ふたつの匂い
わたしは老いていて、だからもう、たいていのものの匂いを、ふたつ重ねて嗅ぐ。いまの匂いと、それが昔だったころの匂いを。
冬がはじまる朝、海はいつもより塩が強い。塩のうしろに、岩についた藻の、青くて冷たい匂いがある。そのまた奥に、わたしの知らないところからやってくる匂いがある。鉄に似て、けれど鉄ではなく、雪に似て、けれど雪でもない、遠い匂い。それを嗅ぐと、わたしの背の毛は、自分の意思とは関わりなく、すこし立つ。
老人は、まだ眠っている。
わたしは老人の足のあたりで丸くなっていて、毛布のなかの温みを、夜のあいだ借りていた。借りるというのは正しくない。わたしのものでもあり、老人のものでもある温みだ。長く一緒にいると、温みに境い目がなくなる。どこまでが老人で、どこからがわたしか、眠っているあいだは分からなくなる。それでよかった。
この岬には、わたしと老人のほかには、灯がある。
灯は生きものではない。けれど、わたしは灯のことを、半分は生きものだと思っている。夜になると目を覚まし、朝になると眠る。ゆっくりと首をめぐらせ、海のほうを見る。回るときに、低い、ほとんど聞こえないほどの音をたてる。喉を鳴らす音に、すこし似ている。わたしが喉を鳴らすのとは違って、灯のそれは止まらない。止まらないことが、灯のつとめなのだと、わたしは長いあいだに分かった。
老人は、灯の世話をする。それが老人のすることだ。
朝、老人は起きて、まず窓のところへ行く。海を見る。それから階段をのぼる。あの、ぐるぐると上へつづく、冷たい石の階段。わたしは若いころ、よく老人のあとをついてのぼった。いまはのぼらない。階段の冷たさが、わたしの足の骨にしみるようになった。だからわたしは下で待つ。老人がのぼっていく足音を、頭の上で聞いている。とん、とん、と、間をおいて、ゆっくりと。
昔は、とん、とん、と、もっと速かった。
いまは遅い。遅いということを、わたしは数えない。猫は数を持たない。けれど、遅いということは、足音と足音のあいだの、空白の長さで分かる。その空白が、ひと冬ごとに、すこしずつ伸びている。
老人が目を覚ます気配がする。
息のしかたが変わる。眠っているときの息は、海の遠い波のように、寄せて返して、規則正しい。目を覚ます前、その波が乱れる。ひとつ、大きく吸う。それから、まぶたの裏で目が動く。わたしには見えないけれど、分かる。まぶたの動く、ごく小さな空気のゆれが、わたしのひげに触れる。
「……起きたか」
老人の声がする。
声の意味は、わたしには分からない。わたしは人のことばを解さない。けれど、声には温度がある。朝の老人の声は、低くて、すこしかすれていて、けれどあたたかい。そのあたたかさだけを、わたしは受けとる。意味は要らない。あたたかさで足りる。
老人の手が、わたしの背にのびてくる。
この手のことを、わたしはどう言えばいいだろう。手には、たくさんの匂いがしみている。塩。煤。灯の油。それから、老人そのものの匂い。古い木のような、すこし甘い、すこし苦い匂い。指は節くれだっていて、爪のあたりが固い。長いあいだ、なにかを握ってきた手だ。綱を、鍵を、油差しを、火を。
その手が、わたしの背を、首から尾のつけねまで、ひとなですると、わたしは喉を鳴らす。鳴らそうと思って鳴らすのではない。手が来ると、喉がひとりでに鳴る。それはたぶん、わたしのなかのいちばん古い場所から出てくる音だ。母猫の乳を飲んでいたころの音。その音が、いまも、老人の手のしたで鳴る。
老人の手が、けさは、いつもより冷たい。
なでてくれるあいだ、わたしはそれに気づいている。気づいているけれど、わたしは喉を鳴らしつづける。冷たい手でも、来てくれることのほうが、わたしには大事だ。
朝の岬には、決まった匂いの順序がある。
まず、老人が竈に火を入れる匂い。木が燃える、乾いた、明るい匂い。それから、湯がわく匂い。湯は匂いを持たないと人は思うかもしれないが、わたしには分かる。湯がわくとき、空気がしっとりと重くなる。その重さが、わたしには湯の匂いだ。
それから、卓の上の、青いものの匂い。
卓の上には、いつも、小さな箱がある。藍色の、深い色をした箱。老人はそれで火をつける。竈の火がうまくつかないときや、灯の芯に火を移すとき、老人はその箱から細い棒を一本とり、箱の横でこする。すると、しゅっ、と、小さな音がして、火が生まれる。
その音と、そのあとにくる匂いを、わたしは長いあいだに覚えた。鼻をつくような、けれどすぐに消える、鋭い匂い。火が生まれるときの匂い。
老人は、その箱を、たいせつにする。ほかの道具よりも、たいせつに。火が消えそうな夜、老人はその箱を手にとって、しばらく、なにも言わずに見ていることがある。箱の蓋には、なにかの形が彫ってある。わたしには形の意味は分からないが、指でなぞるとへこんでいるのが分かる。細い、片方が欠けた、丸いような形。月の、半分にもならない、細いかけらのような形だ。
老人は、その形を、ときどき親指でなぞる。なぞりながら、低く、なにかを口ずさむことがある。
口ずさみのことを、話さなければならない。
老人は、めったに歌わない。けれど、ある決まったときにだけ、口ずさむ。
それは、夜のおそく、海が荒れているとき。それは、雪がふって、世界がしんと黙りこんでいるとき。それは、老人の体のどこかが痛んで、眠れずに、寝床のなかで何度も寝返りをうつとき。
そういうとき、老人は、ほとんど声にならない声で、口ずさむ。
わたしには、ことばは分からない。けれど、その節を、わたしは体で覚えている。低くはじまって、すこし上がって、また低く落ちる。落ちたところで、長く伸ばす。それから、また、はじめにもどる。寄せて、返す。海のようだ。波のようだ。
その節を聞くと、わたしの体は、ひとりでにゆるむ。爪が、肉球のなかに引っこむ。耳が、うしろにねる。まぶたが、重くなる。
たぶん、これは、眠りの節だ。
老人は、自分を眠らせるために、それを口ずさんでいる。けれど、それを聞いて眠るのは、いつも、わたしのほうが先だ。老人はまだ起きていて、わたしのほうが先に眠ってしまう。眠りながら、わたしは、節のいちばん長く伸びるところを、夢のなかで聞く。星が、とか、海をわたる、とか、そういう音が、節のなかにある。意味は分からない。けれど、その音のところで、わたしの夢は、いつも、暗い水の上を、ゆっくりと運ばれていく。
冬がふかくなる。
匂いで分かる。空気から、生きものの匂いが消えていく。夏のあいだ、岬には、いろいろな匂いがあった。草の匂い。虫の匂い。海鳥の、油っぽい羽の匂い。岩のすきまに巣をつくる、小さなけものの匂い。
冬になると、それらが、ひとつずつ消える。
草は枯れて、匂いをやめる。虫は土のなかへ入って、匂いをやめる。海鳥は、どこか暖かいところへ行ってしまう。岩のすきまのけものは、巣の奥でじっとして、ほとんど匂わなくなる。
残るのは、塩と、岩と、灯の油と、老人と、わたしの匂いだけだ。
世界が、せまくなる。匂いの世界が、せまくなる。
わたしは、それを、さびしいとは思わない。せまくなった世界は、そのぶん、濃くなる。老人の匂いと、わたしの匂いが、近くなる。冬は、わたしたちふたりが、いちばん近くなる季節だ。
老人は、寒さに弱くなった。
これも匂いで分かる。老人の体から、夏のあいだの、汗ばんだ、生きた匂いが、すこしずつ薄れていく。かわりに、すこし冷たい、すこし乾いた匂いがしてくる。落ち葉が、雪のしたで、ゆっくりと色を失っていくときのような匂い。
わたしは、その匂いの変化を、ことばにはできない。ことばを持たないから。けれど、体は知っている。だから、わたしは、夜、老人のいちばん冷えるところに、体を寄せるようになった。
老人の足だ。
老人の足は、いちばん先に冷える。指の先から、踵のほうへ、冷たさがのぼってくる。わたしは、その冷たい足のあいだに、体を入れる。わたしの腹の、いちばんやわらかくて、いちばんあたたかいところを、老人の足に押しつける。
わたしのあたたかさを、老人にわけるために。
そんなことを考えているわけではない。猫は、わけるとか、ためにとか、そういうことを考えない。ただ、冷たいものがあれば、あたためたくなる。それだけのことだ。けれど、それだけのことのために、わたしは、毎晩、老人の足のあいだにいる。
ある夜、灯が、いつもと違う回りかたをした。
わたしは、その音で目を覚ました。
灯の喉鳴りは、いつも、おなじ間で、おなじ速さで回る。回って、回って、止まらない。それが、灯のつとめだから。
けれど、その夜、灯の喉鳴りが、すこし、つまった。
とん、と、回って、すこし、止まって、また、とん、と、回る。
わたしは、毛布から出て、暗い部屋を、灯のほうへ歩いた。階段の下まで行って、上を見上げた。上のほうで、灯の光が、ゆっくりと、けれど不規則に、めぐっていた。
老人が、上にいた。
老人の足音が、上で、聞こえた。けれど、その足音は、軽くなかった。重くて、ゆっくりで、ときどき、止まった。止まったところで、わたしは、老人の息の音を聞いた。
ひゅう、と、吸う息。
それは、わたしの知っている、老人の息ではなかった。なにかが、息の通り道を、せまくしている。せまいところを、空気が、無理に通っていく音。
わたしは、階段の下で、待った。
のぼらなかった。のぼれなかった。冷たい石が、わたしの足の骨にしみる。けれど、のぼれない、それだけではなかった。わたしは、なぜか、のぼってはいけないような気がした。上には、老人と灯がいる。老人は、灯と、なにか、ふたりだけのことをしている。わたしの入っていけない、ふたりだけの場所が、上にある。
しばらくして、灯の喉鳴りが、もとにもどった。
とん、とん、と、おなじ間で、おなじ速さで。
老人が、おりてきた。
階段を、ひとつ、ひとつ、おりてくる。手すりを、固い指で、握っている音がする。おりきったところで、老人は、しゃがんだ。わたしの前で、しゃがんで、わたしを、両手で、すくいあげた。
老人の手は、冷えきっていた。
けれど、その手は、わたしを、しっかりと、つかんでいた。落とさないように。逃がさないように。わたしは、その手のなかで、暴れなかった。老人の胸に、顔を、押しつけた。
老人の胸から、いつもとちがう音がしていた。
心の臓の音。それは、わたしの知っている、規則正しい、寄せて返す波の音ではなかった。乱れていた。速くなったり、遅くなったり、ときどき、ひとつ、抜けた。抜けたところで、わたしの背の毛が、立った。
わたしは、知った。
ことばではなく、体で、知った。
老人のなかの、灯が、すこし、つまりはじめている。
それからの日々を、わたしは、匂いで覚えている。
人は、日を、数で覚えるのだろう。一日、二日、三日と。けれど、わたしは数を持たない。わたしは、日を、匂いで覚える。
老人の匂いが、ひと日ごとに、変わっていった。
落ち葉の匂いが、濃くなった。生きた汗の匂いが、薄れていった。それから、新しい匂いが、加わった。
薬の匂いだ。
老人は、月にいちど、岬をおりて、町へ行く。船が来て、老人を乗せていく。帰ってくると、老人の鞄から、いつもとちがう匂いがする。苦い、化学の、つめたい匂い。それが、薬の匂いだと、わたしは知っている。老人は、その匂いのするものを、口に入れる。水と一緒に、飲みこむ。
その冬、老人は、ふだんより多く、町へ行った。
帰ってくるたびに、薬の匂いが、増えた。鞄のなかに、口に入れるものの匂いが、増えていった。
けれど、薬の匂いが増えても、落ち葉の匂いは、止まらなかった。
わたしは、それを、ふしぎに思った。薬は、ふつう、悪い匂いを追いはらうものだ。わたしも、若いころ、傷をなめて、その傷が膿んだとき、老人がわたしに、苦い水をかけた。すると、膿の匂いが、消えた。
けれど、老人の落ち葉の匂いには、薬が、効かなかった。
薬の匂いと、落ち葉の匂いが、老人のなかで、ならんで、いた。たたかっているようには、見えなかった。ただ、ならんで、いた。そして、落ち葉のほうが、すこしずつ、強くなっていった。
老人は、灯の世話を、やめなかった。
体が、どんなにつらくても、夜になると、老人は、階段をのぼった。とん……とん……と、間をおいて、ゆっくりと。空白が、長くなった。ひと足ごとの空白が、わたしが知っているどの冬よりも、長くなった。
わたしは、下で、待った。
毎晩、待った。
老人がのぼっていくあいだ、わたしは、階段の下の、いちばん暗いところに座って、頭の上で鳴る足音を、聞いていた。とん……と、ひとつ鳴ると、わたしは、つぎの足音を、待った。待っているあいだ、わたしは、息を、つめた。つぎが、鳴るだろうか。鳴らなかったら、どうしよう。
けれど、いつも、つぎは、鳴った。
とん……と。
そして、灯がともった。
上のほうで、灯の喉鳴りが、はじまった。とん、とん、と、おなじ間で。光が、めぐりはじめた。窓のそとの、暗い海のうえを、光の腕が、ゆっくりと、なでていった。
わたしは、その光を見て、ほっとした。
灯がともるあいだは、老人は、生きている。
灯がともるあいだは、老人は、まだ、つとめを、している。
わたしは、灯の光を、老人の息のように、聞いていた。
ある夜、わたしは、はじめて、階段をのぼった。
何冬ぶりだろう。冷たい石が、わたしの足の骨に、刃のようにしみた。けれど、わたしは、のぼった。一段、一段。爪を、石にひっかけて、体を引きあげるようにして、のぼった。
なぜ、のぼったのか。
老人の足音が、その夜、いつもよりも、ずっと長く、止まったからだ。
階段の途中で、とん……と鳴ったきり、つぎが、鳴らなかった。わたしは、下で、待った。長く、待った。けれど、鳴らなかった。
それで、わたしは、のぼった。
途中の踊り場で、老人は、壁にもたれて、座りこんでいた。
膝を立てて、その膝に、額を、のせていた。
わたしは、老人のところまで行って、老人の手の匂いを、嗅いだ。手は、冷たかった。けれど、匂いは、生きていた。落ち葉の匂いと、薬の匂いと、それから、生きた老人の匂いが、まだ、していた。
わたしは、老人の膝に、頭を、こすりつけた。
ごろごろと、喉を、鳴らした。
老人が、顔を、あげた。
「……おまえ、のぼってきたのか」
声に、おどろきが、あった。それから、声が、ふるえた。ふるえた声のなかに、塩のような、温かい匂いの粒が、混じっていた。それは、老人の目から、こぼれているものの匂いだった。
老人は、わたしを、すくいあげた。
そして、わたしを抱いたまま、壁に手をついて、立ちあがった。
立ちあがるのに、長くかかった。膝が、ふるえていた。けれど、老人は、立った。そして、わたしを抱いたまま、のこりの階段を、のぼりきった。
灯の部屋まで。
灯の部屋は、ガラスでできている。
四方が、ガラスで、そのまんなかに、灯がある。灯は、わたしが思っていたよりも、ずっと大きかった。下から見上げる光ではなく、すぐ横にある光は、わたしの体ぜんたいを、あたたかくした。光のそばは、油の匂いが、濃かった。鋭くて、すこし甘い、燃える匂い。
老人は、わたしを、窓ぎわの台に、おろした。
そして、灯の世話を、はじめた。
芯を、すこし、つまみあげる。ガラスを、布で、拭く。油を、つぎたす。老人の手は、ふるえていたけれど、その手は、まよわなかった。長いあいだ、おなじことをしてきた手だ。手のほうが、することを、覚えている。老人が、考えなくても、手が、動く。
わたしは、台のうえから、それを、見ていた。
そして、はじめて、灯のそばで、外の海を見た。
海が、暗かった。
下から見る海より、ずっと、ひろかった。ガラスのむこうに、暗いものが、どこまでも、ひろがっていた。そのひろがりの、いちばん上のところで、暗い水と、暗い空が、まじりあっていた。境い目が、なかった。
灯の光が、その暗さを、ゆっくりと、なでていった。
光の腕が、のびて、暗い水のうえを、すっと、すべっていく。光のあたったところだけ、水が、銀色に、ひかる。光が通りすぎると、また、暗くなる。
わたしは、その光を、目で、追った。
光は、止まらなかった。とん、とん、と、めぐりつづけた。老人の手は、もう、灯にふれていなかった。けれど、灯は、ひとりで、めぐりつづけた。老人が世話をしたから、灯は、ひとりで、めぐれる。
そのとき、海のうえに、もうひとつ、光が、あった。
それは、灯の光ではなかった。
灯の光は、めぐる。横へ、横へ、首をふって、めぐる。けれど、その、もうひとつの光は、めぐらなかった。
空に、あった。
暗い空の、高いところに、それは、あった。
ほかの星とは、ちがった。ほかの星は、点だ。小さな、まばたく、点。けれど、その光は、点ではなかった。それは、長かった。尾を、ひいていた。蒼白い、長い、尾を。
まるで、空を、ゆっくりと、わたっていく、なにかの、毛のようだった。
わたしは、その光を、見た。
毛が、立った。けれど、こわい毛の立ちかたではなかった。なにか、とても、古いものを、見たときの、毛の立ちかただった。生まれるよりも前に、どこかで、嗅いだことのある匂い。会ったことのある、けれど、思い出せない、だれか。そういうものを、見たときの、感じだった。
老人も、それを、見ていた。
老人は、灯の世話の手を、止めて、ガラスのむこうの、その光を、見ていた。
長いあいだ、見ていた。
それから、老人は、低く、口ずさみはじめた。
あの節だった。
低くはじまって、すこし上がって、また低く落ちる、あの節。
眠れ、と、その音は、聞こえた。眠れ、眠れ、と。星が、と、聞こえた。海を、わたるまで、と。
わたしには、ことばは、分からない。けれど、その節のながれる先が、ガラスのむこうの、あの、尾をひく光だということは、分かった。
老人は、あの光に、向かって、歌っていた。
あるいは、あの光のことを、歌っていた。
星が、海を、わたる。
ガラスのむこうで、蒼白い光が、ゆっくりと、暗い空を、わたっていく。海の、いちばん遠いところ、水と空のまじりあう、あの境い目のほうへ、向かって。
わたしは、老人の足もとで、喉を、鳴らした。
老人の歌に、合わせて。
老人の声と、わたしの喉が、おなじ部屋の、おなじ空気を、ふるわせた。低い声と、低い喉。それが、灯の喉鳴りと、まざった。みっつの、低い音が、ガラスの部屋に、満ちた。
外では、彗星が、わたっていった。
その夜のあと、老人は、しばらく、起きあがれなかった。
寝床のなかで、ずっと、横になっていた。
落ち葉の匂いが、もう、ほかのすべての匂いを、おおっていた。薬の匂いも、灯の油の匂いも、落ち葉の匂いの、したに、しずんでいった。
老人の息が、浅くなった。
寄せて返す波が、小さくなった。遠くで、波が、ひいていく。ひいて、ひいて、なかなか、寄せてこない。寄せてこないあいだ、わたしは、待った。つぎの波を、待った。
老人は、それでも、夜になると、灯のことを、気にした。
「灯を……」と、かすれた声で、言った。
立とうとして、立てなかった。手が、毛布をつかんで、ふるえた。
そのとき、灯は、ともっていなかった。
夜なのに、灯が、ともっていなかった。
老人は、それを、知っていた。立ちあがれない自分を、知っていた。灯を、ともせない自分を、知っていた。
老人の顔が、苦しんだ。
落ち葉の匂いのうえに、塩の匂いが、また、こぼれた。目から、こぼれた。
わたしは、どうすればいいか、分からなかった。
わたしは、灯を、ともせない。わたしには、手がない。火を生む、あの細い棒を、こする手がない。火を、芯に、移す手がない。わたしは、ただの、老いた猫だ。
わたしに、できることは、ひとつしか、なかった。
わたしは、老人の胸に、のぼった。
そして、老人の心の臓のうえに、わたしの体の、いちばんあたたかいところを、押しつけた。
喉を、鳴らした。
ありったけ、鳴らした。わたしの、いちばん古い場所から、いちばん深い音を、ひきだして、鳴らした。
老人の心の臓の、乱れた波に、わたしの喉の、ふるえを、重ねた。
不思議なことが、おこった。
わたしの喉が、鳴っているあいだ、老人の心の臓の、乱れが、すこし、おさまった。
抜けていた波が、もどってきた。寄せて、返して、寄せて、返す。すこしずつ、おだやかに。
老人の手が、わたしの背に、のった。
そして、わたしを、なでた。
なでながら、老人は、また、あの節を、口ずさんだ。
灯は、ともっていなかった。けれど、老人は、歌った。眠れ、眠れ、星が、海を、わたるまで。
そして、わたしは、気づいた。
灯は、ともっていなかったけれど、部屋のなかに、灯があった。
老人の手の温みが、灯だった。
老人の声の温みが、灯だった。
わたしの喉の、ふるえが、灯だった。
外の海に、灯はなくても、この、せまい、暗い部屋のなかに、わたしたちの、灯が、ともっていた。
その夜を、わたしたちは、こえた。
朝が、きた。
朝の匂いがした。塩が、すこし、やわらかくなる。暗さのなかに、灰色が、まじってくる。海鳥は、まだ帰ってこないけれど、海鳥が帰ってくる前の、空っぽの空の匂いがした。
老人は、生きていた。
息が、寄せて、返していた。
わたしは、老人の胸のうえで、ひと晩、鳴りつづけて、喉が、つかれていた。けれど、止めなかった。朝になっても、止めなかった。老人が、目を覚ますまで、わたしは、鳴りつづけた。
老人が、目を、開けた。
わたしを、見た。
「……まだ、いたのか」
声が、笑った。かすれて、ちいさく、けれど、たしかに、笑った。
わたしは、老人の顎に、頭を、こすりつけた。
それからの数日、老人は、すこし、よくなった。
匂いは、もどらなかった。落ち葉の匂いは、消えなかった。けれど、起きあがれるように、なった。
老人は、また、灯をともした。
階段を、のぼった。とん……とん……と、いっそう、ゆっくりと。わたしは、もう、下では、待たなかった。老人のあとを、ついて、のぼった。冷たい石が、わたしの骨にしみたけれど、わたしは、のぼった。
老人は、ときどき、立ちどまって、わたしを、待った。
「おまえも、年だな」と、老人は、言った。
わたしは、老人を、見上げた。
ふたりで、ゆっくりと、のぼった。
灯の部屋まで。
老人が、灯をともすあいだ、わたしは、台のうえで、待った。そして、灯がともると、ふたりで、ガラスのむこうの、海を、見た。
彗星は、もう、いなかった。
あの、尾をひく光は、海の、いちばん遠いところへ、わたっていって、見えなくなった。星が、海を、わたった。
けれど、わたしは、知っていた。
あの光は、消えたのではない。わたっていったのだ。どこか、わたしの嗅いだことのない、遠い匂いのするところへ。そして、いつか、また、巡ってくる。わたしが、もう、いなくなったあとの、いつか。老人が、もう、いなくなったあとの、いつか。
それでも、また、巡ってくる。
灯が、めぐるように。
老人の心の臓の波が、寄せて、返すように。
わたしの喉が、鳴っては、止んで、また、鳴るように。
冬が、いちばん、ふかくなった。
雪が、ふった。
世界が、しんと、黙りこんだ。
匂いの世界が、いちばん、せまくなった。塩も、岩も、雪のしたに、しずんだ。残ったのは、老人と、わたしと、灯の油の匂いだけ。
老人は、もう、ほとんど、起きなかった。
寝床のなかで、横になって、海のほうを、見ていた。窓のそとの、白い、雪の海を。
灯は、ともっていた。
老人が、ともしたのではない。
あれは、雪のふる、いちばん寒い夜のことだった。
老人は、立ちあがれなかった。けれど、灯を、気にした。
「灯を……」と、また、言った。
わたしは、老人の胸のうえにいた。喉を、鳴らしていた。
老人が、わたしを、見た。それから、卓のうえの、青い箱を、見た。
藍色の、月のかけらの彫られた、あの箱を。
老人の手が、毛布から、のびた。卓のほうへ。けれど、とどかなかった。手が、宙で、ふるえて、おちた。
わたしは、毛布から、おりた。
卓のところへ、行った。
青い箱の匂いを、嗅いだ。火を生む、棒の匂い。鋭い、すこし甘い、火の素の匂い。
わたしには、火は、ともせない。わたしには、手がない。
けれど、わたしは、その箱を、口に、くわえた。
くわえて、老人の手もとへ、はこんだ。
老人の、ふるえる手のなかに、箱を、おいた。
老人が、わたしを、見た。
長く、見た。それから、老人の手が、箱を、握った。
「……ありがとう」と、老人は、言った。
そのことばの意味を、わたしは、知らない。けれど、その温度を、わたしは、知っている。それは、いままで、老人が、わたしにかけた、どのことばよりも、あたたかかった。
その夜、老人は、灯を、ともさなかった。
ともせなかった。
握った箱を、胸のうえに、のせたまま、老人は、眠りに、おちた。
わたしは、老人の胸のうえに、もどった。
箱のとなりに、体を、まるめた。
老人の心の臓の波が、遠かった。寄せて、ひいて、ひいて、なかなか、寄せてこない。
わたしは、待った。
つぎの波を、待った。
喉を、鳴らしながら、待った。
夜のいちばん深いところで、ガラスのむこうの、雪が、やんだ。
そして、雲が、われた。
われた雲のあいだから、星が、見えた。
わたしは、老人の胸のうえから、首をあげて、その星を、見た。
ひとつの星が、ほかの星と、ちがっていた。
それは、また、尾を、ひいていた。蒼白い、長い、尾を。
彗星だった。
あの、海をわたった彗星が、もう、もどってきたのだろうか。それとも、これは、べつの、新しい彗星だろうか。わたしには、分からない。猫は、星を、数えない。
けれど、その光は、たしかに、空の高いところに、あった。
そして、その光が、ガラスをとおって、部屋のなかに、すべりこんだ。
蒼白い、ほそい、ひとすじの光。
その光が、老人の顔のうえを、すうっと、なでた。
老人の心の臓の波が、止まった。
最後の波が、ひいて、それきり、寄せてこなかった。
わたしは、待った。
長く、待った。
けれど、もう、波は、寄せてこなかった。
老人の胸が、しずかになった。
胸のうえの、わたしの体が、しずかな胸に、しずんでいくようだった。
落ち葉の匂いが、いちばん、濃くなった。そして、その濃さの、いちばん奥から、あたらしい匂いが、たちのぼってきた。
それは、雪に似ていた。けれど、雪ではなかった。
それは、鉄に似ていた。けれど、鉄ではなかった。
それは、あの、冬のはじまりの朝に、海のむこうから嗅いだ、遠い匂いだった。鉄でもなく、雪でもなく、わたしの知らないところからやってくる、あの匂い。
ああ、と、わたしは、思った。
ことばではなく、体で、思った。
あれは、この匂いだったのか。
冬のはじめに、わたしの背の毛を立たせた、あの遠い匂いは、この夜の、この匂いだったのか。
わたしは、ずっと、知っていたのだ。
冬のはじめから、わたしの鼻は、この夜の匂いを、嗅いでいたのだ。
ただ、わたしには、ことばが、なかった。ことばがないから、わたしは、それを、ただ、毛を立てることでしか、知ることができなかった。
わたしは、老人の胸のうえで、動かなかった。
喉を、鳴らすのを、やめなかった。
老人の心の臓は、もう、波を、寄せなかった。けれど、わたしは、鳴りつづけた。わたしの喉の、ふるえだけが、しずかな胸のうえで、ひとり、つづいていた。
それが、わたしの、できることだった。
灯を、ともせないわたしの、ともす、ただひとつの、灯だった。
彗星の光が、部屋を、わたっていった。
老人の顔のうえを、わたしの背のうえを、青い箱のうえを、すうっと、なでて、ガラスのむこうへ、すべりおちていった。
そして、海の、いちばん遠いところへ、わたっていった。
星が、海を、わたるまで。
夜が、あけた。
朝の匂いがした。けれど、それは、いつもの朝の匂いではなかった。
竈の火の匂いが、しなかった。湯のわく匂いが、しなかった。老人の、起きる気配がなかった。
わたしは、老人の胸のうえから、おりた。
おりて、老人の顔を、見た。
老人は、眠っているように見えた。けれど、眠りの息が、なかった。寄せて返す波が、なかった。
わたしは、老人の顎に、頭を、こすりつけた。
冷たかった。
けれど、わたしは、こすりつけた。喉を、鳴らした。
それから、わたしは、窓のところへ、行った。
老人が、毎朝、まずすること。窓のところへ行って、海を、見ること。
わたしは、窓に、前足をかけて、海を、見た。
海は、しずかだった。
雪が、やんで、空が、晴れていた。水と空の、境い目が、灰色に、ひかっていた。海鳥が、いた。冬のあいだ、いなくなっていた海鳥が、一羽、いた。岩のうえに、とまって、海を、見ていた。
世界が、すこし、ひろくなっていた。
匂いの世界が、すこし、ひろくなっていた。雪のしたから、塩の匂いが、また、たちのぼってきた。岩の、青い藻の匂いが、もどってきた。
冬が、おわろうとしていた。
老人の冬が、おわった夜に、世界の冬も、おわろうとしていた。
わたしは、いま、灯のそばにいる。
何日が、たったのだろう。猫は、数を持たないから、分からない。けれど、いくつかの夜と、いくつかの朝が、すぎた。
老人は、もう、いない。
ある日、船が、来た。人が、何人か、岬にのぼってきた。彼らは、老人を、はこんでいった。わたしは、岩のかげから、それを、見ていた。彼らの匂いは、薬の匂いに、似ていた。化学の、つめたい匂い。けれど、そのなかに、すこしだけ、生きた、温かい匂いも、あった。彼らは、老人を、しずかに、はこんだ。乱暴では、なかった。
ひとりの人が、わたしを、見つけた。
しゃがんで、手を、のばした。
わたしは、逃げなかった。
その手の匂いを、嗅いだ。老人の手とは、ちがった。けれど、悪い手では、なかった。
「おまえ、ここの猫か」と、その人は、言った。
「一緒に、来るか」
わたしは、その手のことばの意味を、知らない。けれど、その温度は、知っている。それは、わたしを、案じる温度だった。
けれど、わたしは、首を、ふった。
いや、首をふったのではない。猫は、首をふらない。わたしは、ただ、その手から、すこし、しりぞいた。岩のかげへ、もどった。
その人は、しばらく、わたしを、見ていた。それから、立ちあがって、ほかの人たちと、おりていった。
船が、岬を、はなれた。
わたしは、岩のうえから、それを、見送った。
それから、わたしは、灯の世話を、はじめた。
灯の世話を、わたしは、できない。わたしには、手がない。火を、ともせない。油を、つげない。ガラスを、拭けない。
けれど、わたしは、灯のそばに、いる。
夜になると、わたしは、階段を、のぼる。冷たい石が、わたしの骨に、しみる。けれど、わたしは、のぼる。とん……とん……と、老人がのぼったように、ゆっくりと。
灯の部屋まで、のぼって、わたしは、ガラスのそばに、座る。
灯は、ともっていない。
わたしには、ともせないから。
けれど、わたしは、座っている。老人が、毎晩、座っていた、その場所に。
そして、海を、見る。
暗い海を。水と空の、境い目を。
ときどき、わたしは、口ずさむ。
いや、わたしは、口ずさめない。猫は、歌わない。けれど、わたしは、喉を、鳴らす。あの節の、寄せて返すながれに、合わせて。喉を、鳴らす。低く、低く。
眠れ、と、わたしの喉は、鳴る。
眠れ、眠れ、と。
星が、海を、わたるまで。
ある夜、わたしは、ふしぎなものを、見た。
岬の、いちばん下の、岩場のあたりに、灯が、ともっていた。
灯台の灯では、ない。もっと、小さな、あたたかい色の、灯。窓に、ともる、灯のような。
岩場には、なにも、なかったはずだ。家など、なかったはずだ。
けれど、その夜、そこに、小さな、建物のようなものが、あった。窓から、あたたかい灯が、こぼれていた。
わたしは、階段をおりて、そこへ、行ってみた。
近づくと、紙の匂いが、した。
古い、紙の匂い。たくさんの、紙の匂い。長いあいだ、だれかに、読まれてきた、紙の匂い。それから、埃の匂い。木の匂い。ろうそくの匂い。
戸が、すこし、あいていた。
わたしは、なかを、のぞいた。
なかには、本が、あった。たくさんの、本が。壁という壁に、本が、つまっていた。そして、そのなかに、ひとりの、人が、いた。
その人は、年とった、女の人だった。
わたしには、顔は、よく見えなかった。けれど、その人の匂いは、不思議だった。老人にも、似ていた。船で来た人たちにも、似ていた。けれど、どこか、ちがった。
その匂いは、遠かった。
冬のはじめの、あの、遠い匂いに、似ていた。鉄でもなく、雪でもない、わたしの知らないところからやってくる、あの匂い。
その人が、わたしを、見た。
「おや」と、その人は、言った。
「お客さんだね」
わたしは、戸口に、座った。
その人は、わたしを、招きいれは、しなかった。ただ、わたしのことを、しずかに、見ていた。
それから、その人は、棚から、一冊の、本をとった。
ひらいて、なにかを、読んだ。
声に、出して。
それは、あの節だった。
眠れ、眠れ、星が、海を、わたるまで。
その人は、その本のなかに、あの節が、書いてあるかのように、読んだ。けれど、本を、見ては、いなかった。その人の目は、本ではなく、わたしを、見ていた。あるいは、わたしのむこうの、暗い海を、見ていた。
わたしは、その夜、その本のあいだに、片方の、手袋が、はさまっているのを、見た。
毛糸の、小さな、手袋。
子どもの、手袋のようだった。
片方だけ、だった。
もう、片方は、どこにも、なかった。
その人は、わたしの視線に、気づいて、その手袋を、そっと、本のあいだに、しまいなおした。
「これはね」と、その人は、言った。
「片方だけ、残ったものだよ」
「対になるはずのものが、片方だけ、残ることが、ある」
「失くしたほうは、どこへ行ったのか、分からない。けれど、残ったほうが、こうして、覚えている」
その人は、わたしを、見た。
「おまえも、そうだね」
わたしには、ことばの意味は、分からない。けれど、その温度は、分かった。それは、あわれむ温度では、なかった。それは、分かる、という温度だった。おなじものを、知っている者の、温度だった。
わたしは、その夜、その店で、すごした。
紙の匂いと、ろうそくの匂いの、なかで。
朝が、近づくと、その人は、ろうそくを、消した。
そして、わたしに、言った。
「もう、お行き。朝が、来る」
わたしは、戸口を、出た。
岩場を、灯台のほうへ、歩いた。
途中で、ふりかえると、店は、もう、なかった。
岩場には、なにも、なかった。本も、ろうそくも、年とった女の人も、片方だけの手袋も、なにも。ただ、岩と、雪と、塩の匂いだけが、あった。
わたしは、毛が、立つのを、感じた。
けれど、こわい毛の立ちかたでは、なかった。
それから、わたしは、灯台に、もどった。
階段を、のぼった。とん……とん……と。
灯の部屋で、わたしは、座った。
海を、見た。
夜が、あけようとしていた。空の、いちばん下のところが、灰色に、ひかりはじめていた。
そして、海の、いちばん遠いところを、もう一度、蒼白い光が、わたっていくのを、わたしは、見た気がした。
気がした、だけかもしれない。猫は、目が、よくない。とくに、わたしのような、老いた猫は。
けれど、わたしは、それを、見た。
そして、知った。
老人は、あの光に、なったのだ。
あるいは、あの光に、乗って、わたっていったのだ。海の、いちばん遠いところへ。わたしの知らない、遠い匂いのする、ところへ。
そして、いつか、また、巡ってくる。
灯が、めぐるように。
わたしは、いま、灯のそばで、これを、思っている。
ことばで、思っているのでは、ない。わたしには、ことばが、ない。わたしは、匂いで、温度で、気配で、これを、思っている。
老人の手の、温み。
老人の声の、温度。
青い箱の、彫られた、月のかけら。
灯の油の、鋭くて甘い、匂い。
落ち葉の匂いと、薬の匂いと、その奥の、遠い匂い。
寄せて返す、心の臓の、波。
そして、あの、蒼白い、尾をひく、光。
これらが、わたしのなかに、ある。ことばに、ならないまま、ある。ことばに、ならないから、消えないで、ある。
人は、ことばで、覚えるのだろう。けれど、ことばは、いつか、忘れられる。わたしは、ことばを持たないから、忘れない。わたしは、匂いで、覚える。温度で、覚える。匂いと温度は、忘れられない。
だから、わたしは、覚えている。
老人を、覚えている。
朝が、きた。
わたしは、灯のそばで、丸くなる。
灯は、ともっていない。けれど、わたしは、寒くない。
灯の油の匂いが、わたしを、つつんでいる。老人の匂いが、まだ、この部屋に、しみている。階段にも、寝床にも、卓のうえの青い箱にも、老人の匂いが、しみている。
わたしは、その匂いの、なかに、いる。
冬が、おわった。
雪が、とけて、岩から、塩の匂いが、たちのぼる。海鳥が、もどってくる。草が、芽を出し、虫が、土から、出てくる。匂いの世界が、また、ひろがっていく。
わたしも、老いている。
わたしの心の臓の波も、すこしずつ、遠くなっている。寄せて、ひいて、ひいて、なかなか、寄せてこない夜が、ふえてきた。
わたしも、いつか、わたっていくのだろう。
あの、海の、いちばん遠いところへ。あの、蒼白い光の、向かう先へ。
そこには、老人が、いるだろうか。
わたしには、分からない。猫は、そういうことを、考えない。
けれど、わたしは、こう思う。
ことばではなく、体で、こう思う。
もし、そこに、行ったなら。
わたしは、また、老人の足の、いちばん冷えるところに、体を、寄せるだろう。わたしの腹の、いちばんあたたかいところを、老人の足に、押しつけるだろう。
そして、喉を、鳴らすだろう。
ありったけ、鳴らすだろう。
灯が、ともっていなくても。
わたしの喉の、ふるえだけが、ふたりの、灯になるように。
最後に、ひとつだけ。
わたしは、ことばを、持たない。だから、これは、ことばでは、ない。
けれど、もし、これが、ことばに、なるのなら。
わたしは、こう、言いたい。
老人は、最後の夜、わたしに、青い箱を、握らせてもらった。火を、ともすための、箱を。
老人は、火を、ともせなかった。けれど、握っていた。
わたしは、いま、分かる。
老人が、握っていたのは、火では、なかった。
火を、ともそうとした、その心が、火だったのだ。
灯を、ともそうとする心が、いちばんあかるい、灯なのだ。
海のうえに、灯がなくても。
ガラスの部屋が、暗くても。
ともそうとする心さえあれば、そこには、灯が、ある。
わたしは、その灯を、嗅いだ。
老人の、最後の夜に。
落ち葉の匂いの、いちばん奥で。
それは、いままで嗅いだ、どの灯の油よりも、あたたかく、あかるく、灯っていた。
わたしは、老いた猫だ。
人語を、解さない。星を、数えない。明日を、思いわずらわない。
わたしの世界は、匂いと、温度と、気配で、できている。
その、せまい世界の、まんなかに、いつまでも、消えない匂いが、ひとつ、ある。
それは、火を生む、青い箱の匂いでも、ない。
灯の油の、匂いでも、ない。
それは、わたしの背を、首から尾のつけねまで、ひとなでした、あの手の、匂いだ。
塩と、煤と、灯の油と、それから、古い木のような、すこし甘い、すこし苦い、あの手の匂い。
その匂いが、来ると、わたしの喉は、いまも、ひとりでに、鳴る。
たとえ、その手が、もう、ここに、なくても。
わたしは、喉を、鳴らす。
眠れ、と。
眠れ、眠れ、と。
星が、海を、わたるまで。