真昼の一太刀
一
正午に人を斬るのは、朝に斬るのとは違う。
朝の光には斜めの慈悲がある。夕には赦しに似た翳りがある。だが正午の光には、どこにも隠れる場所がない。物のすべてがおのれの真下に短い影を畳み込み、まるで自分の罪を足の裏に踏みしめて立っているかのようだった。
矢野新之丞は、白洲の砂の上に立ち、その足元のごく短い影を見つめていた。影は逃げなかった。逃げ場のない光の下で、影さえも観念しているように見えた。
夏の盛りである。庭には水が打たれていたが、正午の陽はその湿りを瞬く間に舐め取り、砂は白く、白すぎて、目の奥が痛んだ。蟬の声は、ある。だが不思議と、それは静けさを破らなかった。むしろ蟬の声が高まるほどに、この庭の底に沈んだ静寂は深くなった。まるで音が、沈黙を測るための物差しであるかのように。
新之丞は十九であった。介錯の役を命じられて、まだ半刻も経っていない。
その半刻の間に、彼は生涯ぶんの逡巡を済ませてしまった気がした。
事の起こりは、家中の分限帳をめぐる不正であった。年貢の付け替え、隠し田の帳消し、藩庫の欠損――そうしたものが、ある一人の勘定方の名において露見した。その名を、平山八郎兵衛という。
平山八郎兵衛は、新之丞の剣の師である。
正確には、道場の師ではない。八郎兵衛は勘定方の役人であって、剣を教える立場にはなかった。だが新之丞が十二の年、父を流行り病で亡くし、母もそれを追うようにして世を去ったとき、身寄りを失った少年をひきとって、飯を食わせ、字を教え、そして――剣の握り方を教えたのは、この八郎兵衛であった。
「刀というのはな、新之丞」と、あの頃の八郎兵衛は言った。まだ日焼けの残る少年の手をとって、柄の握りを直しながら。「振るためのものではない。振らぬためのものだ」
意味は分からなかった。だが手の温かさは覚えている。
その手が、いま、白布の上で腹を切る。
新之丞が八郎兵衛の家に引き取られた最初の夜のことを、彼はいまでも覚えている。
雪の降る晩であった。両親を続けざまに失った十二の少年は、ものも言わず、火鉢の隅にうずくまっていた。八郎兵衛は、なにも訊かなかった。ただ、粥を炊き、それを椀によそって、少年の前に置いた。
「食え」とだけ、言った。
少年は、食えなかった。喉が、詰まっていた。悲しみでではない。悲しみを、どう扱えばよいのか、分からなかったのだ。父も母も、なにも教えずに、逝ってしまった。悲しみの扱い方さえ。
八郎兵衛は、椀に手をつけぬ少年を、しばらく見ていた。それから、自分の椀をとり、黙って粥をすすった。ずず、と音を立てて。まるで、こうやって食うのだ、と手本を見せるように。
少年は、その音を聞いているうちに、なぜか、涙がこぼれた。そして、椀を手にとり、粥をすすった。塩の効いた、素朴な味だった。温かかった。腹の底が、じんわりと温もった。
その温もりを、新之丞は、生涯忘れなかった。人が人を憐れむということの、いちばん根の温もりを。
八郎兵衛は、勘定方の役人であった。算盤をはじき、帳簿をつけ、藩の金の出入りを勘定する男であった。地味な役目である。剣客でもなければ、名門の出でもない。だが、その男の粥の温もりが、身寄りをなくした少年を、この世につなぎとめた。
「なぜ、私を引き取ってくださったのです」と、後年、新之丞は訊いたことがある。
「勘定した」と八郎兵衛は答えた。「おまえを引き取る損と、引き取らぬ損とを、天秤にかけた。引き取らぬ損のほうが、大きかった」
「損、ですか」
「そうだ」と八郎兵衛は言った。「人を見捨てる損は、目には見えぬ。だが、いちばん高くつく。俺は勘定方だからな。見えぬ損を、見誤らぬ」
新之丞には、その言葉の重みが、まだ分からなかった。だがいまは――白洲の砂の上に立ついまは、痛いほどに分かる。八郎兵衛は、いままた、勘定をしたのだ。誰を生かし、誰が死ねば、この世の損がいちばん小さくなるかを。そして、みずからの死を、選んだのだ。
二
切腹の作法というものは、恐ろしいほどに細かい。
庭の一隅に、二重の畳が据えられ、その上に白木綿が敷かれる。四方に幔幕が張られ、青竹が立てられる。介錯人は左後方に控え、切腹人が短刀に手をのばした、その頸を一太刀で落とす。落としきってはならぬ。皮一枚を残し、首が前に落ちて胸に垂れるようにする。それが作法であり、慈悲であるという。
作法。慈悲。
新之丞はその二つの言葉を、口の中でいくども転がした。転がすほどに、二つの言葉は互いを憎み合っているように思えた。慈悲であるならば、なぜこれほど厳しい作法を課すのか。作法であるならば、なぜそれを慈悲などと呼ぶのか。
彼が介錯人に選ばれたのには、表向きの理由があった。腕が立つ。それは事実である。家中の若手のなかで、新之丞の抜きつけの速さと太刀筋の正確さは知られていた。介錯には、なによりも確かな腕がいる。しくじれば、切腹人にいたずらな苦しみを与える。だから腕の立つ者を、という道理は通っている。
だが新之丞は、裏の理由を知っていた。
これは、試しであった。
家老の榊原監物が、わざと新之丞を選んだのだ。平山八郎兵衛に恩ある若侍が、その師の首を落とせるかどうか。落とせぬなら、その若侍もまた、平山と同じ心根の甘い、公儀の掟より人の情を重んじる不忠者――そう見なされる。落とせば、忠義は証される。
つまり新之丞は、いま、二人ぶんの命を量りにかけられていた。師の命と、自分の命と。
介錯の命を受けたとき、新之丞は、その場で拒もうとした。喉まで、拒絶の言葉がのぼった。だが、彼の傍らにいた同輩の若侍、篠田喜内が、袖をひそかに引いた。
「よせ」と、喜内は声を殺して言った。「いま拒めば、おまえも斬られる。そして――平山どのの介錯は、別の者に回る。腕の劣る、心のない者に。おまえは、それでよいのか」
その一言が、新之丞を黙らせた。
拒めば、自分が死ぬ。それは、かまわなかった。若い彼は、まだ、死をそれほど恐れてはいなかった。だが、拒んだところで、八郎兵衛は死ぬ。しかも、心のない介錯人の、しくじった太刀で、いたずらに苦しみながら死ぬ。それだけは、耐えられなかった。
だから新之丞は、命を受けた。「承りました」と、頭を下げた。声は、震えていた。だが、頭は、深く下がった。
家老の榊原監物は、その様子を、じっと見ていた。若侍の逡巡も、その果ての承諾も、すべて見透かしたような目で。そして、かすかに、口の端を歪めた。それが笑みであったのかどうか、新之丞には分からなかった。
いや、と彼は思う。命だけではない。
もし自分がこの刀を振り下ろせなければ、八郎兵衛の切腹は「不首尾」となる。介錯を欠いた切腹は、恥辱である。師は、腹を切っても、なお辱められる。それだけは、と新之丞は思った。それだけは、させたくない。
だが振り下ろせば――自分の手で、育ての親を殺す。
彼は、幔幕の白い布地に目をやった。正午の光を透かして、布は内側から発光しているようだった。その白さは、無垢の白ではなかった。むしろ、何もかもを漂白してしまう、容赦のない白さであった。善も悪も、恩も義も、その白さの前では等しく色を失うように思えた。
三
八郎兵衛が庭に現れたのは、正午をわずかに過ぎた頃であった。
浅葱の裃を着け、髪を整え、その足取りには乱れがなかった。五十を過ぎた男の背が、これほど真っ直ぐでありうるものかと、新之丞は場違いにも感嘆した。罪人として引き出されているというのに、八郎兵衛の姿には、罪人の卑屈さがどこにもなかった。
八郎兵衛は白布の上に座した。ゆっくりと、膝を折り、袴の襞を正した。まるで茶席にでも招かれたかのような静けさで。
検使の役人が、罪状を読み上げた。ながながとした漢文調の言い回しのなかに、「藩庫欠損」「不正付け替え」といった言葉が、砂利のように混じっていた。八郎兵衛はそれを、目を伏せて聞いていた。反論もせず、詫びもせず、ただ聞いていた。
新之丞は、師の斜め後ろに控えていた。刀を右手に提げ、片膝をつき、まだ立ってはいない。作法では、切腹人が短刀に手をのばす直前に、介錯人は立ち、位置につく。それまでは、こうして控える。
控えながら、新之丞は八郎兵衛の後ろ姿を見ていた。
その髷の生え際に、白いものが増えていた。この一年で、ずいぶん白くなった。分限帳の不正が、ひそかに八郎兵衛の身を蝕んでいたことを、新之丞はいまさらのように悟った。
そして――彼はふと、妙なことに気づいた。
八郎兵衛の左手が、袴の膝の上に置かれていた。その手には、なにも着けていない。ただの手だ。だが新之丞は、その手を見て、遠い記憶を掘り起こした。
八郎兵衛は昔、寒い朝には手袋をしていた。鹿革の、黒ずんだ手袋を。だがそれは、いつも片方だけだった。右手だけ。左手は、素手のまま。
「なぜ片方だけなのです」と、幼い新之丞は訊いたことがある。
「片方を、誰かに渡したのだ」と、八郎兵衛は答えた。それ以上は言わなかった。少年はそれを、大人の冗談だと思って笑った。
いま、その左手が、これから短刀の鞘を払おうとしている。
新之丞は、控えの姿勢のまま、その場に膝をつき、待った。
待つ、ということが、これほど残酷なものだとは、彼は知らなかった。ただ待つのだ。目の前で、敬愛する者が、腹を切るのを。その一瞬まで、なにもできずに、ただ、待つ。
彼の握る刀は、備前の古刀であった。八郎兵衛から譲り受けた、家に一振りだけの差料である。かつて八郎兵衛は、それを新之丞に渡すとき、こう言った。「この刀で、まことに人を斬らねばならぬ日が、おまえの生涯に、一度あるかもしれぬ。だがその一度が、来ぬことを、俺は祈っておる」
来た、と新之丞は思った。その一度が、いま、来た。そしてそれは――よりにもよって、この刀をくれた、その人を斬るための一度であった。
なんという皮肉であろう。あるいは、なんという因果であろう。八郎兵衛は、みずから譲った刀で、みずからの首を落とされる。まるで、そうなることを、どこかで予感していたかのように。
新之丞の膝の下で、白洲の砂利が、じりじりと熱を持っていた。正午の陽が、容赦なく照りつけていた。汗が、彼の背を伝った。だが、その汗は、暑さのためだけの汗では、なかった。
四
検使が読み上げを終えた。
沈黙が下りた。
その沈黙のなかで、新之丞は空を見上げた。なぜそうしたのか、自分でも分からない。ただ、この白布の上のあまりに厳しい光景から、一瞬、目を逃したかったのかもしれぬ。
正午の空は、白かった。青いというよりは、白熱していた。太陽が真上にあり、まともに見ることはできなかった。目を細め、太陽をわずかに外して、彼は空の一角に視線を投げた。
そのとき――見えた。
白く灼けた空の、南のはずれのあたりに、蒼い一点があった。
星ではない。星が真昼に見えるはずがない。だがそれは、確かにそこにあった。針の先ほどの、蒼白い光。目を凝らせば凝らすほど、それは確かな輪郭をもった。そしてその一点から、ごくかすかに、蒼い尾のようなものが、空の白さに溶けながらも、たしかに引かれていた。
彗星だ、と新之丞は思った。
思い出した。この数日、明け方の東の空に、蒼い尾を引く星が出ていた。人々はそれを「箒星」と呼んで恐れ、あるいは見物していた。ミラ、という異国の名で呼ぶ者もいた。長い長い尾を引く、稀なる星。何十年に一度、あるいは何百年に一度、天をよぎるのだという。
だが、それが真昼に見えるとは。
新之丞は、幼い頃に八郎兵衛から聞いた言葉を思い出した。あるとき二人で夜明けの井戸端に立っていたとき、東の空に一等星がまたたいていた。八郎兵衛はそれを指して言った。
「新之丞。まことに明るい星というのはな、昼でも、そこにある。見えぬだけで、消えたわけではない。人の善もそれと同じだ。見えぬときも、消えたわけではない」
あのときも、意味は分からなかった。
いまも、分かったわけではない。
だが、真昼の空にひとつだけ蒼く灯る星を見て、新之丞の喉の奥が、締めつけられた。
その星は、まるで、この地上のむごたらしい儀式を、天のどこか高いところから、静かに見おろしているようだった。あるいは――消えぬものが、ここにもひとつある、と告げているようでもあった。
五
「新之丞」
低い声だった。八郎兵衛が、後ろを向かぬまま、彼の名を呼んだ。
検使の許しを得たわけではない。作法に外れた行いだった。だが検使は咎めなかった。あるいは咎める気になれぬほど、この場は張りつめていた。
「はい」と新之丞は答えた。声がかすれた。
「よい役をもらったな」と八郎兵衛は言った。「おまえの太刀筋なら、俺は苦しまずにすむ」
新之丞は答えられなかった。
「腕を上げたな」と八郎兵衛は続けた。「この一年、道場での噂は聞いていた。抜きつけが、俺の教えた頃より、ずっと速くなったと」
「……先生のおかげです」
「いや」八郎兵衛は静かに首を振ったようだった。「あれは、おまえの筋だ。俺は、握りを教えただけよ」
蟬が鳴いた。一匹が鳴きやみ、別の一匹が引き継いだ。
「先生」と、新之丞は思い切って言った。声が震えるのを、必死で抑えながら。「なぜ、申し開きをなさらなかったのです」
八郎兵衛の背が、わずかに動いた。笑ったのかもしれない。
「申し開き」と、彼はその言葉を確かめるように繰り返した。「なにを申し開く」
「あの不正は――」新之丞は言いよどんだ。だが言わねばならぬと思った。「あの帳簿の不正は、先生ひとりの罪では、ないはずです。私は聞いております。上役の――」
「よせ」
一言だった。だが、それは新之丞の言葉を、正確に断ち切った。
「よせ、新之丞。それを言うな」
八郎兵衛の声は、荒らげてはいなかった。むしろ、いっそう静かだった。だがその静けさのなかに、鉄のような硬さがあった。
「言えば、どうなる」と八郎兵衛は言った。「言えば、他の者に累が及ぶ。その者らにも、妻子がおる。年老いた親がおる。俺には、それがない。身寄りは――おまえひとりだ。だから、俺が背負うのが、いちばん、被害が少ない」
新之丞は、目の前が白くなるのを感じた。正午の光のせいではなかった。
「そんな……そんな道理が」
「道理ではない」と八郎兵衛は言った。「勘定だ。俺は勘定方だからな。いちばん損の少ない勘定を、選んだまでよ」
そう言って、八郎兵衛はかすかに笑った。今度は、確かに笑った。その笑いには、諦めも、恨みも、悲しみさえもなかった。ただ、算盤をはじき終えた者の、奇妙にさっぱりとした笑いがあった。
「先生」と、新之丞はなお食い下がった。「では、真に罪ある者は――上役の、あの方々は、このまま、のうのうと生きるのですか。それが、道理なのですか」
「道理ではない」と八郎兵衛は繰り返した。「だが、世とは、そういうものだ。正しい者が報われ、悪しき者が罰される――そんな世が、どこにある。俺は、五十年生きて、そんな世を、いちどとして見たことがない」
「では、なにを信じて、生きればよいのです」
八郎兵衛は、しばらく黙った。蟬が、鳴いていた。
「見えぬものを、信じるのだ」と、やがて彼は言った。「報われずとも、正しくあること。誰も見ておらずとも、恥じぬこと。それだけは、世がどうあろうと、おのれの手のなかに残る。世は奪えぬ。……新之丞、おまえは、俺がこの世で残せる、たったひとつの、正しいものだ。おまえだけは、奪わせぬ」
新之丞は、言葉を失った。
八郎兵衛は、みずからが生贄に選ばれることで、他の者の妻子を守り、そして、恩ある弟子を――新之丞を、疑いから救おうとしていた。もし新之丞が介錯を果たせば、彼の忠義は証され、平山一味との連座を免れる。八郎兵衛の死は、新之丞の生を、贖っていた。
それを知ったとき、新之丞の胸のうちで、逡巡が、あらたな形をとった。斬るべきか、斬らざるべきか――それはもはや、掟か情かという問いではなかった。八郎兵衛の願いを叶えるか、踏みにじるか、という問いになっていた。
六
新之丞の内で、なにかが崩れかけていた。
彼はこれまで、掟というものを信じてきた。武士には掟がある。掟があるからこそ、武士は禽獣と異なる。私情を殺し、掟に従う。それが忠であり、義であると。八郎兵衛自身が、そう教えたのだ。
だがいま、その八郎兵衛が、掟のために――いや、掟に見せかけた不正の後始末のために、腹を切ろうとしている。真に罪ある上役は、のうのうと生きのびる。八郎兵衛だけが、身寄りがないという、ただそれだけの理由で、生贄に選ばれた。
これのどこが、義か。
新之丞は、握った刀の柄が、じっとりと汗ばむのを感じた。
もし。
もし自分が、この刀を振り下ろさなかったら。
もし自分が、いま立ち上がって、検使の榊原監物に向かって、真実を叫んだら。上役の名を、隠し田の絡繰りを、藩庫の金の流れの真相を。すべてをこの白洲の上にぶちまけたら。
そうすれば――八郎兵衛は、死なずにすむかもしれぬ。
いや、と冷たい理性が囁いた。すまぬ。おまえが叫んだところで、なにも変わらぬ。ただ、おまえも斬られるだけだ。八郎兵衛は死に、おまえも死に、そして真相はうやむやのまま、上役だけが生きのびる。損の勘定は、いっそう大きくなる。八郎兵衛が命がけで小さくしようとした損を、おまえが台無しにするだけだ。
だが。
だが、それでも、と情が叫んだ。
このまま、恩人の首を、自分の手で落としてよいのか。掟に従い、勘定に従い、育ての親の血を、自分の刀で浴びてよいのか。
刀は、振るためのものではない。振らぬためのものだ。
八郎兵衛の、あの言葉が、いま、初めて牙をむいて新之丞に迫ってきた。
七
「新之丞」と、また八郎兵衛が呼んだ。
「はい」
「おまえ、俺の左手を見ておったな」
新之丞は息を呑んだ。見抜かれていた。
「昔、俺が片方だけ手袋をしておったのを、覚えておるか」
「……覚えて、おります」
「あの片方はな」と八郎兵衛は言った。まるで世間話でもするような口ぶりで。「おまえの父に、渡したのだ」
新之丞の心の臓が、跳ねた。
「おまえの父と俺は、若い頃、同じ道場に通っておった。ある冬の朝、稽古の帰りに、あいつが手を凍えさせておった。貧しくてな、手袋も買えなんだ。それで俺は、片方を、あいつにやった。二人で片手ずつ、温かい手袋をして、あとの片手は、袂に入れて歩いた。互いに、片方だけ温かい手をして」
八郎兵衛の声が、ほんのわずか、揺れた。
「おかしなものだろう。二人合わせて、手袋がひと組。だが二人とも、片手は凍えたままよ。……あいつが死んで、おまえをひきとったとき、俺はそのことを思い出した。ああ、これは、あいつの片方を、返してもらう番なのだと」
新之丞は、涙が滲むのを、必死でこらえた。
いま、泣いてはならぬ。介錯人が泣けば、太刀筋が乱れる。乱れれば、師を苦しませる。それだけは、ならぬ。
「先生」と、彼はやっとの思いで言った。「私は――私には、できません」
言ってしまった。
言ってはならぬことを、言ってしまった。
検使の榊原監物が、幔幕の向こうで身じろぎしたのが、気配で分かった。
八
「新之丞」
八郎兵衛の声が、初めて、鋭くなった。
「立て」
「先生……」
「立て、と言うておる」
新之丞は、震える足で、立ち上がった。刀を提げ、切腹人の左後方の、定められた位置についた。八郎兵衛の首が、彼の眼下にあった。白いうなじ。汗のひとつぶが、そこを伝って落ちるのが見えた。
「よく聞け」と、八郎兵衛は前を向いたまま、低く、しかしはっきりと言った。「これは俺の、最後の稽古だ。おまえへの、最後の教えだ」
新之丞は、刀を抜いた。
正午の光が、刃を走った。白い光が、刃の上で凝縮し、まるで刀そのものが灼けているようだった。彼はそれを、青眼から、大上段へと持ち上げていった。
「掟が正しいから、従うのではない」と八郎兵衛は言った。「掟が正しいときもあれば、正しくないときもある。今日のこれは――正しくない。おまえも、そう思うておるな」
「……はい」
「それでも、おまえは俺の首を落とす。なぜだと思う」
新之丞は答えられなかった。刀を大上段に構えたまま、彼の腕は、石のように固まっていた。
「それはな」と八郎兵衛は言った。「掟のためではない。俺のためだ」
「先生の……ため」
「俺は、腹を切ると決めた。決めたことは、やり遂げたい。だが、腹を切っただけでは、俺は死にきれぬ。長く苦しむ。そのとき、おまえの一太刀が、俺を救う。おまえは、掟に従って俺を殺すのではない。俺の望みを、叶えてくれるのだ。……分かるか、新之丞。これは、殺すのではない。看取るのだ」
殺すのではない。看取るのだ。
その言葉が、新之丞の張りつめた腕の、いちばん奥のこわばりを、そっと解いた。
九
「もうひとつ、教えておこう」と八郎兵衛は言った。
蟬の声が、ふいに途絶えた。庭に、真昼の底なしの静寂が下りた。まるで世界が、この最後の言葉を聞くために、息をひそめたようだった。
「刀は、振らぬためのものだと、俺はおまえに教えた。覚えておるか」
「はい」
「だが、時には――振らねばならぬときもある。振らぬための修行を積んだ者だけが、まことに振るべき一瞬を、見極められる。おまえは今日、それを見極めた。おまえは私情で首を落とすのでも、掟で首を落とすのでもない。俺という人間の、最後の願いを、その腕で受けとめる。それが、まことに刀を振るということだ」
新之丞の頬を、ついに、涙がひとすじ伝った。だが、その手は、もう震えていなかった。大上段に構えた刀は、真昼の光のなかで、微動だにしなかった。涙は流れても、腕は据わった。彼は、泣きながら、揺るがなかった。
「先生」と、新之丞は言った。声は、澄んでいた。「お見送り、いたします」
八郎兵衛の背が、ほっと、緩んだように見えた。安堵だったのかもしれぬ。
「よい介錯人だ」と、八郎兵衛は言った。「おまえの父も、喜んでおろう」
そして八郎兵衛は、目の前の三方に載った短刀に、左手をのばした。片方だけ、かつて誰かに温かさを分けた、あの左手であった。
十
八郎兵衛は、短刀を手にとった。白紙で刃を巻いた、九寸五分の脇差である。彼はそれを、静かに、腹の左に当てた。
そのとき――八郎兵衛が、口ずさみ始めた。
低い、ごくかすかな声だった。歌ともつかぬ、ほとんど吐息のような。だが新之丞の耳は、それをはっきりと捉えた。
「眠れ、眠れ……星が海をわたるまで……」
新之丞は、その調べを知っていた。
子守唄だった。幼い頃、熱を出して寝込んだ夜、八郎兵衛が枕元で歌ってくれた、あの子守唄。ぶっきらぼうな、決して上手とはいえぬ声で、それでもいくどもいくども繰り返してくれた、あの唄。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……」
八郎兵衛は、自分自身に、子守唄を歌っていた。
これから訪れる、永い永い眠りのために。星が海をわたるほどの、長い旅路のために。
新之丞の胸が、張り裂けそうになった。だが彼は、刀を構えたまま、動かなかった。動いてはならぬのだ。まだ、そのときではない。
八郎兵衛の左手が、短刀を腹に突き立てた。
浅葱の裃に、赤い染みが、ゆっくりと広がった。
八郎兵衛の喉から、押し殺した、獣のような呻きが漏れた。だが唄は、途切れなかった。彼は歯を食いしばりながら、なお、口ずさみ続けた。
「星が……海を……わたる……まで……」
そして、短刀を、右へ、引いた。
十一
その瞬間が、来た。
作法では、切腹人が腹を横に引ききったとき、あるいはその苦痛に耐えかねて上体が前に傾いだとき、介錯人は一太刀を下ろす。
八郎兵衛の上体が、ゆらり、と前に傾いだ。
新之丞は、その一瞬を、永遠のように感じた。
大上段の刀の切っ先から、正午の白い光が、滝のように流れ落ちるのを、彼は見た。空には、蒼い彗星の一点が、なお灯っていた。地には、恩人の傾いだ背があった。子守唄の最後のひと節が、風のように、庭を渡っていった。
星が、海を、わたるまで。
新之丞は、思った。いま、この人は、海をわたろうとしている。星のように。長い蒼い尾を引いて。そして自分は、その旅立ちを、見送る者だ。
殺すのではない。看取るのだ。
彼の全身が、ひとつになった。私情も、掟も、恩も、義も――そのすべてが、この一太刀のなかに、溶け合った。もはや対決ではなかった。刀と情は、争ってはいなかった。ひとつの、ただひとつの行いのなかで、和解していた。
新之丞は、刀を、振り下ろした。
正午の光を斬り裂いて、白い一閃が走った。
音は――ほとんど、なかった。
風が、ひとつ、通り過ぎたような。
八郎兵衛の首は、皮一枚を残して、前に垂れた。まるで深く頭を下げるように。あるいは、眠りに落ちるように。
血の匂いが、真昼の熱気のなかに、たちのぼった。だがそれは、むごたらしさよりも、ふしぎと、静謐であった。すべての作法が、正しく果たされた。恩人は、苦しまなかった。辱められなかった。看取られて、逝った。
十二
新之丞は、刀を提げたまま、立ち尽くしていた。
血振りをし、刀を鞘に納める。その所作を、彼の身体は、ほとんど無意識に果たした。手は、もう震えていなかった。だが、心のどこかが、白洲の砂のように、乾き、白く、灼けていた。
検使の榊原監物が、幔幕の内から、静かに言った。
「みごとであった」
新之丞は、その言葉に、答えなかった。答える言葉を持たなかった。
役人たちが、動き始めた。八郎兵衛の亡骸に、白布がかけられた。血に染まった白木綿が、たたまれ、運ばれた。庭に打たれた水は、とうに乾き、砂の上には、黒く乾いた血の跡だけが、残った。
新之丞は、その血の跡を、見つめていた。
あれほど張りつめていた庭の空気が、いまは、ゆるみ、ほどけていた。人々は、それぞれの役目を、粛々と果たしていた。誰も、泣かなかった。誰も、声を荒らげなかった。切腹とは、そういうものであった。悲劇でありながら、儀式であった。血が流れながら、静かであった。
だが、その静けさが、新之丞には、いちばん、こたえた。
これほどのことが、これほど静かに、済んでしまう。一人の男が、他人の罪を背負って腹を切り、育ての子が、その首を落とした。それが、なんの波乱もなく、正午の白い光のなかで、粛々と済んでしまう。世は、なにごともなかったかのように、回り続ける。蟬は、また、鳴き始めていた。
その、なにごともなさが――新之丞には、なによりも、恐ろしかった。
彼は、ただ、空を見上げた。
正午の白い空に、蒼い一点は、まだそこにあった。ミラ彗星。長い尾を引く、稀なる星。何百年に一度、天をよぎる旅人。
見えぬときも、消えたわけではない。
八郎兵衛の言葉が、蘇った。まことに明るい星は、昼でも、そこにある。人の善もそれと同じだ、と。
新之丞は思った。この人は、いま、あの星のように、天のいちばん高いところを、蒼い尾を引いて、渡ってゆくのだ。掟の白洲の上でむごたらしく死んだのではない。海をわたる星になったのだ。そして、たとえこの真昼の白熱がすべてを漂白しても、あの蒼い一点だけは、消えなかった。
新之丞は、目を閉じた。
まぶたの裏に、あの片方だけの手袋が見えた。二人で片手ずつ、温かい手をして、あとの片手は凍えたまま、雪の道を歩いていく二人の若者の姿が。
その片方を、今日、自分は返してもらったのだ。育ての親の、最後の願いを、この腕で受けとめるという形で。
十三
その夜のことである。
新之丞は、眠れなかった。屋敷の自室で、行灯もつけず、闇のなかに座していた。昼間の白熱の光が、まだまぶたの裏に灼きついていた。刀を振り下ろした、あの永遠のような一瞬が、いくども蘇っては、彼を苛んだ。
正しかったのか。
自分は、正しかったのか。
掟のためではなく、恩人の願いのために刀を振るった。だがそれでも、自分は、育ての親の首を落としたのだ。その事実は、どんな理屈をもってしても、消えはしなかった。
彼は、立ち上がった。眠れぬまま、屋敷を出た。当てもなく、夜の城下を歩いた。
歩きながら、彼は、八郎兵衛の家のことを思った。あの、粥を炊いてくれた家。もう、あるじのいない家。明日にでも、家財は改められ、家は取り潰されるであろう。あの火鉢も、あの算盤も、あの片方の手袋も、散り散りになるであろう。
新之丞は、無意識に、その家のほうへと、足を向けていた。
八郎兵衛の家の前まで来ると、戸には、封がされていた。役人が、封印したのだ。もう、なかへは入れなかった。新之丞は、その封印された戸の前に、しばらく立ち尽くした。
かつて、この戸を開けると、いつも、八郎兵衛がいた。算盤の音がした。「帰ったか」という、ぶっきらぼうな声がした。もう、しない。二度と、しない。
新之丞は、戸に、そっと手を触れた。まだ、あの人の手の温もりが、そこに残っているような気がした。むろん、気のせいであった。夜の板戸は、冷たかった。
彼は、戸に背を向け、また、歩き出した。
月はなかった。だが、星は出ていた。無数の星が、夏の夜空に、砂を撒いたように散っていた。そしてその東のはずれに――蒼い尾を引く星が、ひとつ。
明け方に見えるあの彗星が、いまはまだ、地平の低いところに、蒼く灯っていた。真昼に見たときよりも、その尾は、はるかに長く、はるかに蒼かった。
新之丞は、その星に導かれるようにして、歩いた。
やがて、見覚えのない小路に出た。昼間には、こんな店はなかったはずだ、と彼は思った。だが、そこに、一軒の古書店があった。
軒には、小さな木の看板がかかっていた。かすれた墨で、「月光書房」と書かれていた。
十四
店の内には、明かりが灯っていた。
戸は開いていた。まるで、誰かを待っていたかのように。新之丞は、吸い寄せられるように、なかへ入った。
古い書物の匂いがした。天井まで届く棚に、無数の書物が、びっしりと詰まっていた。そのどれもが、古く、黄ばみ、しかし丁寧に手入れされているようだった。
奥の帳場に、老人が一人、座していた。白い顎鬚をたくわえ、目を細めて、新之丞を見た。
「いらっしゃい」と老人は言った。「真夜中の客は、めずらしい」
「……この店は」と新之丞は訊いた。「昼間には、なかったように思うのですが」
老人は、かすかに笑った。「この店はな、夜に現れ、朝には消える。あなたのように、眠れぬ夜を抱えた者だけが、たどり着ける」
新之丞は、店内を見まわした。どの書物も、背表紙の題は、彼の知らぬものばかりであった。異国の文字も混じっていた。
「なにか、お探しかな」と老人は訊いた。
新之丞は、口ごもった。なにを探しているのか、自分でも分からなかった。ただ――赦しのようなものを、探していたのかもしれぬ。今日の自分の行いを、赦してくれる、なにかを。
老人は、新之丞の顔を、じっと見た。その目は、若侍の胸のうちを、見透かしているようだった。
「あなたは、なにかを、その手で、断ち切ってきた顔をしておる」と老人は言った。「その手を、洗いたいと思うておられるな」
新之丞は、はっとして、おのれの右手を見た。刀を握った手。師の首を落とした手。何度も水で洗ったのに、まだ、そこに血の感触が残っているような気がした。
「洗っても、落ちませぬ」と新之丞は言った。
「落ちぬ」と老人はうなずいた。「血は、洗えば落ちる。だが、その手が覚えている重みは、落ちぬ。落とそうとしてはならぬ。その重みこそが、あなたが人であることの、あかしなのだから」
「今日……」と、新之丞は言った。「私は、敬愛する人の、首を落としました。介錯人として」
老人は、静かにうなずいた。驚きもしなかった。
「その人は、掟のために死にました。ですが、その掟は――正しくなかった。私は、それを知りながら、刀を振り下ろしました。私は……正しかったのでしょうか」
老人は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと立ち上がり、棚のあいだを歩いた。ある一冊の前で立ち止まり、それを抜き取った。古びた、薄い冊子であった。
「これを、ごらんなさい」と老人は言った。
十五
新之丞は、その冊子を受け取った。
表紙には、なにも書かれていなかった。ただ、隅のほうに、小さな染みがあった。血の染みのようにも、墨の染みのようにも見えた。
彼は、頁をめくった。
そこには、古い筆跡で、こう記されていた。
「刀は、振るためのものではない。振らぬためのものだ。されど、振らねばならぬ一瞬もある。その一瞬を、正しく見極めた者だけが、まことに刀を持つ資格がある。振り下ろしたのちに、迷うな。迷いは、振り下ろす前にすべて済ませておけ。振り下ろしたその一太刀は、もはや、おまえのものではない。看取られた者への、手向けである」
新之丞の目から、涙が、こぼれ落ちた。
それは、八郎兵衛の言葉であった。まぎれもなく、あの人の教えであった。だが、この冊子は、古い。何十年も前のもののように見える。八郎兵衛がこれを書いたはずがない。
「これは……誰が」と、新之丞は訊いた。
だが、顔を上げると、老人の姿は、なかった。帳場は、空であった。
そして――店の内が、しだいに、白んできた。
夜が明けようとしていた。
十六
新之丞は、冊子を胸に抱いて、店の外へ出た。
東の空が、白み始めていた。そして、その白みゆく空の低いところに、蒼い彗星が、なお、尾を引いて灯っていた。夜と昼のあわいに、その星は、いちばん美しく蒼かった。
新之丞は、振り返った。
古書店は、もう、なかった。
そこには、ただ、いつもの城下の、なんの変哲もない板塀が続いているだけであった。「月光書房」の看板も、古い書物の匂いも、白い顎鬚の老人も、跡形もなかった。
だが、彼の手には、あの冊子が、確かに残っていた。
そして、その冊子の頁のあいだから、なにかが、はらりと、落ちた。
新之丞は、それを拾い上げた。
小さな、青いマッチ箱であった。表には、「月光堂」という、聞き覚えのない屋号が、蒼い刷りで記されていた。
彼は、それを、じっと見つめた。
なぜ、これがここに。誰が。どういう仔細で。――問いは、いくつも浮かんだ。だが、そのどれにも、答えはなかった。
ただ、その青いマッチ箱を握りしめると、彼の胸のうちに、ふしぎな温かさが、ひろがった。それは、あの片方だけの手袋の、温かさに似ていた。誰かが、誰かに、片方を分け与える――その、温かさに。
十七
数日ののち。
新之丞は、榊原監物の前に、召し出された。
介錯の褒賞である、と監物は言った。刀の一振りと、加増と。忠義のあかしとして、それらを与えると。監物は、満足げであった。試しは終わった。若侍は、掟に従い、恩人の首を落とした。忠は、証された。
新之丞は、その褒賞を、辞退した。
監物は、驚いた。「なにゆえだ」と問うた。
新之丞は、静かに答えた。「あれは、忠義のために斬ったのではございませぬ。ゆえに、忠義の褒賞は、受けられませぬ」
監物の顔が、こわばった。「では、なにゆえに斬った」
「看取るために、斬りました」と新之丞は言った。「敬愛する人の、最後の願いを、叶えるために。それは、掟とは、かかわりのないことにございます」
監物は、しばし、新之丞を見つめた。その若い侍の目に、なにか、揺るがぬものを見たようであった。
「おまえは」と監物は、低く言った。「危うい男だ。平山八郎兵衛と、同じ目をしておる」
「恐れ入ります」と新之丞は言った。それは、彼にとって、最上の賛辞であった。
監物は、長いあいだ、新之丞を見つめていた。そして、ふと、その厳しい顔から、力が抜けた。老いた男の、疲れた顔になった。
「よいか、新之丞」と、監物は、これまでとは違う、低く沈んだ声で言った。「わしとて、あの裁きが正しいとは、思うておらぬ」
新之丞は、顔を上げた。
「真に罪ある者は、別におる。わしは、それを知っておる。だが――わしには、その者らを裁く力が、なかった。上には上がある。藩には藩の、都合がある。わしは、平山八郎兵衛ひとりに、すべてを背負わせるよりほかに、手立てを持たなんだ。……あの男は、それを承知で、腹を切った。わしの無力を、あの男が、その死で、埋めてくれたのだ」
監物の声は、震えていた。この、冷徹に見えた家老もまた、掟という白洲の上で、身動きの取れぬ一人であったのだ。
「わしは」と監物は言った。「一生、あの男に、頭が上がらぬ。そして――おまえにも」
新之丞は、なにも言えなかった。
対決は、終わっていた。だが、勝った者も、負けた者も、いなかった。ただ、掟という白い光の下で、それぞれが、それぞれの影を、足の裏に踏みしめて、立っているだけであった。
十八
その日の帰り道、新之丞は、ふたたび、あの小路を探した。
「月光書房」を、もういちど訪ねてみたかった。あの冊子の、続きを読みたかった。老人に、まだ訊きたいことが、たくさんあった。
だが、いくら探しても、その店は、なかった。
昼の光のなかでは、どこもかしこも、ただの城下の路地であった。夜にだけ現れる店は、昼には、その痕跡さえも、留めなかった。
新之丞は、諦めて、家路についた。
そのとき、ふと、彼は空を見上げた。
もう、正午に近い時刻であった。夏の陽が、天のいちばん高くにのぼり、影が、いちばん短くなる刻。世界が、白い光に、灼かれる刻。
彼は、目を細めて、白い空の一角を、探した。
そして――見つけた。
蒼い一点が、まだ、そこにあった。ミラ彗星。真昼にも見える稀なる星。長い蒼い尾を引く、天の旅人。
だが、その星は、日ごとに、天の高いところへとのぼり、そしてやがては、この空から去ってゆくのだという。何十年か、何百年か――次に戻ってくるのは、はるか先のことだと。
新之丞は、その蒼い一点を、見つめた。
見送るように。
十九
新之丞は、懐から、青いマッチ箱を取り出した。
「月光堂」の青い箱。あの夜、冊子のあいだから落ちてきた、由来の知れぬマッチ箱。
彼は、それを、開けてみた。
なかには、数本のマッチが、収まっていた。だが、その一本一本の軸が、なぜか、蒼かった。まるで、彗星の尾を、細く切り分けたかのように。
新之丞は、そのうちの一本を、手にとった。
そして、思った。
いつか、自分にも、まことに刀を振るべき一瞬が、また来るのだろうか。今日のような、掟と情の対決の、頂点の一瞬が。そのとき自分は、また、迷わずに、振り下ろせるだろうか。
分からなかった。
だが、と彼は思った。あの冊子には、こう書かれていた。迷いは、振り下ろす前にすべて済ませておけ、と。振り下ろしたその一太刀は、もはや、おまえのものではない、と。
新之丞は、マッチ箱を、そっと、懐に戻した。
そして、もういちど、空を見上げた。
正午の白い空に、蒼い彗星が、なお、静かに、尾を引いていた。
二十
その後、矢野新之丞がどのような生涯を送ったかは、詳らかではない。
ある古い家譜に、わずかな記述が残っているのみである。曰く――「矢野新之丞、剣を能くし、生涯、人を斬ること一度のみ。その一度は、師を看取るためなりと伝う」
生涯、人を斬ること、ただ一度。
刀は、振らぬためのものだ、という教えを、彼は、真に守り抜いたのである。あの正午の白洲の上での一太刀を、最初にして最後の一太刀として。
そして、その家譜には、もうひとつ、奇妙な記述がある。
矢野家には、代々、青いマッチ箱がひとつ、家宝として伝わっていたという。「月光堂」の銘のある、由来の知れぬ箱。そして、その箱を開けると、蒼い軸のマッチが、いつも、寸分減ることなく、収まっていたのだと。
火をつけようとした者は、代々、一人もいなかった。
なぜなら、その箱には、こう書き添えられていたからである。
「これは、灯すためのものではない。灯さぬためのものである。されど、まことに灯すべき一夜も、いつか、来るであろう」
矢野新之丞が晩年、ただ一度だけ、その青いマッチを灯したという言い伝えがある。
それは、彼が死の床にあった、ある夏の夜のことだった。窓の外の空に、ふたたび、蒼い尾を引く星が、めぐり戻ってきたのだという。何十年ぶりかに、天をよぎるミラ彗星が。
老いた新之丞は、枕元の者に、あの青いマッチ箱を持ってこさせた。そして、震える手で、蒼い軸のマッチを、一本、擦った。
蒼い炎が、ぽっと、灯った。
その炎の色は、彗星の尾の色と、寸分たがわぬ蒼であったという。
そして老いた新之丞は、その蒼い炎を見つめながら、かすかに、口ずさんだ。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――と。
それが、矢野新之丞の、最後の言葉であった。真昼に人を看取った若侍は、蒼い星の灯る夏の夜に、みずからもまた、海をわたる星となって、逝った。片方の手袋の温かさを、ようやく、あの人に返しにいくために。