月光書房
子の刻 ・ 真夜中 ・ 第 五 話

ふたつの匂い

七尾 鈴
情話 ・ 動物(老猫)の視点 ・ 約26頁

わたしは老いていて、だからもう、たいていのものの匂いを、ふたつ重ねて嗅ぐ。いまの匂いと、それが昔だったころの匂いを。

冬がはじまる朝、海はいつもより塩が強い。塩のうしろに、岩についた藻の、青くて冷たい匂いがある。そのまた奥に、わたしの知らないところからやってくる匂いがある。鉄に似て、けれど鉄ではなく、雪に似て、けれど雪でもない、遠い匂い。それを嗅ぐと、わたしの背の毛は、自分の意思とは関わりなく、すこし立つ。

老人は、まだ眠っている。

わたしは老人の足のあたりで丸くなっていて、毛布のなかの温みを、夜のあいだ借りていた。借りるというのは正しくない。わたしのものでもあり、老人のものでもある温みだ。長く一緒にいると、温みに境い目がなくなる。どこまでが老人で、どこからがわたしか、眠っているあいだは分からなくなる。それでよかった。

この岬には、わたしと老人のほかには、灯がある。

灯は生きものではない。けれど、わたしは灯のことを、半分は生きものだと思っている。夜になると目を覚まし、朝になると眠る。ゆっくりと首をめぐらせ、海のほうを見る。回るときに、低い、ほとんど聞こえないほどの音をたてる。喉を鳴らす音に、すこし似ている。わたしが喉を鳴らすのとは違って、灯のそれは止まらない。止まらないことが、灯のつとめなのだと、わたしは長いあいだに分かった。

老人は、灯の世話をする。それが老人のすることだ。

朝、老人は起きて、まず窓のところへ行く。海を見る。それから階段をのぼる。あの、ぐるぐると上へつづく、冷たい石の階段。わたしは若いころ、よく老人のあとをついてのぼった。いまはのぼらない。階段の冷たさが、わたしの足の骨にしみるようになった。だからわたしは下で待つ。老人がのぼっていく足音を、頭の上で聞いている。とん、とん、と、間をおいて、ゆっくりと。

昔は、とん、とん、と、もっと速かった。

いまは遅い。遅いということを、わたしは数えない。猫は数を持たない。けれど、遅いということは、足音と足音のあいだの、空白の長さで分かる。その空白が、ひと冬ごとに、すこしずつ伸びている。

老人が目を覚ます気配がする。

息のしかたが変わる。眠っているときの息は、海の遠い波のように、寄せて返して、規則正しい。目を覚ます前、その波が乱れる。ひとつ、大きく吸う。それから、まぶたの裏で目が動く。わたしには見えないけれど、分かる。まぶたの動く、ごく小さな空気のゆれが、わたしのひげに触れる。

「……起きたか」

老人の声がする。

声の意味は、わたしには分からない。わたしは人のことばを解さない。けれど、声には温度がある。朝の老人の声は、低くて、すこしかすれていて、けれどあたたかい。そのあたたかさだけを、わたしは受けとる。意味は要らない。あたたかさで足りる。

老人の手が、わたしの背にのびてくる。

この手のことを、わたしはどう言えばいいだろう。手には、たくさんの匂いがしみている。塩。煤。灯の油。それから、老人そのものの匂い。古い木のような、すこし甘い、すこし苦い匂い。指は節くれだっていて、爪のあたりが固い。長いあいだ、なにかを握ってきた手だ。綱を、鍵を、油差しを、火を。

その手が、わたしの背を、首から尾のつけねまで、ひとなですると、わたしは喉を鳴らす。鳴らそうと思って鳴らすのではない。手が来ると、喉がひとりでに鳴る。それはたぶん、わたしのなかのいちばん古い場所から出てくる音だ。母猫の乳を飲んでいたころの音。その音が、いまも、老人の手のしたで鳴る。

老人の手が、けさは、いつもより冷たい。

なでてくれるあいだ、わたしはそれに気づいている。気づいているけれど、わたしは喉を鳴らしつづける。冷たい手でも、来てくれることのほうが、わたしには大事だ。

朝の岬には、決まった匂いの順序がある。

まず、老人が竈に火を入れる匂い。木が燃える、乾いた、明るい匂い。それから、湯がわく匂い。湯は匂いを持たないと人は思うかもしれないが、わたしには分かる。湯がわくとき、空気がしっとりと重くなる。その重さが、わたしには湯の匂いだ。

それから、卓の上の、青いものの匂い。

卓の上には、いつも、小さな箱がある。藍色の、深い色をした箱。老人はそれで火をつける。竈の火がうまくつかないときや、灯の芯に火を移すとき、老人はその箱から細い棒を一本とり、箱の横でこする。すると、しゅっ、と、小さな音がして、火が生まれる。

その音と、そのあとにくる匂いを、わたしは長いあいだに覚えた。鼻をつくような、けれどすぐに消える、鋭い匂い。火が生まれるときの匂い。

老人は、その箱を、たいせつにする。ほかの道具よりも、たいせつに。火が消えそうな夜、老人はその箱を手にとって、しばらく、なにも言わずに見ていることがある。箱の蓋には、なにかの形が彫ってある。わたしには形の意味は分からないが、指でなぞるとへこんでいるのが分かる。細い、片方が欠けた、丸いような形。月の、半分にもならない、細いかけらのような形だ。

老人は、その形を、ときどき親指でなぞる。なぞりながら、低く、なにかを口ずさむことがある。

口ずさみのことを、話さなければならない。

老人は、めったに歌わない。けれど、ある決まったときにだけ、口ずさむ。

それは、夜のおそく、海が荒れているとき。それは、雪がふって、世界がしんと黙りこんでいるとき。それは、老人の体のどこかが痛んで、眠れずに、寝床のなかで何度も寝返りをうつとき。

そういうとき、老人は、ほとんど声にならない声で、口ずさむ。

わたしには、ことばは分からない。けれど、その節を、わたしは体で覚えている。低くはじまって、すこし上がって、また低く落ちる。落ちたところで、長く伸ばす。それから、また、はじめにもどる。寄せて、返す。海のようだ。波のようだ。

その節を聞くと、わたしの体は、ひとりでにゆるむ。爪が、肉球のなかに引っこむ。耳が、うしろにねる。まぶたが、重くなる。

たぶん、これは、眠りの節だ。

老人は、自分を眠らせるために、それを口ずさんでいる。けれど、それを聞いて眠るのは、いつも、わたしのほうが先だ。老人はまだ起きていて、わたしのほうが先に眠ってしまう。眠りながら、わたしは、節のいちばん長く伸びるところを、夢のなかで聞く。星が、とか、海をわたる、とか、そういう音が、節のなかにある。意味は分からない。けれど、その音のところで、わたしの夢は、いつも、暗い水の上を、ゆっくりと運ばれていく。

冬がふかくなる。

匂いで分かる。空気から、生きものの匂いが消えていく。夏のあいだ、岬には、いろいろな匂いがあった。草の匂い。虫の匂い。海鳥の、油っぽい羽の匂い。岩のすきまに巣をつくる、小さなけものの匂い。

冬になると、それらが、ひとつずつ消える。

草は枯れて、匂いをやめる。虫は土のなかへ入って、匂いをやめる。海鳥は、どこか暖かいところへ行ってしまう。岩のすきまのけものは、巣の奥でじっとして、ほとんど匂わなくなる。

残るのは、塩と、岩と、灯の油と、老人と、わたしの匂いだけだ。

世界が、せまくなる。匂いの世界が、せまくなる。

わたしは、それを、さびしいとは思わない。せまくなった世界は、そのぶん、濃くなる。老人の匂いと、わたしの匂いが、近くなる。冬は、わたしたちふたりが、いちばん近くなる季節だ。

老人は、寒さに弱くなった。

これも匂いで分かる。老人の体から、夏のあいだの、汗ばんだ、生きた匂いが、すこしずつ薄れていく。かわりに、すこし冷たい、すこし乾いた匂いがしてくる。落ち葉が、雪のしたで、ゆっくりと色を失っていくときのような匂い。

わたしは、その匂いの変化を、ことばにはできない。ことばを持たないから。けれど、体は知っている。だから、わたしは、夜、老人のいちばん冷えるところに、体を寄せるようになった。

老人の足だ。

老人の足は、いちばん先に冷える。指の先から、踵のほうへ、冷たさがのぼってくる。わたしは、その冷たい足のあいだに、体を入れる。わたしの腹の、いちばんやわらかくて、いちばんあたたかいところを、老人の足に押しつける。

わたしのあたたかさを、老人にわけるために。

そんなことを考えているわけではない。猫は、わけるとか、ためにとか、そういうことを考えない。ただ、冷たいものがあれば、あたためたくなる。それだけのことだ。けれど、それだけのことのために、わたしは、毎晩、老人の足のあいだにいる。

ある夜、灯が、いつもと違う回りかたをした。

わたしは、その音で目を覚ました。

灯の喉鳴りは、いつも、おなじ間で、おなじ速さで回る。回って、回って、止まらない。それが、灯のつとめだから。

けれど、その夜、灯の喉鳴りが、すこし、つまった。

とん、と、回って、すこし、止まって、また、とん、と、回る。

わたしは、毛布から出て、暗い部屋を、灯のほうへ歩いた。階段の下まで行って、上を見上げた。上のほうで、灯の光が、ゆっくりと、けれど不規則に、めぐっていた。

老人が、上にいた。

老人の足音が、上で、聞こえた。けれど、その足音は、軽くなかった。重くて、ゆっくりで、ときどき、止まった。止まったところで、わたしは、老人の息の音を聞いた。

ひゅう、と、吸う息。

それは、わたしの知っている、老人の息ではなかった。なにかが、息の通り道を、せまくしている。せまいところを、空気が、無理に通っていく音。

わたしは、階段の下で、待った。

のぼらなかった。のぼれなかった。冷たい石が、わたしの足の骨にしみる。けれど、のぼれない、それだけではなかった。わたしは、なぜか、のぼってはいけないような気がした。上には、老人と灯がいる。老人は、灯と、なにか、ふたりだけのことをしている。わたしの入っていけない、ふたりだけの場所が、上にある。

しばらくして、灯の喉鳴りが、もとにもどった。

とん、とん、と、おなじ間で、おなじ速さで。

老人が、おりてきた。

階段を、ひとつ、ひとつ、おりてくる。手すりを、固い指で、握っている音がする。おりきったところで、老人は、しゃがんだ。わたしの前で、しゃがんで、わたしを、両手で、すくいあげた。

老人の手は、冷えきっていた。

けれど、その手は、わたしを、しっかりと、つかんでいた。落とさないように。逃がさないように。わたしは、その手のなかで、暴れなかった。老人の胸に、顔を、押しつけた。

老人の胸から、いつもとちがう音がしていた。

心の臓の音。それは、わたしの知っている、規則正しい、寄せて返す波の音ではなかった。乱れていた。速くなったり、遅くなったり、ときどき、ひとつ、抜けた。抜けたところで、わたしの背の毛が、立った。

わたしは、知った。

ことばではなく、体で、知った。

老人のなかの、灯が、すこし、つまりはじめている。

それからの日々を、わたしは、匂いで覚えている。

人は、日を、数で覚えるのだろう。一日、二日、三日と。けれど、わたしは数を持たない。わたしは、日を、匂いで覚える。

老人の匂いが、ひと日ごとに、変わっていった。

落ち葉の匂いが、濃くなった。生きた汗の匂いが、薄れていった。それから、新しい匂いが、加わった。

薬の匂いだ。

老人は、月にいちど、岬をおりて、町へ行く。船が来て、老人を乗せていく。帰ってくると、老人の鞄から、いつもとちがう匂いがする。苦い、化学の、つめたい匂い。それが、薬の匂いだと、わたしは知っている。老人は、その匂いのするものを、口に入れる。水と一緒に、飲みこむ。

その冬、老人は、ふだんより多く、町へ行った。

帰ってくるたびに、薬の匂いが、増えた。鞄のなかに、口に入れるものの匂いが、増えていった。

けれど、薬の匂いが増えても、落ち葉の匂いは、止まらなかった。

わたしは、それを、ふしぎに思った。薬は、ふつう、悪い匂いを追いはらうものだ。わたしも、若いころ、傷をなめて、その傷が膿んだとき、老人がわたしに、苦い水をかけた。すると、膿の匂いが、消えた。

けれど、老人の落ち葉の匂いには、薬が、効かなかった。

薬の匂いと、落ち葉の匂いが、老人のなかで、ならんで、いた。たたかっているようには、見えなかった。ただ、ならんで、いた。そして、落ち葉のほうが、すこしずつ、強くなっていった。

老人は、灯の世話を、やめなかった。

体が、どんなにつらくても、夜になると、老人は、階段をのぼった。とん……とん……と、間をおいて、ゆっくりと。空白が、長くなった。ひと足ごとの空白が、わたしが知っているどの冬よりも、長くなった。

わたしは、下で、待った。

毎晩、待った。

老人がのぼっていくあいだ、わたしは、階段の下の、いちばん暗いところに座って、頭の上で鳴る足音を、聞いていた。とん……と、ひとつ鳴ると、わたしは、つぎの足音を、待った。待っているあいだ、わたしは、息を、つめた。つぎが、鳴るだろうか。鳴らなかったら、どうしよう。

けれど、いつも、つぎは、鳴った。

とん……と。

そして、灯がともった。

上のほうで、灯の喉鳴りが、はじまった。とん、とん、と、おなじ間で。光が、めぐりはじめた。窓のそとの、暗い海のうえを、光の腕が、ゆっくりと、なでていった。

わたしは、その光を見て、ほっとした。

灯がともるあいだは、老人は、生きている。

灯がともるあいだは、老人は、まだ、つとめを、している。

わたしは、灯の光を、老人の息のように、聞いていた。

ある夜、わたしは、はじめて、階段をのぼった。

何冬ぶりだろう。冷たい石が、わたしの足の骨に、刃のようにしみた。けれど、わたしは、のぼった。一段、一段。爪を、石にひっかけて、体を引きあげるようにして、のぼった。

なぜ、のぼったのか。

老人の足音が、その夜、いつもよりも、ずっと長く、止まったからだ。

階段の途中で、とん……と鳴ったきり、つぎが、鳴らなかった。わたしは、下で、待った。長く、待った。けれど、鳴らなかった。

それで、わたしは、のぼった。

途中の踊り場で、老人は、壁にもたれて、座りこんでいた。

膝を立てて、その膝に、額を、のせていた。

わたしは、老人のところまで行って、老人の手の匂いを、嗅いだ。手は、冷たかった。けれど、匂いは、生きていた。落ち葉の匂いと、薬の匂いと、それから、生きた老人の匂いが、まだ、していた。

わたしは、老人の膝に、頭を、こすりつけた。

ごろごろと、喉を、鳴らした。

老人が、顔を、あげた。

「……おまえ、のぼってきたのか」

声に、おどろきが、あった。それから、声が、ふるえた。ふるえた声のなかに、塩のような、温かい匂いの粒が、混じっていた。それは、老人の目から、こぼれているものの匂いだった。

老人は、わたしを、すくいあげた。

そして、わたしを抱いたまま、壁に手をついて、立ちあがった。

立ちあがるのに、長くかかった。膝が、ふるえていた。けれど、老人は、立った。そして、わたしを抱いたまま、のこりの階段を、のぼりきった。

灯の部屋まで。

灯の部屋は、ガラスでできている。

四方が、ガラスで、そのまんなかに、灯がある。灯は、わたしが思っていたよりも、ずっと大きかった。下から見上げる光ではなく、すぐ横にある光は、わたしの体ぜんたいを、あたたかくした。光のそばは、油の匂いが、濃かった。鋭くて、すこし甘い、燃える匂い。

老人は、わたしを、窓ぎわの台に、おろした。

そして、灯の世話を、はじめた。

芯を、すこし、つまみあげる。ガラスを、布で、拭く。油を、つぎたす。老人の手は、ふるえていたけれど、その手は、まよわなかった。長いあいだ、おなじことをしてきた手だ。手のほうが、することを、覚えている。老人が、考えなくても、手が、動く。

わたしは、台のうえから、それを、見ていた。

そして、はじめて、灯のそばで、外の海を見た。

海が、暗かった。

下から見る海より、ずっと、ひろかった。ガラスのむこうに、暗いものが、どこまでも、ひろがっていた。そのひろがりの、いちばん上のところで、暗い水と、暗い空が、まじりあっていた。境い目が、なかった。

灯の光が、その暗さを、ゆっくりと、なでていった。

光の腕が、のびて、暗い水のうえを、すっと、すべっていく。光のあたったところだけ、水が、銀色に、ひかる。光が通りすぎると、また、暗くなる。

わたしは、その光を、目で、追った。

光は、止まらなかった。とん、とん、と、めぐりつづけた。老人の手は、もう、灯にふれていなかった。けれど、灯は、ひとりで、めぐりつづけた。老人が世話をしたから、灯は、ひとりで、めぐれる。

そのとき、海のうえに、もうひとつ、光が、あった。

それは、灯の光ではなかった。

灯の光は、めぐる。横へ、横へ、首をふって、めぐる。けれど、その、もうひとつの光は、めぐらなかった。

空に、あった。

暗い空の、高いところに、それは、あった。

ほかの星とは、ちがった。ほかの星は、点だ。小さな、まばたく、点。けれど、その光は、点ではなかった。それは、長かった。尾を、ひいていた。蒼白い、長い、尾を。

まるで、空を、ゆっくりと、わたっていく、なにかの、毛のようだった。

わたしは、その光を、見た。

毛が、立った。けれど、こわい毛の立ちかたではなかった。なにか、とても、古いものを、見たときの、毛の立ちかただった。生まれるよりも前に、どこかで、嗅いだことのある匂い。会ったことのある、けれど、思い出せない、だれか。そういうものを、見たときの、感じだった。

老人も、それを、見ていた。

老人は、灯の世話の手を、止めて、ガラスのむこうの、その光を、見ていた。

長いあいだ、見ていた。

それから、老人は、低く、口ずさみはじめた。

あの節だった。

低くはじまって、すこし上がって、また低く落ちる、あの節。

眠れ、と、その音は、聞こえた。眠れ、眠れ、と。星が、と、聞こえた。海を、わたるまで、と。

わたしには、ことばは、分からない。けれど、その節のながれる先が、ガラスのむこうの、あの、尾をひく光だということは、分かった。

老人は、あの光に、向かって、歌っていた。

あるいは、あの光のことを、歌っていた。

星が、海を、わたる。

ガラスのむこうで、蒼白い光が、ゆっくりと、暗い空を、わたっていく。海の、いちばん遠いところ、水と空のまじりあう、あの境い目のほうへ、向かって。

わたしは、老人の足もとで、喉を、鳴らした。

老人の歌に、合わせて。

老人の声と、わたしの喉が、おなじ部屋の、おなじ空気を、ふるわせた。低い声と、低い喉。それが、灯の喉鳴りと、まざった。みっつの、低い音が、ガラスの部屋に、満ちた。

外では、彗星が、わたっていった。

その夜のあと、老人は、しばらく、起きあがれなかった。

寝床のなかで、ずっと、横になっていた。

落ち葉の匂いが、もう、ほかのすべての匂いを、おおっていた。薬の匂いも、灯の油の匂いも、落ち葉の匂いの、したに、しずんでいった。

老人の息が、浅くなった。

寄せて返す波が、小さくなった。遠くで、波が、ひいていく。ひいて、ひいて、なかなか、寄せてこない。寄せてこないあいだ、わたしは、待った。つぎの波を、待った。

老人は、それでも、夜になると、灯のことを、気にした。

「灯を……」と、かすれた声で、言った。

立とうとして、立てなかった。手が、毛布をつかんで、ふるえた。

そのとき、灯は、ともっていなかった。

夜なのに、灯が、ともっていなかった。

老人は、それを、知っていた。立ちあがれない自分を、知っていた。灯を、ともせない自分を、知っていた。

老人の顔が、苦しんだ。

落ち葉の匂いのうえに、塩の匂いが、また、こぼれた。目から、こぼれた。

わたしは、どうすればいいか、分からなかった。

わたしは、灯を、ともせない。わたしには、手がない。火を生む、あの細い棒を、こする手がない。火を、芯に、移す手がない。わたしは、ただの、老いた猫だ。

わたしに、できることは、ひとつしか、なかった。

わたしは、老人の胸に、のぼった。

そして、老人の心の臓のうえに、わたしの体の、いちばんあたたかいところを、押しつけた。

喉を、鳴らした。

ありったけ、鳴らした。わたしの、いちばん古い場所から、いちばん深い音を、ひきだして、鳴らした。

老人の心の臓の、乱れた波に、わたしの喉の、ふるえを、重ねた。

不思議なことが、おこった。

わたしの喉が、鳴っているあいだ、老人の心の臓の、乱れが、すこし、おさまった。

抜けていた波が、もどってきた。寄せて、返して、寄せて、返す。すこしずつ、おだやかに。

老人の手が、わたしの背に、のった。

そして、わたしを、なでた。

なでながら、老人は、また、あの節を、口ずさんだ。

灯は、ともっていなかった。けれど、老人は、歌った。眠れ、眠れ、星が、海を、わたるまで。

そして、わたしは、気づいた。

灯は、ともっていなかったけれど、部屋のなかに、灯があった。

老人の手の温みが、灯だった。

老人の声の温みが、灯だった。

わたしの喉の、ふるえが、灯だった。

外の海に、灯はなくても、この、せまい、暗い部屋のなかに、わたしたちの、灯が、ともっていた。

その夜を、わたしたちは、こえた。

朝が、きた。

朝の匂いがした。塩が、すこし、やわらかくなる。暗さのなかに、灰色が、まじってくる。海鳥は、まだ帰ってこないけれど、海鳥が帰ってくる前の、空っぽの空の匂いがした。

老人は、生きていた。

息が、寄せて、返していた。

わたしは、老人の胸のうえで、ひと晩、鳴りつづけて、喉が、つかれていた。けれど、止めなかった。朝になっても、止めなかった。老人が、目を覚ますまで、わたしは、鳴りつづけた。

老人が、目を、開けた。

わたしを、見た。

「……まだ、いたのか」

声が、笑った。かすれて、ちいさく、けれど、たしかに、笑った。

わたしは、老人の顎に、頭を、こすりつけた。

それからの数日、老人は、すこし、よくなった。

匂いは、もどらなかった。落ち葉の匂いは、消えなかった。けれど、起きあがれるように、なった。

老人は、また、灯をともした。

階段を、のぼった。とん……とん……と、いっそう、ゆっくりと。わたしは、もう、下では、待たなかった。老人のあとを、ついて、のぼった。冷たい石が、わたしの骨にしみたけれど、わたしは、のぼった。

老人は、ときどき、立ちどまって、わたしを、待った。

「おまえも、年だな」と、老人は、言った。

わたしは、老人を、見上げた。

ふたりで、ゆっくりと、のぼった。

灯の部屋まで。

老人が、灯をともすあいだ、わたしは、台のうえで、待った。そして、灯がともると、ふたりで、ガラスのむこうの、海を、見た。

彗星は、もう、いなかった。

あの、尾をひく光は、海の、いちばん遠いところへ、わたっていって、見えなくなった。星が、海を、わたった。

けれど、わたしは、知っていた。

あの光は、消えたのではない。わたっていったのだ。どこか、わたしの嗅いだことのない、遠い匂いのするところへ。そして、いつか、また、巡ってくる。わたしが、もう、いなくなったあとの、いつか。老人が、もう、いなくなったあとの、いつか。

それでも、また、巡ってくる。

灯が、めぐるように。

老人の心の臓の波が、寄せて、返すように。

わたしの喉が、鳴っては、止んで、また、鳴るように。

冬が、いちばん、ふかくなった。

雪が、ふった。

世界が、しんと、黙りこんだ。

匂いの世界が、いちばん、せまくなった。塩も、岩も、雪のしたに、しずんだ。残ったのは、老人と、わたしと、灯の油の匂いだけ。

老人は、もう、ほとんど、起きなかった。

寝床のなかで、横になって、海のほうを、見ていた。窓のそとの、白い、雪の海を。

灯は、ともっていた。

老人が、ともしたのではない。

あれは、雪のふる、いちばん寒い夜のことだった。

老人は、立ちあがれなかった。けれど、灯を、気にした。

「灯を……」と、また、言った。

わたしは、老人の胸のうえにいた。喉を、鳴らしていた。

老人が、わたしを、見た。それから、卓のうえの、青い箱を、見た。

藍色の、月のかけらの彫られた、あの箱を。

老人の手が、毛布から、のびた。卓のほうへ。けれど、とどかなかった。手が、宙で、ふるえて、おちた。

わたしは、毛布から、おりた。

卓のところへ、行った。

青い箱の匂いを、嗅いだ。火を生む、棒の匂い。鋭い、すこし甘い、火の素の匂い。

わたしには、火は、ともせない。わたしには、手がない。

けれど、わたしは、その箱を、口に、くわえた。

くわえて、老人の手もとへ、はこんだ。

老人の、ふるえる手のなかに、箱を、おいた。

老人が、わたしを、見た。

長く、見た。それから、老人の手が、箱を、握った。

「……ありがとう」と、老人は、言った。

そのことばの意味を、わたしは、知らない。けれど、その温度を、わたしは、知っている。それは、いままで、老人が、わたしにかけた、どのことばよりも、あたたかかった。

その夜、老人は、灯を、ともさなかった。

ともせなかった。

握った箱を、胸のうえに、のせたまま、老人は、眠りに、おちた。

わたしは、老人の胸のうえに、もどった。

箱のとなりに、体を、まるめた。

老人の心の臓の波が、遠かった。寄せて、ひいて、ひいて、なかなか、寄せてこない。

わたしは、待った。

つぎの波を、待った。

喉を、鳴らしながら、待った。

夜のいちばん深いところで、ガラスのむこうの、雪が、やんだ。

そして、雲が、われた。

われた雲のあいだから、星が、見えた。

わたしは、老人の胸のうえから、首をあげて、その星を、見た。

ひとつの星が、ほかの星と、ちがっていた。

それは、また、尾を、ひいていた。蒼白い、長い、尾を。

彗星だった。

あの、海をわたった彗星が、もう、もどってきたのだろうか。それとも、これは、べつの、新しい彗星だろうか。わたしには、分からない。猫は、星を、数えない。

けれど、その光は、たしかに、空の高いところに、あった。

そして、その光が、ガラスをとおって、部屋のなかに、すべりこんだ。

蒼白い、ほそい、ひとすじの光。

その光が、老人の顔のうえを、すうっと、なでた。

老人の心の臓の波が、止まった。

最後の波が、ひいて、それきり、寄せてこなかった。

わたしは、待った。

長く、待った。

けれど、もう、波は、寄せてこなかった。

老人の胸が、しずかになった。

胸のうえの、わたしの体が、しずかな胸に、しずんでいくようだった。

落ち葉の匂いが、いちばん、濃くなった。そして、その濃さの、いちばん奥から、あたらしい匂いが、たちのぼってきた。

それは、雪に似ていた。けれど、雪ではなかった。

それは、鉄に似ていた。けれど、鉄ではなかった。

それは、あの、冬のはじまりの朝に、海のむこうから嗅いだ、遠い匂いだった。鉄でもなく、雪でもなく、わたしの知らないところからやってくる、あの匂い。

ああ、と、わたしは、思った。

ことばではなく、体で、思った。

あれは、この匂いだったのか。

冬のはじめに、わたしの背の毛を立たせた、あの遠い匂いは、この夜の、この匂いだったのか。

わたしは、ずっと、知っていたのだ。

冬のはじめから、わたしの鼻は、この夜の匂いを、嗅いでいたのだ。

ただ、わたしには、ことばが、なかった。ことばがないから、わたしは、それを、ただ、毛を立てることでしか、知ることができなかった。

わたしは、老人の胸のうえで、動かなかった。

喉を、鳴らすのを、やめなかった。

老人の心の臓は、もう、波を、寄せなかった。けれど、わたしは、鳴りつづけた。わたしの喉の、ふるえだけが、しずかな胸のうえで、ひとり、つづいていた。

それが、わたしの、できることだった。

灯を、ともせないわたしの、ともす、ただひとつの、灯だった。

彗星の光が、部屋を、わたっていった。

老人の顔のうえを、わたしの背のうえを、青い箱のうえを、すうっと、なでて、ガラスのむこうへ、すべりおちていった。

そして、海の、いちばん遠いところへ、わたっていった。

星が、海を、わたるまで。

夜が、あけた。

朝の匂いがした。けれど、それは、いつもの朝の匂いではなかった。

竈の火の匂いが、しなかった。湯のわく匂いが、しなかった。老人の、起きる気配がなかった。

わたしは、老人の胸のうえから、おりた。

おりて、老人の顔を、見た。

老人は、眠っているように見えた。けれど、眠りの息が、なかった。寄せて返す波が、なかった。

わたしは、老人の顎に、頭を、こすりつけた。

冷たかった。

けれど、わたしは、こすりつけた。喉を、鳴らした。

それから、わたしは、窓のところへ、行った。

老人が、毎朝、まずすること。窓のところへ行って、海を、見ること。

わたしは、窓に、前足をかけて、海を、見た。

海は、しずかだった。

雪が、やんで、空が、晴れていた。水と空の、境い目が、灰色に、ひかっていた。海鳥が、いた。冬のあいだ、いなくなっていた海鳥が、一羽、いた。岩のうえに、とまって、海を、見ていた。

世界が、すこし、ひろくなっていた。

匂いの世界が、すこし、ひろくなっていた。雪のしたから、塩の匂いが、また、たちのぼってきた。岩の、青い藻の匂いが、もどってきた。

冬が、おわろうとしていた。

老人の冬が、おわった夜に、世界の冬も、おわろうとしていた。

わたしは、いま、灯のそばにいる。

何日が、たったのだろう。猫は、数を持たないから、分からない。けれど、いくつかの夜と、いくつかの朝が、すぎた。

老人は、もう、いない。

ある日、船が、来た。人が、何人か、岬にのぼってきた。彼らは、老人を、はこんでいった。わたしは、岩のかげから、それを、見ていた。彼らの匂いは、薬の匂いに、似ていた。化学の、つめたい匂い。けれど、そのなかに、すこしだけ、生きた、温かい匂いも、あった。彼らは、老人を、しずかに、はこんだ。乱暴では、なかった。

ひとりの人が、わたしを、見つけた。

しゃがんで、手を、のばした。

わたしは、逃げなかった。

その手の匂いを、嗅いだ。老人の手とは、ちがった。けれど、悪い手では、なかった。

「おまえ、ここの猫か」と、その人は、言った。

「一緒に、来るか」

わたしは、その手のことばの意味を、知らない。けれど、その温度は、知っている。それは、わたしを、案じる温度だった。

けれど、わたしは、首を、ふった。

いや、首をふったのではない。猫は、首をふらない。わたしは、ただ、その手から、すこし、しりぞいた。岩のかげへ、もどった。

その人は、しばらく、わたしを、見ていた。それから、立ちあがって、ほかの人たちと、おりていった。

船が、岬を、はなれた。

わたしは、岩のうえから、それを、見送った。

それから、わたしは、灯の世話を、はじめた。

灯の世話を、わたしは、できない。わたしには、手がない。火を、ともせない。油を、つげない。ガラスを、拭けない。

けれど、わたしは、灯のそばに、いる。

夜になると、わたしは、階段を、のぼる。冷たい石が、わたしの骨に、しみる。けれど、わたしは、のぼる。とん……とん……と、老人がのぼったように、ゆっくりと。

灯の部屋まで、のぼって、わたしは、ガラスのそばに、座る。

灯は、ともっていない。

わたしには、ともせないから。

けれど、わたしは、座っている。老人が、毎晩、座っていた、その場所に。

そして、海を、見る。

暗い海を。水と空の、境い目を。

ときどき、わたしは、口ずさむ。

いや、わたしは、口ずさめない。猫は、歌わない。けれど、わたしは、喉を、鳴らす。あの節の、寄せて返すながれに、合わせて。喉を、鳴らす。低く、低く。

眠れ、と、わたしの喉は、鳴る。

眠れ、眠れ、と。

星が、海を、わたるまで。

ある夜、わたしは、ふしぎなものを、見た。

岬の、いちばん下の、岩場のあたりに、灯が、ともっていた。

灯台の灯では、ない。もっと、小さな、あたたかい色の、灯。窓に、ともる、灯のような。

岩場には、なにも、なかったはずだ。家など、なかったはずだ。

けれど、その夜、そこに、小さな、建物のようなものが、あった。窓から、あたたかい灯が、こぼれていた。

わたしは、階段をおりて、そこへ、行ってみた。

近づくと、紙の匂いが、した。

古い、紙の匂い。たくさんの、紙の匂い。長いあいだ、だれかに、読まれてきた、紙の匂い。それから、埃の匂い。木の匂い。ろうそくの匂い。

戸が、すこし、あいていた。

わたしは、なかを、のぞいた。

なかには、本が、あった。たくさんの、本が。壁という壁に、本が、つまっていた。そして、そのなかに、ひとりの、人が、いた。

その人は、年とった、女の人だった。

わたしには、顔は、よく見えなかった。けれど、その人の匂いは、不思議だった。老人にも、似ていた。船で来た人たちにも、似ていた。けれど、どこか、ちがった。

その匂いは、遠かった。

冬のはじめの、あの、遠い匂いに、似ていた。鉄でもなく、雪でもない、わたしの知らないところからやってくる、あの匂い。

その人が、わたしを、見た。

「おや」と、その人は、言った。

「お客さんだね」

わたしは、戸口に、座った。

その人は、わたしを、招きいれは、しなかった。ただ、わたしのことを、しずかに、見ていた。

それから、その人は、棚から、一冊の、本をとった。

ひらいて、なにかを、読んだ。

声に、出して。

それは、あの節だった。

眠れ、眠れ、星が、海を、わたるまで。

その人は、その本のなかに、あの節が、書いてあるかのように、読んだ。けれど、本を、見ては、いなかった。その人の目は、本ではなく、わたしを、見ていた。あるいは、わたしのむこうの、暗い海を、見ていた。

わたしは、その夜、その本のあいだに、片方の、手袋が、はさまっているのを、見た。

毛糸の、小さな、手袋。

子どもの、手袋のようだった。

片方だけ、だった。

もう、片方は、どこにも、なかった。

その人は、わたしの視線に、気づいて、その手袋を、そっと、本のあいだに、しまいなおした。

「これはね」と、その人は、言った。

「片方だけ、残ったものだよ」

「対になるはずのものが、片方だけ、残ることが、ある」

「失くしたほうは、どこへ行ったのか、分からない。けれど、残ったほうが、こうして、覚えている」

その人は、わたしを、見た。

「おまえも、そうだね」

わたしには、ことばの意味は、分からない。けれど、その温度は、分かった。それは、あわれむ温度では、なかった。それは、分かる、という温度だった。おなじものを、知っている者の、温度だった。

わたしは、その夜、その店で、すごした。

紙の匂いと、ろうそくの匂いの、なかで。

朝が、近づくと、その人は、ろうそくを、消した。

そして、わたしに、言った。

「もう、お行き。朝が、来る」

わたしは、戸口を、出た。

岩場を、灯台のほうへ、歩いた。

途中で、ふりかえると、店は、もう、なかった。

岩場には、なにも、なかった。本も、ろうそくも、年とった女の人も、片方だけの手袋も、なにも。ただ、岩と、雪と、塩の匂いだけが、あった。

わたしは、毛が、立つのを、感じた。

けれど、こわい毛の立ちかたでは、なかった。

それから、わたしは、灯台に、もどった。

階段を、のぼった。とん……とん……と。

灯の部屋で、わたしは、座った。

海を、見た。

夜が、あけようとしていた。空の、いちばん下のところが、灰色に、ひかりはじめていた。

そして、海の、いちばん遠いところを、もう一度、蒼白い光が、わたっていくのを、わたしは、見た気がした。

気がした、だけかもしれない。猫は、目が、よくない。とくに、わたしのような、老いた猫は。

けれど、わたしは、それを、見た。

そして、知った。

老人は、あの光に、なったのだ。

あるいは、あの光に、乗って、わたっていったのだ。海の、いちばん遠いところへ。わたしの知らない、遠い匂いのする、ところへ。

そして、いつか、また、巡ってくる。

灯が、めぐるように。

わたしは、いま、灯のそばで、これを、思っている。

ことばで、思っているのでは、ない。わたしには、ことばが、ない。わたしは、匂いで、温度で、気配で、これを、思っている。

老人の手の、温み。

老人の声の、温度。

青い箱の、彫られた、月のかけら。

灯の油の、鋭くて甘い、匂い。

落ち葉の匂いと、薬の匂いと、その奥の、遠い匂い。

寄せて返す、心の臓の、波。

そして、あの、蒼白い、尾をひく、光。

これらが、わたしのなかに、ある。ことばに、ならないまま、ある。ことばに、ならないから、消えないで、ある。

人は、ことばで、覚えるのだろう。けれど、ことばは、いつか、忘れられる。わたしは、ことばを持たないから、忘れない。わたしは、匂いで、覚える。温度で、覚える。匂いと温度は、忘れられない。

だから、わたしは、覚えている。

老人を、覚えている。

朝が、きた。

わたしは、灯のそばで、丸くなる。

灯は、ともっていない。けれど、わたしは、寒くない。

灯の油の匂いが、わたしを、つつんでいる。老人の匂いが、まだ、この部屋に、しみている。階段にも、寝床にも、卓のうえの青い箱にも、老人の匂いが、しみている。

わたしは、その匂いの、なかに、いる。

冬が、おわった。

雪が、とけて、岩から、塩の匂いが、たちのぼる。海鳥が、もどってくる。草が、芽を出し、虫が、土から、出てくる。匂いの世界が、また、ひろがっていく。

わたしも、老いている。

わたしの心の臓の波も、すこしずつ、遠くなっている。寄せて、ひいて、ひいて、なかなか、寄せてこない夜が、ふえてきた。

わたしも、いつか、わたっていくのだろう。

あの、海の、いちばん遠いところへ。あの、蒼白い光の、向かう先へ。

そこには、老人が、いるだろうか。

わたしには、分からない。猫は、そういうことを、考えない。

けれど、わたしは、こう思う。

ことばではなく、体で、こう思う。

もし、そこに、行ったなら。

わたしは、また、老人の足の、いちばん冷えるところに、体を、寄せるだろう。わたしの腹の、いちばんあたたかいところを、老人の足に、押しつけるだろう。

そして、喉を、鳴らすだろう。

ありったけ、鳴らすだろう。

灯が、ともっていなくても。

わたしの喉の、ふるえだけが、ふたりの、灯になるように。

最後に、ひとつだけ。

わたしは、ことばを、持たない。だから、これは、ことばでは、ない。

けれど、もし、これが、ことばに、なるのなら。

わたしは、こう、言いたい。

老人は、最後の夜、わたしに、青い箱を、握らせてもらった。火を、ともすための、箱を。

老人は、火を、ともせなかった。けれど、握っていた。

わたしは、いま、分かる。

老人が、握っていたのは、火では、なかった。

火を、ともそうとした、その心が、火だったのだ。

灯を、ともそうとする心が、いちばんあかるい、灯なのだ。

海のうえに、灯がなくても。

ガラスの部屋が、暗くても。

ともそうとする心さえあれば、そこには、灯が、ある。

わたしは、その灯を、嗅いだ。

老人の、最後の夜に。

落ち葉の匂いの、いちばん奥で。

それは、いままで嗅いだ、どの灯の油よりも、あたたかく、あかるく、灯っていた。

わたしは、老いた猫だ。

人語を、解さない。星を、数えない。明日を、思いわずらわない。

わたしの世界は、匂いと、温度と、気配で、できている。

その、せまい世界の、まんなかに、いつまでも、消えない匂いが、ひとつ、ある。

それは、火を生む、青い箱の匂いでも、ない。

灯の油の、匂いでも、ない。

それは、わたしの背を、首から尾のつけねまで、ひとなでした、あの手の、匂いだ。

塩と、煤と、灯の油と、それから、古い木のような、すこし甘い、すこし苦い、あの手の匂い。

その匂いが、来ると、わたしの喉は、いまも、ひとりでに、鳴る。

たとえ、その手が、もう、ここに、なくても。

わたしは、喉を、鳴らす。

眠れ、と。

眠れ、眠れ、と。

星が、海を、わたるまで。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 子守唄
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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