでも指が覚えている。指が、盤の呼吸を覚えている。
相手は四十歳。名人。三期連続で防衛している、当代最強の男だ。私が若い頃、彼はまだ生まれてもいなかった。私が全盛期に指した棋譜を、彼は少年の頃に並べて育ったという。かつて私の弟子筋の者が、この男に稽古をつけたこともある。つまり私は、彼にとって、いくつも前の世代の、教科書の余白のような存在だった。
その余白が、いま、彼の目の前に坐っている。
彼は端整な顔立ちの男で、盤の前ではほとんど表情を動かさない。長い指が、ときおり自分の膝の上で、見えない駒を打つような、細かい動きをする。それが彼の考えている合図だと、二日間見ていて分かった。私が若い頃には、そういう癖はどれも隠せと教わったものだが、いまの棋士はもっと自然だ。自然であることが強い、と彼らは信じている。おそらく、正しい。
対局室は、都のはずれの、古い旅館の離れだった。庭に面していて、庭には大きな松と、小さな池があった。昨日の対局のあいだ、池の水面に落ちる光の反射が、天井に揺れる網の目を描いていた。今日はまだ、それが見えない。今日の光はまだ低い。
盤は榧(かや)の一枚板で、脚が四本、それぞれ梔子(くちなし)の実をかたどっていた。梔子の実は、口を開かない。物を言うな、という戒めだと、昔、師匠が教えてくれた。盤側から口出しをするな、と。榧の木肌は飴色に深く沈んで、幾百の対局が、その表面に薄い層をなして積もっていた。駒を打つと、その音は木の内へ吸い込まれ、しかし芯のところで一度、澄んだ響きを返してよこす。
私は自分の駒を見た。象牙の、古い駒だった。私が二十代のとき、初めてタイトル戦に出たときに、恩人が持たせてくれた駒。書体は錦旗。王将の「王」の字が、長い年月に撫でられて、わずかに角が丸くなっていた。この駒で、私は勝ち、そして数えきれないほど負けてきた。負けの数のほうが、はるかに多い。将棋という営みは、どんな名人にとっても、負けの記憶のほうが厚く積もる営みだ。勝った将棋は忘れる。負けた将棋は、死ぬまで指のなかに残る。
二
昨日、封じ手を書くとき、私の手は少し震えた。齢のせいではなかった。局面が、震えるほどのところに来ていたのだ。
七十六手目まで、局面はほぼ互角に進んでいた。互角というのは、実際には嘘だ。将棋に本当の互角はない。ただ、どちらの側からも、決定的な優劣が「まだ見えていない」というだけのことだ。優劣はすでに盤上に存在している。ただ、人間の目がそれを捉えきれないだけだ。私たちは、見えない優劣の輪郭を、指先で、盲人のように撫でて探る。
七十六手目、名人は右辺の香車を、一路、静かに引いた。
その手を見たとき、私の背筋を、細い針のようなものが走った。
なんでもない手に見えた。攻めでも受けでもない、間(ま)を計るような、呼吸を整えるような手だった。若い記録係も、盤側の解説者たちも、おそらくその手の意味を、その瞬間には理解していなかっただろう。しかし私は理解した。四十年、盤を見つづけてきた指の腹が、その手のなかに潜む刃を感じ取った。
その香車の一手で、盤面の重心が、音もなく移動したのだ。私の玉の逃げ道が、そのたった一路の移動によって、四手先で塞がることになる。まだ塞がってはいない。しかし、塞がる「約束」が、盤の上に置かれた。名人は、四手先の未来に、静かに楔を打ち込んだのだった。
私はそれから、長考に入った。
長考というのは、外から見れば、ただ坐って盤を睨んでいるだけの姿だ。しかし内側では、途方もないことが起きている。私は盤の上の三十一の駒を、頭のなかで解き放ち、あらゆる順序で動かしはじめる。ここでこう指せば、相手はこう来る。そう来れば、私はこう応じる。すると——という具合に、変化の枝が、暗い森のように四方へ伸びていく。一本の枝の先で盤面が破れれば、私はその枝を折り捨て、別の枝を辿りなおす。折っては辿り、辿っては折り。
これを、私たちは「読む」と呼ぶ。
読みの海に潜る、と言う者もいる。まさにその通りだった。私は深く潜った。息を止めるように潜った。海面の光は遠ざかり、あたりは暗く、水圧が耳を押した。その暗い水の底に、私は探しているものがあると知っていた。名人の楔を、無効にする一手。四手先で塞がる逃げ道を、その前に、こじ開けておく一手。それが、あるはずだった。ないはずがない。将棋の神は、どんな絶望的な局面にも、たいてい一つだけ、細い糸を残しておく。ただ、それを見つけられるかどうかだけが、人間に委ねられている。
一時間が過ぎた。
私はまだ、糸を見つけられずにいた。
障子の光が、少しずつ色を変えていった。昼の白い光から、夕の琥珀へと。桟の影が、逆の方向へ伸びはじめていた。私はその影を、視界の隅で感じていた。時間が、砂のように、私の指の間から零れていくのを。
そして、七十七手目。
私は、一つの手を見つけた。見つけた、というより、それは向こうから、暗い水の底で、白く光ってこちらへ泳いできた。それは、盤の右下、いっけん戦場から遠い場所にいた、一枚の歩だった。その歩を、一つ突く。ただ、それだけの手。
その歩を突けば、名人の香車の楔は、無効になる。四手先で塞がるはずだった逃げ道が、その歩の一突きによって、別の一路を得る。しかし——ここが恐ろしいところだった——その歩を突けば、こちらの右辺が、一手だけ、無防備になる。名人がもし、その無防備を突いてくれば、局面は一気に、剃刀の刃の上を渡ることになる。
安全な手ではなかった。
安全な手は、別にあった。左辺で、静かに受けに回る手。それを指せば、私は負けない。少なくとも、すぐには負けない。局面はまた長く続き、私はじりじりと、名人の緻密な攻めを受けつづけ、そして——おそらく、百二十手あたりで、静かに投了することになる。受けきれずに。
受けの将棋を選べば、私はゆっくりと負ける。
歩を突けば、私は速く勝つか、速く負ける。
私は、封じ手の時刻が迫っていることを知っていた。記録係が、そろそろ「本日はこれまで」と告げる時刻だった。私は、どちらを封じるか、決めなければならなかった。
そのとき、私はふと、庭のほうを見た。障子は閉じていたが、その紙の一点が、他より明るく光っていた。夕暮れの、最後の陽が、ちょうどそこに当たっていたのだ。障子の桟が作る小さな四角のなかに、白い光が滲んでいた。私はその白い四角を、しばらく見ていた。理由は分からない。ただ、そこに何かがある気がした。
私は、封じ手用紙を引き寄せた。
そして、右下の歩を突く手を、書いた。7七の歩を、7六へ。たった一文字のような手を、私は震える手で書いた。震えたのは、齢のせいではなかった。
三
その夜、私は宿の一室で、眠れずにいた。
窓の外は暗く、しかし完全な暗ではなかった。都のはずれとはいえ、空はうっすらと明るんでいた。私は布団の上に起き直り、しばらく窓辺に坐っていた。
封じた一手が、頭のなかで、何度も指しなおされていた。7六歩。その一手のあとの、名人の応手を、私はもう百通り読んでいた。名人は、必ず、右辺の無防備を突いてくるだろう。飛車を走らせて、こちらの陣に打ち込んでくる。そのとき、私は——玉を一路、逃がす。そして、こちらも反撃に転じる。そこから先が、深い、暗い森だった。何十手も先で、勝ちと負けが、髪の毛一本の差で分かれていた。
私は鞄を引き寄せた。
対局のときにいつも持ち歩く、古い革の鞄だった。もう三十年、使っている。角が擦り切れて、白く毛羽立っていた。そのなかに、扇子と、老眼鏡と、それから、小さな箱が入っていた。
青いマッチ箱だった。
月光堂、と側面に小さく記されていた。深い、群青の地に、細い銀の月が刷られていた。もうずいぶん古いもので、私はこのマッチを、一本も擦ったことがなかった。私は煙草を吸わない。だから、このマッチは、火を点けるためのものではなかった。お守りのようなものだった。
このマッチを、私は明け方に手に入れた。もう、何十年も前の、ある明け方に。
若い頃だった。私はまだ、一度もタイトルを取っていなかった。何度も番勝負に出て、そのたびに、あと一歩のところで敗れていた。周囲は、私のことを「あと一歩の男」と呼んだ。才能はある。読みも深い。しかし、勝負の最後の一手で、いつも安全なほうを選んでしまう。だから勝ちきれない、と。
その評は、正しかった。
私は、恐かったのだ。勝負の一手が。盤上のすべてを賭けて、剃刀の刃の上を渡る、その一手が。私はいつも、その一歩手前で足を止めた。安全な受けに回った。そして、ゆっくりと負けた。負けは負けでも、それは「立派な負け」だった。誰も私を責めなかった。「惜しかった」と、みなが言った。私は、その「惜しかった」の温かい湯のなかに、身を浸していた。
ある番勝負の、最終局の前夜だった。私は勝てば初のタイトル、負ければまた「あと一歩の男」という、その分かれ目の夜だった。私は眠れず、宿を抜け出して、夜の街を歩いた。見知らぬ町だった。番勝負は、いつも見知らぬ町で行われた。
その町の、細い路地の奥に、一軒の古書店があった。
こんな時刻に、と私は訝った。真夜中を過ぎていた。しかし、その店だけが、ぼんやりと灯りを点していた。硝子戸の向こうに、天井まで積み上がった本の背が見えた。私は、吸い寄せられるように、その戸を開けた。
「月光書房」と、色褪せた木の札が、戸の内側に掛かっていた。
四
店のなかは、古い紙と、埃と、それから、かすかな潮の匂いがした。海など、その町の近くにはなかったはずだった。しかし、たしかに潮の匂いがした。遠い海の記憶のような匂いだった。
奥に、老人が坐っていた。ひどく年老いた人で、顔は皺に埋もれ、目だけが、暗がりのなかで、湿った石のように光っていた。老人は、私が入ってきても、顔を上げなかった。手元の、小さな本を読んでいた。
私は、棚の間を歩いた。棋書を探したのかもしれない。あるいは、ただ、時間を潰したかったのかもしれない。眠れない夜を、どこかでやり過ごしたかった。棚には、見たこともない書名の本が並んでいた。背表紙の文字が、目を凝らすと読めるのに、目を離すと、何が書いてあったか思い出せない。そういう不思議な本ばかりだった。
「明日、大事な勝負かね」
老人が、顔を上げずに言った。
私は驚いて、老人を見た。どうして分かるのか、と訊こうとして、やめた。この店では、どんなことも、訊くだけ野暮だという気がした。
「はい」と、私は答えた。「勝てば、初めて、頂に手が届きます。負ければ——」
「負ければ、また、惜しかった、と言われるのだろう」
老人は、そこで初めて、私を見た。湿った石のような目が、私の奥のほうまで見通しているようだった。
「あんたは、恐がっている」と、老人は言った。「勝負の一手が。すべてを賭ける、あの一瞬が。あんたは、賭けたくないのだ。負けを、自分のものにしたくない。惜しい負けなら、それは運のせいにできる。だが、賭けて負けたら、それは、あんた自身の負けになる。あんたは、それが恐い」
私は、何も言えなかった。図星だった。誰にも見抜かれたことのない、私の、いちばん柔らかい場所を、この老人は、平然と指で突いた。
「一つ、譲ってやろう」
老人は、そう言って、机の抽斗を開けた。そこから、小さな箱を取り出して、私のほうへ、すべらせた。
青いマッチ箱だった。
「月光堂の、マッチだ」と、老人は言った。「火を点けるためのものではない。これは、覚悟のためのものだ」
「覚悟の」と、私は繰り返した。
「あんたが、本当に、すべてを賭ける一手を指すとき——そのときにだけ、これを一本、擦るがいい。ただし、擦れるのは、一生に一度きりだ。二本目はない。だから、いつ擦るか、それを、あんたはずっと、抱えて生きることになる」
私は、その青い箱を、手に取った。ひやりと冷たかった。氷のように。
「なぜ、私に」と、私は訊いた。訊いてはいけないと思いながら、訊いてしまった。
老人は、答えなかった。かわりに、低い声で、何かを口ずさみはじめた。それは、子守唄のようだった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで——
そういう文句だった、と思う。旋律は、聞いたことがないのに、なぜか懐かしかった。母が歌ってくれたような気がした。しかし私の母は、私が幼い頃に亡くなっていて、その声など、覚えているはずもなかった。
私は、その唄に、しばらく聴き入っていた。
気がつくと、空が白みはじめていた。硝子戸の向こうが、ほのかに明るんでいた。私は、礼を言おうとして、老人のほうを見た。
老人は、もう眠っていた。あるいは、眠っているように見えた。手元の本の上に、顔を伏せて。
私は、青いマッチ箱を握りしめて、店を出た。
そして、路地を数歩、歩いてから、振り返った。
そこには、店がなかった。
古書店のあった場所には、ただ、古い板塀が続いているだけだった。硝子戸も、灯りも、「月光書房」の木の札も、どこにもなかった。私は、自分の掌を開いた。青いマッチ箱は、たしかに、そこにあった。冷たく、青く。夢ではなかった証拠のように。
そのとき、私は、空を見上げた。
白みはじめた東の空の、まだ暗い西のほうに、一つ、蒼白い星があった。長い尾を、静かに引いていた。彗星だった。ミラ彗星、と、後で新聞で知った。何十年に一度、あるいは何百年に一度、この空を訪れる、稀な星だった。その蒼い一点が、私の頭上に、じっと懸かっていた。
私はその星を、しばらく見ていた。長い尾が、夜と朝の境目を、静かに縫っていた。
五
その番勝負の最終局を、私は——負けた。
安全な受けに回って、ゆっくりと負けた。青いマッチ箱は、鞄のなかで、一度も擦られなかった。私は、その一手のところで、また、足を止めたのだった。恐かった。老人にすべてを見抜かれ、それでもなお、私は、賭けることができなかった。
以来、私は、そのマッチ箱を、いつも鞄に入れて持ち歩いた。
擦らないマッチ箱を、四十年、私は抱えて生きた。
その間に、私はいくつかのタイトルを取った。不思議なもので、「あと一歩の男」と呼ばれつづけているうちに、いつのまにか、勝てるようになっていた。しかし、それは、賭けて勝ったのではなかった。相手のミスに助けられたり、こちらの受けが辛抱強く実を結んだり、そういう勝ち方だった。私は、生涯、ついに一度も、本当の勝負の一手を——すべてを賭ける、剃刀の刃の上のあの一手を——指したことがなかった。マッチは、擦られないままだった。
棋界の人々は、私のことを「受けの名手」と呼んだ。「粘りの棋士」とも。それは讃辞だった。しかし私は、その讃辞の底に、あの明け方の老人の言葉が、いつも沈んでいるのを知っていた。あんたは、恐がっている。賭けて負けたら、それは、あんた自身の負けになる。あんたは、それが恐い——。
四十年。
私は、恐れを抱えたまま、老いた。
そして、いま。名人戦の、二日目の朝。私は盤の前に坐っている。鞄のなかには、青いマッチ箱がある。四十年、擦られなかったマッチが。
そして、封筒のなかには、7六歩、という一手が、封じられている。
それは——賭けの手だった。
四十年ぶりの、いや、生涯で初めて、私が選ぼうとしている、本当の勝負の一手だった。安全な受けを捨てて、剃刀の刃の上を渡る、あの一手を。私は昨日、あの障子の白い四角を見ながら、それを選んだのだった。
なぜ選べたのか、自分でも分からない。
あるいは、これが最後の対局だと知っていたからかもしれない。もう、失うものが、何もなかったからかもしれない。老いた棋士に、明日はない。惜しい負けを重ねて、その温い湯に浸っていられる余生は、もう残っていなかった。
私は、賭けることにしたのだ。四十年、抱えて生きた、あのマッチを、今日こそ、擦るために。
六
「おはようございます」
記録係の青年が、部屋に入ってきた。二十歳そこそこの、まだ頬に幼さの残る青年だった。彼は、盤の前に坐り、記録用紙を広げた。それから、恭しく、封じ手の袋を、私のほうへ示した。
「封じ手を、開封いたします」
名人が、部屋に入ってきた。彼は、私に一礼した。私も、礼を返した。二日目の朝の挨拶は、それだけだった。言葉は要らない。盤の上で、すべてを話すのだから。
名人は、盤の前に坐り、目を伏せた。長い睫毛が、頬に影を落としていた。彼は、昨日から、私が何を封じたか、当然、読んでいるはずだった。おそらく、二つの手を読んでいる。安全な、左辺の受け。そして、危険な、右下の歩突き。彼は、私がどちらを選んだか、いま、知ることになる。
そして——彼はきっと、私が受けを選んだと、思っている。
なぜなら、私は「受けの名手」だからだ。四十年、そう呼ばれつづけてきた男だからだ。この局面で、老いた受けの名手が選ぶのは、当然、辛抱強い受けの一手だと、彼は信じている。信じて、それに備えて、昨夜、読んできたはずだった。
記録係の青年が、封筒に鋏を入れた。
かさり、と、乾いた音がした。
青年は、なかから、一枚の紙を取り出した。私の字で、一手が書かれていた。青年は、それを、静かに読み上げた。
「封じ手は——7六歩」
名人の睫毛が、震えた。
ほんの、わずかにだった。並の者には、気づかないほどの、微かな震えだった。しかし私は、二日間、この男を見つづけてきた。私は、それを見た。彼の、あの、いつも動かない顔の、目の縁が、ほんの一瞬、こわばった。
彼は、読み間違えていた。
いや、読み間違えたのではない。彼の読みは、正しかった。ただ、彼は、私という人間を、読み違えていた。老いた受けの名手が、最後の対局で、まさか、すべてを賭ける一手を選ぶとは——彼は、それを、可能性の一つとしては読んでいても、確率としては、極めて低く見積もっていた。人間は、そういう生き物だから。四十年、受けに生きた男は、死ぬまで受けに生きる。彼は、そう信じていた。彼の年齢では、それは無理もない読みだった。
私は、7六の地点へ、歩を進めた。
象牙の歩が、榧の盤の上に、ことり、と置かれた。その音は、木の芯で、一度、澄んだ響きを返した。
盤面が、変わった。
四手先で塞がるはずだった私の玉の逃げ道が、その歩の一突きによって、別の一路を得た。そして同時に、私の右辺が、一手だけ、無防備になった。剃刀の刃が、盤の上に、静かに横たわった。
私は、名人を見た。
彼は、目を開けて、盤を見つめていた。その目のなかで、何かが、猛烈な速度で動いているのが分かった。彼は、読み直していた。昨夜の読みを、いま、根こそぎ捨てて、新しい海へ、潜り直していた。
七
障子の外で、光が、少しずつ、高くなっていった。
桟の影が、畳の上で、縮んでいった。二日目の朝から、昼へ。私は、その影を、視界の隅で感じていた。影の丈が、時計だった。影が最も短くなるとき——正午——そのとき、この局は終わる。私は、それを知っていた。
名人は、長考に入った。
彼は、私の7六歩に対して、右辺の無防備を、突いてくるはずだった。飛車を走らせて。それが、最善だった。少なくとも、私はそう読んでいた。彼が飛車を走らせれば、そこから、深い、暗い森が始まる。何十手も先で、勝ちと負けが、髪の毛一本の差で分かれている、あの森が。
彼の指が、膝の上で、細かく動いていた。見えない駒を、打っていた。彼は、深く潜っていた。私と同じ、あの暗い水の底へ。
私も、潜った。
私たちは、同じ海の、同じ底で、すれ違った。彼が読む変化を、私も読んだ。私が読む変化を、彼も読んでいるはずだった。二人の棋士が、盤を挟んで、しかし本当は、同じ一つの海のなかで、たった一つの真実を——この局面の、神の一手を——探して、潜りつづけていた。
対局室は、静まりかえっていた。
記録係の青年の、時を計る秒読みの声も、まだなかった。持ち時間は、まだ双方に、たっぷりとあった。私たちは、時間の許すかぎり、潜った。庭の松の枝で、ときおり、鳥が鳴いた。池の水が、微かに、ちゃぷ、と鳴った。それ以外に、音はなかった。
一時間が、過ぎた。
名人は、まだ、指さなかった。
私は、彼の顔を見た。彼の額に、うっすらと、汗が滲んでいた。あの、いつも冷静な男の額に。彼は、迷っていた。彼は、右辺の飛車走りが最善だと、頭では分かっていて、しかし、その先の森が、あまりに暗く、あまりに深いことに、怯んでいた。飛車を走らせれば、局面は、剃刀の刃の上を渡ることになる。彼もまた、賭けなければならなかった。
私は、思った。
——ああ、この男も、恐いのだ。
四十歳の、当代最強の名人が。すべてを賭ける、あの一手が。彼もまた、私と同じ、人間なのだった。盤の前で、剃刀の刃を前にして、足がすくむ、あの感覚を、彼も知っている。ただ、彼は、私よりずっと若く、まだ、幾度もその刃を渡る勇気を持っている。私は、四十年、渡れなかった。彼は、まだ、渡れる。
そのことが、私に、奇妙な、静かな感情をもたらした。哀しみのような、慈しみのような。私は、この男に勝ちたかった。心の底から、勝ちたかった。しかし同時に、この男が、私と同じ怯えを、その端整な顔の下に隠していることを、いとおしく思った。
彼が、ふと、顔を上げた。
私と、目が合った。
一瞬だった。しかし、その一瞬に、私たちは、言葉なしに、多くのことを語り合った。私たちは、四十年の齢の差を隔てて、しかし、同じ場所に立っていた。剃刀の刃の、こちら側と、向こう側に。私は、もう賭けた。歩を突いた。彼は、まだ、賭けていない。飛車を、まだ、走らせていない。
彼の目が、静かに、燃えていた。
彼は、視線を盤に戻した。
そして、飛車に、手を伸ばした。
八
名人が、飛車を走らせた。
盤の右辺を、飛車が、一直線に駆け抜けた。象牙の駒が、榧の盤を滑る、その音が、部屋の静寂を、鋭く裂いた。彼は、賭けたのだった。剃刀の刃の上を、渡ることを、選んだのだった。
私は、心のなかで、深く、頷いた。
これで、いい。これで、二人とも、賭けた。あとは、盤が、答えを出すだけだ。神の一手を、どちらが先に、その指で掴むか。それだけだった。
私は、玉を、一路、逃がした。
歩を突いたことで得た、あの、別の一路へ。もし、あの歩を突いていなければ、この一路は、なかった。玉は、いま、辛くも、飛車の利きから、身をかわした。しかし、それは、逃げきったのではなかった。まだ、盤の上には、無数の刃が、光っていた。
そこから、局面は、猛烈な速度で、動きはじめた。
私が指し、名人が応じる。名人が指し、私が応じる。手と手が、火花を散らして、噛み合った。もう、長考の余裕は、なかった。持ち時間が、みるみる、削れていった。記録係の青年が、ついに、秒読みを始めた。
「残り、十分です」
彼の、若い声が、部屋に響いた。
私は、盤に、覆いかぶさるようにして、読んだ。老いた目が、盤の目の、その先の、暗い水の底を、必死に、探った。名人も、同じだった。彼の指が、震えていた。汗が、彼の顎から、盤の脇に、ぽつり、と落ちた。
私たちは、もう、若いも老いも、名人も挑戦者も、なかった。ただ、二つの、盤に賭けた魂が、暗い海の底で、たった一つの真実を、掴もうとして、もがいていた。
障子の外の光が、白く、灼けていた。
朝の、やわらかい光は、もう、どこにもなかった。真昼の、白い、容赦のない光が、障子の紙を、内側から、灼いていた。桟の影は、畳の上から、ほとんど消えかけていた。影は、桟の真下に、細く、細く、畳み込まれようとしていた。
正午が、近づいていた。
九
「残り、五分です」
秒読みの声が、遠く、聞こえた。私の意識は、もう、この部屋にはなかった。盤の上の、あの暗い海の底に、私は、いた。
そこに、それは、あった。
神の一手が。
私は、それを、見つけた。いや、それは、四十年前のあの明け方と、同じだった。それは、向こうから、暗い水の底で、白く光って、こちらへ、泳いできた。一枚の、駒だった。それを、ある一点へ、打つ。ただ、それだけの手。しかし、その一手で——盤上のすべてが、決まる。
その手を指せば、私は、勝つ。
名人の飛車走りは、一手、及ばずに、破れる。私の玉は、危ういところで、詰みを、免れる。そして、次の私の番に、私は、名人の玉を、詰ますことができる。ぎりぎりの、髪の毛一本の差で。私の勝ちだった。
しかし——その手は、恐ろしい手だった。
その手を指せば、もし、私の読みに、たった一つでも、間違いがあれば——たった一路、駒の位置を、読み違えていれば——私は、次の瞬間に、詰まされる。私の玉が。逆に。即座に。
四十年前の、あの明け方の、老人の言葉が、蘇った。
——あんたが、本当に、すべてを賭ける一手を指すとき、そのときにだけ、これを一本、擦るがいい。
私は、盤から、手を離した。
そして、傍らの、鞄に、手を伸ばした。
名人が、怪訝そうに、私を見た。記録係の青年も。この、勝負の分かれ目の、一秒を争う局面で、私が、なぜ、鞄に手を伸ばすのか。誰にも、分からなかった。
私は、鞄の、いちばん奥から、青いマッチ箱を、取り出した。
月光堂の、青いマッチ箱を。四十年、擦られなかった、あのマッチを。深い、群青の地に、細い、銀の月が、刷られていた。私は、それを、掌に、乗せた。ひやりと、冷たかった。四十年前と、同じ、氷のような冷たさだった。
「残り、三分です」
秒読みの声が、聞こえた。
私は、箱を、押し開けた。
なかには、マッチが、一本だけ、残っていた。もともと、一本しか、入っていなかったのかもしれない。私は、それを、指で、つまんだ。細い、木の軸だった。頭は、赤かった。四十年、灯されなかった、赤い火の頭が。
私は、それを、箱の側面に、擦った。
しゅっ、と、乾いた音がして——火が、点いた。
十
小さな、青い焔だった。
いや、青いのは、点いた一瞬だけで、すぐに、焔は、橙色に変わった。しかし、私の目には、それが、青く見えた。四十年前の、あの明け方の、彗星の、蒼白い尾のように。
私は、その焔を、見つめた。
対局室の、白く灼ける真昼の光のなかで、その小さな焔は、ほとんど、色を持たなかった。真昼の光は、どんな火よりも、白く、強い。焔は、その白い光のなかに、儚く、揺れていた。しかし、私には、見えた。その小さな焔の、青い芯が。
私は、その焔に、四十年を、見た。
賭けられなかった、四十年を。惜しい負けの、温い湯に浸っていた、四十年を。あんたは、恐がっている、と、あの老人に見抜かれた、あの明け方から、今日まで。私は、この一本のマッチを、擦る勇気を、ずっと、持てなかった。すべてを賭ける一手を、指す勇気を。
いま、私は、擦った。
もう、恐くは、なかった。
不思議なことに、火を点けた瞬間に、恐れは、消えていた。焔を見ていると、心が、静かになった。凪いだ、真昼の海のように。私は、もう、負けても、いいと思った。いや、負けても、いい、というのとは、少し、違った。私は、この一手を、指したかった。四十年、指せなかった、この一手を。勝ち負けは、その、あとのことだった。勝負の一手を指す——そのこと自体が、私が、四十年、求めて、求めきれなかった、頂だった。
焔が、軸を、伝って、下りてきた。指が、熱くなった。私は、それを、感じながら、なお、焔を、見ていた。
「残り、一分です」
私は、マッチを、傍らの、小さな灰皿に、置いた。焔は、そこで、静かに、燃え尽きた。細い煙が、一筋、真昼の光のなかを、立ちのぼった。その煙が、障子の白い紙を、背景にして、ゆらり、と、揺れて、消えた。
私は、盤に、向き直った。
名人が、私を、見ていた。彼は、私が何をしたのか、分からなかっただろう。マッチを擦り、焔を見つめ、それを燃やした、老いた棋士の、その所作の意味を。しかし、彼は、何も、言わなかった。ただ、私の目を、見ていた。そして、私の目のなかに、何かを、見たようだった。彼の顔から、あの、怯えの色が、消えていた。かわりに、静かな、覚悟のようなものが、そこに、あった。
彼もまた、私の焔に、何かを、受け取ったのかもしれない。
私は、盤の上の、その一枚の駒に、手を伸ばした。
神の一手が、そこに、あった。四十年、私が、探しつづけた、あの一手が。すべてを賭ける、剃刀の刃の上の、あの一手が。私の指が、その駒に、触れた。象牙の、冷たい駒だった。私は、それを、つまんだ。
障子の外で、光が、いちばん高く、のぼった。
桟の影が、消えた。畳の上から、影が、完全に、消えた。物という物が、その影を、足の下に畳み込んで、まっすぐに、立った。私も、盤も、駒も、名人も、みな、影を、失った。
正午だった。
十一
その、影の消えた一瞬に、私は、ふと、障子のほうを、見た。
障子は、白く、灼けていた。真昼の光が、その紙を、内側から、灼いていた。まるで、障子の向こうに、白い焔があるかのようだった。私は、その白い光のなかに、一点、蒼いものが、あるような気が、した。
目を、凝らした。
——彗星だった。
いや、そんなはずは、なかった。真昼だった。空は、白く、灼けていた。彗星など、見えるはずが、なかった。しかし、私の目には、たしかに、見えた。障子の白い光の、その奥に、蒼白い、一点が。長い尾を、静かに、引いて。四十年前の、あの明け方に、私が、月光書房を出たあとに、見上げた、あの、ミラ彗星が。何百年に一度、この空を訪れる、あの、稀な星が。
真昼の、白い空にも、それは、見えた。あまりに明るいために、真昼にも見えると言われる、稀なる星として。私は、それを、見た。四十年ぶりに。
そして、私は、悟った。
あの明け方から、今日まで、この星は、ずっと、私の頭上を、渡っていたのだ。ゆっくりと、ゆっくりと。夜を、越え、朝を、越え、そして、いま、真昼の、いちばん高いところへ。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで——あの、子守唄の、文句のように。この星が、白い空の海を、わたりきる、その一瞬に、私は、この一手を、指すべく、四十年、待っていたのだ。
いや——待っていたのは、私ではなかった。
この一手が、私を、待っていたのだ。四十年、暗い海の底で。私が、恐れを、越えて、それを、掴みにくる、その一瞬を。
私は、駒を、置いた。
ことり、と、象牙の駒が、榧の盤の上に、置かれた。その音は、木の芯で、一度、澄んだ響きを、返した。四十年で、いちばん、澄んだ響きだった。
盤面が、決まった。
一瞬、部屋の時間が、止まった。名人が、盤を、見つめた。記録係の青年が、息を、呑んだ。庭の池で、水が、ちゃぷ、と、鳴った。松の枝で、鳥が、一声、鳴いて、飛び立った。
そして、名人が、盤の上に、両手を、つかえた。
「——負けました」
彼の、静かな声が、真昼の光のなかに、落ちた。
十二
私は、しばらく、盤を、見ていた。
象牙の駒が、榧の盤の上で、白く、光っていた。真昼の光が、その駒を、灼いていた。影は、まだ、消えたままだった。すべてのものが、影を、失って、まっすぐに、立っていた。
私は、勝ったのだった。
四十年ぶりに、いや、生涯で初めて、私は、すべてを賭ける一手を、指して、勝ったのだった。「あと一歩の男」と呼ばれた、あの若い日から、四十年。私は、ついに、その一歩を、踏み越えた。剃刀の刃の上を、渡りきった。
しかし、私の心には、勝利の、あの、灼けるような喜びは、なかった。
かわりに、あるのは、静かな、深い、凪だった。真昼の海のような、白く灼ける、静かな凪。私は、目を、閉じた。四十年前の、あの明け方の、月光書房の、古い紙と、埃と、遠い潮の匂いが、蘇った。あの老人の、湿った石のような目が。眠れ、眠れ、と、口ずさむ、あの、低い声が。
——あんたは、いつ、これを擦るか、それを、ずっと、抱えて生きることになる。
老人は、そう言った。
私は、四十年、抱えて生きた。そして、いま、擦った。もう、抱えるものは、なかった。私の手のなかは、空っぽだった。空っぽで、そして、軽かった。羽根のように。
名人が、顔を、上げた。
彼は、私を、見て、そして、静かに、微笑んだ。負けた者の、微笑だった。しかし、それは、悔しさの、微笑では、なかった。何か、清々しいものが、そこに、あった。彼は、剃刀の刃の上を、渡って、そして、負けた。しかし、彼は、渡ったのだ。怯えを、越えて。そのことを、彼は、自分で、知っていた。負けても、彼は、失わなかった。四十歳の、当代最強の名人は、この一局で、また一つ、何かを、得たのだ。私が、四十年かけて、やっと得たものを、彼は、この二日で。
「見事な、封じ手でした」と、名人は、言った。
私は、首を、横に、振った。
「見事だったのは」と、私は、言った。「あなたが、飛車を、走らせたことです。あなたは、賭けた。私も、賭けた。だから、盤が、真実を、返してくれた。どちらかが、賭けなければ、真実は、出てこない」
名人は、しばらく、私を、見つめて、それから、深く、頷いた。
私たちは、駒を、片づけはじめた。
象牙の駒を、一つ、また一つ、駒箱に、収めていった。私の、王将の、「王」の字が、角の、丸くなった、あの駒も。四十年、私と、共に、勝ち、共に、負けてきた、あの駒も。私は、それを、指で、そっと、撫でた。長いあいだ、ご苦労だった、と、心のなかで、呟いた。
障子の外で、光が、ほんの少し、傾きはじめた。
正午が、過ぎたのだった。桟の影が、また、畳の上に、生まれはじめていた。今度は、逆の方向へ。昼から、午後へ。世界は、また、影を、持ちはじめた。物という物が、その足元に、細い、細い影を、伸ばしはじめた。
私は、青いマッチ箱を、手に取った。
なかは、空だった。もう、マッチは、一本も、残っていなかった。私は、その、空の箱を、しばらく、見ていた。深い、群青の地に、細い、銀の月。四十年、私と、共にあった、この箱も、いまや、ただの、空の箱だった。役目を、終えた、空の箱。
私は、それを、鞄に、しまおうとして、やめた。
かわりに、私は、それを、盤の脇に、そっと、置いた。名人の、目の前に。
「これを」と、私は、言った。「あなたに」
名人は、その、青い箱を、手に取った。訝しげに、それを、見た。
「なかは、空です」と、私は、言った。「ずっと昔、ある明け方に、私は、これを、手に入れました。あるお方に、譲られたのです。火を点けるための、ものではありません。これは——覚悟のためのものです。あなたが、本当に、すべてを賭ける一手を、指すとき。そのときに、これを」
私は、そこで、言葉を、切った。空の箱を、渡すことに、意味があるのか、自分でも、分からなかった。マッチは、もう、ない。擦るべき火は、もう、ない。しかし——譲られたときも、そうだったのだ。あの老人は、たった一本の、擦れば消えるマッチを、私に、譲った。そして、その一本は、四十年、私を、生かした。抱えて生きる、その重みが、私を、生かした。
「そのときに」と、私は、続けた。「箱を、開けて、ください。なかには、何も、ないでしょう。しかし、そのとき、あなたは、思い出すはずです。かつて、一人の、老いた棋士が、この箱を、抱えて、四十年、生きたことを。そして、真昼の、いちばん高い光のなかで、ついに、それを、擦ったことを。あなたが、賭けるとき——あなたは、独りでは、ありません」
名人は、その、青い、空の箱を、両手で、包むように、持った。
そして、深く、頭を、下げた。
終
私は、対局室を、出た。
廊下は、真昼の光で、白く、満ちていた。庭に面した、その廊下を、私は、ゆっくりと、歩いた。老いた足で、一歩、また一歩。庭の松が、真昼の光を、浴びて、輝いていた。池の水が、その光を、返して、天井に、揺れる、網の目を、描いていた。昨日は、見えなかった、あの網の目が、いまは、見えた。
私は、廊下の、途中で、立ち止まった。
そして、空を、見上げた。
真昼の空は、白く、灼けていた。雲一つ、なかった。ただ、白い。目が、痛くなるほど、白い。私は、その白のなかに、あの、蒼い一点を、探した。ミラ彗星を。四十年、私の頭上を、渡りつづけてきた、あの、稀な星を。
しかし、それは、もう、見えなかった。
真昼の光が、あまりに、強すぎた。あるいは、彗星は、もう、白い空の海を、わたりきって、その向こうへ、去ってしまったのかもしれない。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで——星は、海を、わたりきったのだ。そして、私の、長い、長い、夜も、明けたのだった。
私は、目を、閉じた。
まぶたの裏に、あの、蒼い一点が、まだ、残っていた。長い尾を、静かに、引いて。それは、消えなかった。空からは、消えても、私の、まぶたの裏からは、消えなかった。四十年、私が、抱えて、生きてきた、あの、明け方の記憶が。
私は、また、歩きだした。
鞄は、軽かった。青いマッチ箱の、あの、わずかな重みが、消えていた。私は、その、軽さを、抱えて、廊下を、歩いた。真昼の光が、私の足元に、影を、作りはじめていた。まだ、短い、しかし、たしかな、影を。生きている者の、影を。
盤の上で、私は、四十年ぶりに、恐れを、越えた。そして、越えたその瞬間に、私は、もう、盤に、思い残すことが、なくなっていた。これが、最後の対局に、なるだろう。しかし、それで、よかった。私は、指すべき一手を、指した。生涯、ただ一度の、その一手を。真昼の、いちばん高い光のなかで。影の、消えた、その一瞬に。
廊下の突き当たりで、私は、もう一度、振り返った。
対局室の障子が、遠く、白く、光っていた。その向こうで、若い名人が、いまも、あの、青い、空の箱を、手に、坐っているだろう。いつか、彼も、真昼の光のなかで、その箱を、開けるだろう。なかには、何もない。しかし、彼は、独りでは、ない。
障子の白い光が、まぶしかった。
私は、その光に、深く、一礼して、歩き去った。四十年、抱えていた一本のマッチは、燃え尽きて、いま、私の手のなかは、空だった。それは、負けて空になった手ではなく、賭けて空になった手だった。私は、生まれて初めて、その違いを、指の腹で、知った。